北区歴史と文化の八十八選(文学と学問の道)
 1.有島武郎邸跡 番外.ニュートンのリンゴ 2.旧札幌中学校「発祥の地」碑 3. 石川啄木の下宿跡 4.朔風 5.偕楽園跡 6.清華亭 7.新選組隊士永倉新八来訪の地 8.佐藤昌介像 番外.石碑「大志を抱いて」 9.北海道大学百年記念会館 10.サクシュコトニ川 11.ウィリアム・S・クラーク像 12.古河記念講堂 13.旧札幌農学校校舎 番外.七大戦茲に始まるの碑 14.小麦研究記念碑 15.北大ポプラ並木 番外.第一農場 番外.新渡戸稲造の銅像・草木園 16.「人工雪誕生の地」碑 17.北大イチョウ並木(別ページ) 18.母子像 19.恵迪寮歌「都ぞ弥生」歌碑 番外.桑園学寮記念碑 20.北大遺跡保存庭園 21.北海道大学農学部第二農場 番外.工専学舎跡記念碑 22.キノルド資料館

 ポイント
 札幌市北区役所では区内にある文化遺産の中から88か所を選定し「北区歴史と文化の八十八選」として散策路を作っている。コースは@文学と学問の道(鉄西・幌北:1〜22)、A水辺と開墾の道(北・新川・新琴似・麻生:23〜44)、B森と歴史の道(屯田:45〜61)、C農村文化発祥の道(太平・篠路:62〜78)、D藍の道(篠路・拓北・あいの里:79〜88)の5つある。
文学と学問の道:鉄西・幌北コース
=風景写真をクリックすると大きなサイズになります=
 1.有島武郎邸跡(札幌市北区北12条西3丁目) <'09.8.20> 周辺地図
 サイクリングの途中、地下鉄北12条の東側に、有島武郎邸跡の石碑を見つける。石碑には”「細君は中々よいものさ 君も早く結婚し給へ」と仰有るやうに 私はなりたい。有島安子遺稿集「松むし」より”と彫られていた。石碑に横には銅版の解説文が埋め込まれていた。有島武郎邸の写真があり、その下には”この家は、現在、札幌芸術の森に復元されています。”と書かれていた。
有島武郎邸跡石碑 碑文 解説文 有島武郎邸
 文豪・有島武郎は、大正二年(一九一三)八月から、安子夫人の
療養のために東京に移転する大正三年(一九一四)十一月までの間、
この家に住んだ。この間に三男・行三が生まれ、有島にとっては家庭
的に幸福な時期であった。
 有島没後七十年に当る本年、自ら設計したといわれる有島の家が
この地にあったことを永く伝えるために、北酒販鰍フご厚志によ
り場所の提供を受けて、有島邸跡を伝える碑を建立するものである。
   建   立   平成五年十月
             北区歴史と文化の八十八選保存会
             星 座 の 会
             北海道酒類販売株式会社
             札  幌  市
   制  作    彫  刻  家  坂   担 道
   碑文・題字の揮毫 北海道大学総長 廣 重  力
 番外.ニュートンのリンゴ(札幌市北区北12条西3丁目) <'09.8.20> 周辺地図
ニュートンのリンゴ 解説文
 有島武郎邸跡記念碑の傍に、一本のリンゴの木が植えられていた。その傍に、解説文も付いていた。ただのリンゴの木ではないと思い、読んで見ると「ニュートンのリンゴの木」だった。
 そう言えば、学生時代、ニュートンのリンコの木からウイルス除去を行っているようなニュースがあったような思いがした。
    記念樹 『ニュートンのリンゴ』
 今から300年余り前、イギリスの物理学者ニュートン(1643〜1727年)
は、リンゴが木から落ちるのを見て「万有引力」を発見したことは有名です。
 その木は、後にミドルセックス国立物理研究所に移設され、接木により代を重ね
て今日に至っております。
 日本への由来は、1965年(昭和40年)故 柴田 雄次 東京大学名誉教授が
記念樹として同研究所からその分身を譲り受け、同大学植物園で隔離栽培を行い検
疫検定を経て、日本で栽培される木として晴れて自由の身となりました。
