北区歴史と文化の八十八選(水辺と開墾の道)
 24.いのち 25.札幌飛行場正門跡と「風雪」碑 26.力士若勇碑 27.馬頭大神 28.新川緑地 29.新川開基百年記念碑 30.近藤牧場 31