 この事が新聞紙上に報道されるに及び、深川市がリンゴ栽培90年の記念樹とす
ることを計画し、北海道大学 農学部を通じて分譲依頼を行った結果、1982年
(昭和57年)3月にその苗木が深川市に導入されました。
 このリンゴの木は、同市 小森 正規氏の果樹園でその木から穂木を取り育成さ
れたもので、まさに「ニュートンのリンゴ」の分身であって、1995年(平成7年)
5月にこの地に移植されたものです。
 なお現在、北海道には同様にして育成された「ニュートンのリンゴ」が宇宙飛行士
毛利 衛氏の出身校 余市町 黒川小学校にも植栽されております。
                     北海道大学名誉教授
                   農学博士 田村 勉(記)
 2.旧札幌中学校「発祥の地碑」(札幌市北区北11条西3丁目) <'13.6.28> 周辺地図
 何回も、通り過ぎてしまったビルの谷間に石碑を発見する。ブロックの絵は駐輪禁止の看板立ての下に、石碑は、駐輪禁止警告の看板と自転車の間に、ひっそりと佇んでいた。 解説板には、在りし日の校舎の写真が貼られていた。
石碑 ブロックの絵 解説板 碑文
 本の形をした副碑には、歴史が刻まれていた。考えて見ると、札幌農学校が隣にある環境から、当時は田舎だった18条に移転したのかと、疑問が湧いている。
副碑
この地は明治二十八年(一八九五)四月
札幌尋常中学校誕生の地で、その後
札幌中学校・北海道庁立札幌中学校
同札幌第一中学校と改称され、大正十一年
(一九二二)七月南十八条西六丁目に移転
するまで三千余名が質実剛健・
堅忍不抜の精神に鍛えられ、
各界に雄飛し社会に貢献した。
よって母校を偲び三百二十余名の同窓生
有志が、篤志者および藻岩会の
後援によりこの記念碑を建立した
 昭和五十八年(一九八三)九月十七日
 4.朔風(札幌市北区北6条西7丁目 自治労会館横) <'09.9.22> 周辺地図
 看板には「北風に逆らい前進を続けるエネルギーと、くじけることを知らない強固な勇気、働くもののたくましさと気迫を表現しています。昭和55年(1980年)建立 作家 本田明二 題字 森尾f」と書かれている。 台座前に立派な石碑があり「北海道自治労会館竣工記念 1980 題字揮毫 自治労道本部委員長 森尾f 彫刻制作 本田明二」と彫られて何か違和感を感じる。第一印象は題字「朔風」を委員長が書き、それを本田さんが彫ったように感じたからだった。一般的には製作者が上に書かれるのだが、所有物を展示しているという感覚なんだろうか。
正面 案内板 自治労委員長の碑
 6.清華亭(札幌市北区北7条西7丁目) <'08.6.25> 周辺地図
 サイクリングの途中に、北大の南側にある「清華亭」を覗く。学生時代には目の前にありながら一回も見たことがなかった。薄暗い公園の中に「清華亭遊園」の看板だけがやけに浮き出ていた。看板に引かれて、公園の中に入ると、下見板張りの「清華亭」の建物が見えて来た。出窓がある所を見ると洋館のようだ。門の所に設置されている看板を見たら、「偕楽園」という和洋折衷の公園跡で、サケマス孵化場もあったと記されている。今は、その面影は全く無い、ただの公園だった。門から中に入ると「明治天皇札幌御小休所」と彫られた石柱が立っていた。
清華亭遊園の看板 清華亭 出窓の正面 明治天皇札幌御小休所
 「清華亭」の正面玄関に回ると、玄関先に受け付けがあり、来客のセンサーはあるが、誰も居ないので、暫く躊躇したが、記帳して中へ上がらせて頂く。すると、係員が出て来たので、写真を写して良いかと尋ねると、良いとの返答だった。正面の和室に入ると、天井が高く、天井長押、天井材を支える太く丈夫な竿縁、太い長押と、時代劇で忍者が張り付くには十分な造りだった。採光のための欄間(らんま)も懐かしい。床の間は、床柱(とこばしら)、床框(とこがまち)、落掛(おとしがけ)、にらみ柱と何れも白木で素朴な感じだった。本床の横には、今は見られなくなった天袋、地袋の付いた床脇があった。
正面玄関 和室 竿縁・長押・鴨居 床の間
 廊下に出ると、北海道らしく縁側はガラス戸に守られている。廊下を見ると、縦方向に張った「くれ縁」で、板の継ぎ目を見ると、柱に接する一枚だけが、合わせられ他はドン突きになっていた。洋間を見ると、出窓(ベイウインドー)が洒落ていて、中に入るとシャンデリアが頭の上にあった。シャンデリア基部のシックイで造られた天井中心飾り(メダリオン)も綺麗だった。
廊下 廊下の継ぎ目 出窓 シャンデリア
 窓は北海道らしく二重窓になっている。小壁には「清華亭」の額が飾られ、その下には「有島武郎」等の紹介パネルが展示されていた。
 昔の雰囲気に浸りながら、玄関を出て振り返ると、玄関の上の切妻飾りは十字に見えていた。良く見ると、開拓使の記章の☆が透かし彫りされていた。煙突は新しくしたようにも見える。
二重窓 正面玄関 煙突
 7.新選組隊士永倉新八来訪の地(札幌市北区北9条西5丁目 北海道大学正門北側) <'09.8.10>
 周辺地図
北大正門の北側(大×) ブロックの絵 立て看板
サイクリングの途中で、北大の正門北側にある看板が目に止まった。
       F新選組隊士永倉新八来訪の地
 旧幕臣・新撰組副長助勤・永倉新八(天保10年=1839年=4月11日生まれ)は、
徳川幕府崩壊後は杉村義衛と改名して大正年間まで生きた。有名な京都池田屋
戦のときは幕府から感謝状をうけるなど抜群の働きをした。
 土方歳三、沖田総司とならぶ剣客。晩年は北大剣道場などで剣道の型を指南。
各地を歴訪するなど悠々自適の生活を送った。「武士乃節を尽くして厭くまても貫現
竹の心一筋」の歌を残して、大正4年(1915年)1月5日、小樽の自宅で行年77歳
を一期にその劇的な生涯の幕を閉じた。
 新八ゆかりの道場は現北大本部北西に位置していた。
                            札幌北区役所
 8.佐藤昌介像(札幌市北区北9条西5丁目 北海道大学構内) <'09.8.10> 周辺地図
胸像 説明文
 北大の正門から中へ入ると、本部前に胸像が目に止まる。近づいてみると北大の初代総長とのこと。胸像は二代目で、一代目は戦時供用されたと言う。
        G佐藤昌介像
札幌農学校第1期生としてクラーク博士の薫陶を受け、後
に同校校長となる。明治40年(1907年)、同校が東北帝国大学
農科大学に昇格して学長に就任。さらに大正7年(1918年)、
北海道帝国大学発足と同時に初代総長となる。
 帝国大学の昇格に尽力し、「北大育ての親」と言われる。
 胸像は、昭和7年(1932年)に氏の業績を称えて建立され
たが、クラーク像と同じように昭和18年(1943年)の金属回
収令により献納。
 現在は二代目で、昭和31年に再建された。いずれも加藤
顕清作。
               札幌北区役所
 番外.石碑「大志を抱いて」(札幌市北区北9条西5丁目北海道大学構内)<'09.8.10>周辺地図
石碑 説明文
 佐藤昌介像の後には「大志を抱いて」と彫られた大きな岩があり、近づいてみると、傍に、説明文があった。
 どうやら、本部のある所には、昔、予科があったようだ。この岩も、ただの岩ではなく、アポイ岳のかんらん石だと書かれていた。
     北海道大学予科記念碑
 北海道大学予科は、1907(明治40年)、札幌農学校
が東北帝國大學農科大学に昇格したときにその大學
豫科として発足。学年定員は100名。生徒は三年間
の在学ののちに本科(農科大學)の各学科に進んだ。
札幌農学校の校章であった桜星章がひきつがれて
豫科の帽章となる。翌年、校舎が現北大事務局の
位置に落成した。
 1918年(大正7年)、北海道帝國大學の発足により
その豫科となる。第二次世界大戦後の1947年(昭和22)
念には帝國大學の呼称廃止により北海道大學豫科と
なり、新制大学の発足にともない、1950(昭和25)年
に豫科は43年の歴史を閉じた。学年定員は1941
(昭和16)年以降400名。閉校までに11100余名が
ここで学んだ。
 この北海道大学予科記念碑は、札幌農学校から
ひきつがれた予科の伝統と足跡を記念し、あわせて
北海道大学の大いなる発展を祈念して、かっての
予科生と多くの有志の醸金によって建立された。
          かんらん岩
 アポイ岳はかんらん岩の山です。日高山脈の生成期に、
地下数十キロメートル以上深部の上部マントルから地表ま
で押し上げられてできました。かんらん岩は上部マントル
を構成する主要な岩石で、主にオリーブ色のかんらん石か
らなり、それに褐色の斜方輝石、濃緑色単斜輝石、黒色の
スピネルが含まれています。このかんらん岩には、かつて
高温高圧の下にあった上部マントルの姿を、そのまま見る
ことができます。
 9.北海道大学百年記念会館(札幌市北区北9条西6丁目北海道大学構内)<'09.8.10>周辺地図
百年記念会館 説明文
 百年記念会館は、まだ、新しいので、違和感があるが、展示物に歴史を感て欲しいと言うことのようだ。
 H北海道大学百年記念会館
 この建物は、昭和51年(1976年)の北大創基百周年の記念
事業として、昭和53年に建てられた。館内の1階ロビーには
百年史を解説する写真や多くの資料を展示している。2階には
小会議室と和室があり、教職員や同窓生が気軽に利用して
いる。
 会館南側の庭園にある池は、今は人工池だが、かつては豊
富な湧水があり、このあたりに放牧された牛たちが頭を触れ
合いながら水を飲んでいたと言われている。
           札幌市北区役所
 10.サクシュコトニ川(看板の位置:札幌市北区北11条西7丁目 北海道大学構内) <'09.7.23>
 看板の位置
 学生時代の中央ローン(central lawn)は最っと明るく、裸地が目立っていたと思うが、今は、木が茂り、潤いのある空間になっていた。中央ローンの真ん中には、川とは呼べなかった窪みがあっただけだが、今は、水が流れている。
                                         ←大
サクシュコトニ川が流れる中央ローン(火気厳禁)
 不思議に思って川上に近づいて行ったら、「メム」が復活して勢い良く綺麗な水が湧き出していた。またまた、不思議に思って調べて見たら、2004年11月に藻岩山の発電所から水を引いたようだ。サクシュコトニ川の一部は暗渠の中だが、川沿いに遊歩道が付けられている。別な日に、北へ辿ってみたら、弓道場の所に看板が立っていた。
サクシュコトニ川 メム風の湧水口 説明板 細く暗い流れに
           サクシュコトニ川の由来
 この川名の原点を辿ると、先住アイヌの人達が次のような意味合いで表現
した言葉に由来するという。サクシュは、浜の方を通るて、浜はこの場合
豊平川岸の事。コトニはくぼ地。意訳すると「くぼ地を流れる川のうち、
豊平川に最も近い川」となる。
 古来、豊平川扇状地の伏流水は再び、湧水(メム)となって市内各所で噴出して
いたようで、この川の水源も現在の北大植物園北側になる伊藤氏邸宅敷地内の
湧水だったという。
 流れは大きく蛇行しながら北に向かい、途中札幌市の有形文化財「清華亭」
付近の湧水と合流し、図のようにクラーク会館の東側から北大構内に入り、
今の中央ローンから更に北上して流末はコトニ川(現琴似川)に注いでいた。
 当時は、清流も豊かでサケが遡上したとも言われているが、都市化が進むにつれ
1951年(昭和26年)頃から徐々に水量が減り始め、やがて涸れ川となってしまった。
 とは言え、この川は洪水等の災害にも備える指定河川だあったため、その後
暫くは原形を保っていたが、市内の公共下水道がほぼ整備された頃、1974年
(昭和49)に研究農場の実験水田付近から上流は河川としての用途を終え、
翌1975年(昭和50)11月にその用地が北大に移管されたのを機に、一部は旧
河道を活用した人工的な水辺環境や、遊歩道等を整備し、緑豊かな北大構内
を広く市民の人々にも開放してきた。
 一方、北方面の下流域は、その後もサクシュコトニ川として存続し、殆ど
現風景のままで自然水や灌漑用水路として利用されているが、「遺跡保存
庭園」北端から流末の約300mは、「環状通エルムトンネル」工事に関連して
改修された。
 この頃、1998年(平成10)札幌市による「水と緑のネットワーク」整備
構想として、藻岩浄水場とサクシュコトニ川を水路で結ぶ案が浮上、北大も
それに賛同し実現するため、廃止河川の埋め立て部分を可能な限り開削し、暗
渠水路併用で現河川と結ぶ事にしたのである。
 現在地は、廃止されたサクシュコトニ川の中間付近に位置しており、中央
道路下の「伏せ越し」部分を含めて約190m上流区間は、2001年(平成13年
8月の「北海道大学創基125周年」を記念して集められた浄財により、河川
廃止以前の雰囲気に蘇生されたものである。
 中央道路を横切るとサクシュコトニ川の下流に位置する「大野池」周辺はすっかり綺麗になっていて遊歩道まであった。
大野池
 sakushukotoniサクシュコトニ川 番外編 (札幌市北区北18条西13丁目北海道大学構内)<'08.11.13>
 周辺地図
 「石山通」と「環状通」の交差する南東を見ると看板が目に付いた。近づいてみると「サクシュ琴似川」の今昔が記されていた。それに並んで、自生する樹木と植樹された樹木が解説されていた。周囲は湿地になっていて、冬枯れの時期だが「恵迪寮」から木道が延びている。その先に「サクシュコトニ川」が暗渠に入り、新川へ合流する北端の場所があった。
川の今昔 樹木の解説 湿地の木道 サクシュコトニ川北端
看板「サクシュ琴似川」の記述内容
  古資料のどの記録にも載せられており、コトニ川筋の中で一番東側をながれていた川です。
 アイヌ語では、「サ」浜の方・「クシュ」通る、と言った意味があり、サ・クシュ・コトニ川=浜の方(豊平川に近い方)・を通る・コトニ川といった意味であると解されています。※コトニの語源は「コッ・ネ・イ」(窪んで・いる・ところ)と解されています。
 再 生
 サクシュ琴似川は、かつて、北海道大学附属植物園付近にあったメム(湧泉)を源として、北流して偕楽園(明治時代に開拓使が整備した公園:現在の清華亭付近のメムと合流して北海道大学構内を流れ琴似川に流下していました。
 メムの水量はサケが紀遡上するほど豊かで、開拓当時は偕楽園内にサケのふ化場が設置されていましたが、都市化の進展によりメムは枯渇し、サクシュ琴似川のせせらぎが失われたことにより、北海道大学構内では河道が埋められた区間もありました。
 北海道大学では、創期125周年記念事業として、キャンバス内の河川を再生する「サクシュ琴似川再生事業」を計画し、札幌市でもこの事業と連携して、”多彩な生態系を育む水辺の復元”を目指してサクシュ琴似川の下流で河川整備を行い、また、維持用水を導入するなどし、かつてのような清流を復活させることにしました。 札幌市建設局土木部
看板「サクシュ琴似川の植物」の記述内容
明治時代の植生
落葉樹が多く、沢沿いなどやや湿った土地を好むヤナギやクルミ、カバノキの仲間が多く生育していたと考えられます。
オニグルミ 夏から秋にかけて直径3cmほどの果実が房になって垂れ下がる。果実の中には「クルミ」が入っており、食用となる。(クルミ科)
カツラ 樹皮は暗灰褐色で縦に薄くはがれる。円い形の葉が特徴で、しばしばハート形にもなる。秋に黄葉した葉からは甘い香りがする。(カツラ科)
ドロノキ 雌雄異株で、春先に葉が開く前に紐状の花穂は赤い。材がやわらかく泥のようで役に立たないことから名がついたとされる。(ヤナギ科)
ハルニレ 葉の基部が左右非対称で、表面がざらつく。果実は扁平で翼がある。英名でエルムと言い、北大には巨木が多く残されていることから「エルムの学園」とも呼ばれる。(ニレ科)
ハンノキ 樹皮は暗灰色で不規則に浅くはがれる。葉の開く前に開花し、秋に卵型の果実を実らせる。実や樹皮を染料に用いる。(カバノキ科)
ミズナラ 葉は先端が急に広がる独特の形をしている。コナラによく似ているが、葉柄がごく短く、目立たないことが特徴。材に水分が多いことから、この名がついた。(ブナ科)
整備により植栽された植物
明治初期の植生に近い植物を植栽するとともに景観面を重視した植物もあわせて植栽しました。
イタヤカエデ 葉は掌状に5-7裂し、長い柄がある。秋に黄葉する。名は「板屋楓」の意味で、葉がよく茂り、板張りの屋根のように見えることからつけられたとされる。 (カエデ科)
エゾノコリンゴ ズミによく似ているが、葉に切れ込みがない。5-6月に白色の花が咲く。果実は1cmほどの球形で長い柄があり、秋に赤く熟す。(バラ科)
エゾヤマザクラ 葉が開くのとほぼ同時に淡紅色の花が咲く。材は赤褐色で建築材などに用いられる。オオヤマザクラともいう。(バラ科)
シラカンバ 樹皮は白色で薄い紙状にはがれる。葉は三角形に近い卵形で秋に黄葉する。北海道では平地にも普通に生育。(カバノキ科)
ナナカマド 初夏に枝先に白い小花を沢山つけ、実は秋に赤く熟す。葉は秋に紅葉する。名の由来は、7回かもどにいれても燃え尽きないことによるという。 (バラ科)
ヤチダモ 葉の基部に褐色の毛が密生する。雌雄異株で、枝の先に円錐形に小花を沢山つける。材は建築や器具材に広く利用されている。(モクセイ科)
札幌市建設局土木部
 11.ウィリアム・S・クラーク像 12.古河記念講堂 (札幌市北区北9条西7丁目 北海道大学構内) <'08.6.25>
クラーク像(大×) 古河記念講堂
 中央ローンから出ると、「クラーク像」があるが、観光客は全く居ないので愛棒に記念写真を写してもらう。道を挟んで北側には歴史を感じる洋風建築の「古河記念講堂」が建っている。
 札幌農学校の教頭として来日したクラークの「Boys be ambitious」はあまりにも有名だ。
 <'08.6.25>  周辺地図 
 13.旧札幌農学校校舎(札幌市北区北9条西8丁目 北海道大学構内) <'08.6.25> 周辺地図
 西側には農学部があるが、木が茂っていて見通しが利かない。懐かしい建物を見ようと、農学部前の道を辿ると、真ん中の碑文が欠落したように見える石碑が建っていた。石碑には「聖蹟」と彫られているが、第二次世界大戦の忘れられた遺物のようだ。「札幌農学校」が仮の大本営になり、天皇陛下が滞在した歴史があるという。「札幌農学校」の校舎はこの石碑の後にあり、すっかり綺麗になってしまい歴史的な建物のイメージが無い。今は「交流プラザ」と言うようだ。さらに、奥に進むとエルムが綺麗な農学部の前庭にたどり着く。次に、エルムの森を通り、理学部の方向を目指すと、年代物の「建物昆虫標本館」が見えた。理学部前を通ると、現在は博物館になっていた。浦島太郎状態になる。
農学部前 聖蹟碑 農学部の前庭 昆虫標本館
 番外.七大戦茲に始まるの碑(札幌市北区北9条西8丁目 北海道大学構内) <'18.6.21> 周辺地図
農学部前
 石碑はクラーク会館前の農学部寄りに建立されている。碑文には「七大戦茲に始まる/1960〜61年北海道大学体育会・・・・・・2011年7月吉日/北海道大学 東北大学 東京大学 名古屋大学 京都大学 大阪大学 九州大学 学士会」と刻まれている。
 14.小麦研究記念碑(札幌市北区北10条西10丁目 北海道大学構内) <'10.6.27> 周辺地図
記念碑 看板
 看板を見ると「北海道大学の農場には、札幌農学校時代から麦類の種ならびに品種が多数集められてあった。坂村徹博士はこれらについて研究し、はじめて小麦の正しい染色体数を明らかにした。引き続き木原均博士は、小麦種間雑種の細胞遺伝学的研究を行い、この領域に新しい時代を画した。
 ここは、木原均博士が小麦の研究を開始した地点であり、北海道大学創基百年に際して同門相図りこの記念碑を建立した。 昭和51年(1976年)建立」
と書かれていた。碑の前にも同じ内容のプレートが嵌め込まれている。
 15.北大ポプラ並木(札幌市北区北11条〜12条西10丁目 北海道大学構内) 周辺地図
 <2008(H20).6.25>
 第一農場の東側には有名なポプラ並木がある。入口の説明板は、平成16年9月の台風18号で倒壊した木で作ったようだ。ポプラ並木をゆったりと散歩していると、何処からか恵迪寮の寮歌でも聞こえそうな気分になる。
ポプラ並木の看板 ポプラ並木
 <2018(H30).6.21>
看板 ポプラ並木
 10年を経て再び訪れて見たら、少し木々が茂って来たような感じがした。
 ポプラ並木の右側に水田があったが、今は無いようだ。
 番外.第一農場(札幌市北区北11条〜12条西10丁目 北海道大学構内)<'08.6.25> 周辺地図
第一農場
 恵迪寮歌の一節に♪羊群声なく牧舎に帰り、手稲の頂き黄昏れ込めぬ・・とあったので、手稲山を見ようと思ったら第一農場からは大きなマンションが建ってしまい、もはや望むことは出来なかった。何かを失ってしまったかのような気分で、ウッドチップが敷かれた道を帰る。
 番外.新渡戸稲造の銅像・花木園(札幌市北区北11条〜12条西10丁目 北海道大学構内)<'08.6.25> 周辺地図
新渡戸稲造 花木園 湿地
 ポプラ並木の傍には「新渡戸稲造」の銅像が建てられている。その傍を通って、バラの咲く花木園に入ってみた。奥には湿地があるが、花の時期は過ぎてしまったようだ。
 16.「人工雪誕生の地」碑(札幌市北区北12条西8丁目 北海道大学構内) <'09.8.10> 周辺地図
看板
看板を見ると「低温研究の前身となった理学部常時低温実験室(昭和11年頃)人工雪の結晶を撮影するのは中谷宇吉郎博士。」と書かれていた。
 18.母子像(札幌市北区北14条西5丁目 北海道大学構内) <'11.11.4> 周辺地図
母子像 看板
 大学病院の柵が回った庭の中にあり、入って良いのか迷う。
 19.恵迪寮歌「都ぞ弥生」歌碑(札幌市北区北16条西9丁目北海道大学構内)<'08.6.25>周辺地図
 次に、恵迪寮の歌碑を尋ねて、恵迪寮を目指すと、道端に「恵迪寮歌歌碑」が出て来た。「都ぞ弥生」の碑文には「横山芳介作詩 赤木顕次作曲 明治四十五年恵迪寮寮歌 都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊の筵 盡きせぬ奢に濃き紅や その春暮ては移らふ色の 夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸 想ひを載せて 星影冴かに光れる北を 人の世の 清き国ぞとあこがれぬ」と5番ある内の1番が刻まれていた。
 次に、恵迪寮跡の「寄宿舎跡の碑」が現われる。碑文は送り仮名がカタカナで昔風だ。
恵迪寮歌歌碑 碑文 寄宿舎跡の碑 碑文
 番外.桑園学寮記念碑(札幌市北区北9条西9丁目 北海道大学構内) <'09.8.10> 周辺地図
看板
 碑文には「北海道大学桑園学寮は、昭和24年/札幌市北3条西14丁目に創設され、/昭和36年北海道大学構内のこの地に/移転した。昭和58年3月その歴史を閉じたが、/その間学部男子学生512名がその青春を/謳歌した。/平成11年10月 記念碑建立委員会」と刻まれている。
 20.北大遺跡保存庭園(札幌市北区北17条〜18条西11丁目 北海道大学構内) <'08.6.25>
 周辺地図
 次に、「遺跡保存庭園」がグランド脇の奥にあったので寄ってみる。入口には門柱があり、中に入ると草を刈ったばかりだったので、竪穴住居跡の窪みの遺跡が見えた。遺跡をぬうように小道が延びているが、カラスの縄張りになっていて、歩くのが怖い。
遺跡保存庭園 門柱 遺跡 小道
 カラスに突付かれないうちに、早々に帰る。途中、青空を見上げるとニセアカシアの白い花が綺麗だった。ニセアカシアは外来種で北海道に根付いてしまったが、保存庭園内は原始のままに保存するということで、立派に市民権を得てしまっている。やがて、アカシアの林になってしまうかもしれないと思いながら、恵迪寮に向かう。学生で活気付いている恵迪寮を一周しようかと奥へ進むが、「○○保管庫」でお終いになる。仕方が無く、帰ろうと「平成ポプラ並木」を辿り学外へと向かう。途中に、カウハッチにしては立派な小屋と牛の群れ越しにJRタワーが見える。目を転じれば、ビル越しに藻岩山が望めた。「平成ポプラ並木道」の延長線上には三角山(琴似山)が望める。
ニセアカシア 遺跡 牛群とJRタワー 藻岩山を
 21.北海道大学農学部第二農場(札幌市北区北18条西8丁目 北海道大学構内) <'09.8.10> 周辺地図
 北大の北側に、鉄柵で囲まれた第二農場がある。柵には「重要文化財」の看板が付けられている。どうやら、冬以外は公開されているようだが、今日は既に日没間近になってしまった。モデルバーンやレンガ造りの建物も写すが暗くて写真にならない。
農場の建物 農場の建物 モデルバーン レンガ造りの建物
            重要文化財
 当会場内の諸建造物(9棟)はウイリアム・S・クラーク先生の大農
経営構想のもとに明治10年から翌11年に建てられた模範家畜房
(モデルバーン)を中心とした農場施設を明治42年から明治44
年にかけて旧農学校第2農場(現図書館北側)から現在地へ移築あ
るいは新築したものである。当該諸建造物は明治の洋風建築として
建築技術史上価値あるもので、また当時の酪農経営を知る貴重な資
料であることから昭和44年8月国の重要文化財の指定を受けている。
 番外.工専学舎跡記念碑(札幌市北区北11条西5丁目 北海道大学構内) <'09.7.23> 周辺地図
 西5丁目樽川通り(北大の東端)の道を自転車に乗っていたら、生垣越しに、背中を向けた石碑が見えた。自転車を停めて、中にはいると立派な石碑があり、碑文も書かれていた。
   学舎跡工専記念碑
この地に 北海道大学付属土木
専門部の学舎があった
 この学舎から 千余命の土木エ
ンジニアが巣立ち 北海道の開拓
は勿論 国の内外に雄飛して各界
に活躍 その使命を果たした
 昭和二十四年 学制改革により
土木専門部は室蘭工業大学の包括
校となり その伝統は土木工学科
に継承されて今日に至っている
 明治二十年 土木専門部の前身
である工学科が札幌農学校に開設
されて百年を迎えるに当り志を
同じくして相集い 共に学んだ同
窓諸氏の業績を顕彰し この地に
碑を建立する
   昭和六十一年十月
   札幌工学同窓会
記念碑
碑文
 22.キノルド資料館(札幌市北区北16条西2丁目 藤学園内) <'11.11.4> 周辺地図
 学校法人藤学園の門を入ると、玉ねぎの形をした尖塔が目立つキノルド資料館が見られる。開館時間は13:00〜16:00(月・水・木・金)となっていて、入ることが出来なかったが、外側から尖塔を見上げたり、上下に開閉する窓を眺める。
資料館 尖塔 上下に開閉する窓 看板

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 二人の散歩路記録
 2018.6.21(木) 曇り時々雨 N他番外2
 2013.6.28(金) 晴れ A
 2011.11.4(金) 晴れ Q 22
 2010.6.27(火)曇り M
 2009.8.20(木)曇り @
 2009.8.10曇り FHO21
 2009.7.23(木)曇り 工専学舎跡 GI
 2008.11.13(木)曇り
 2008.6.25(水)晴れ EFJLR20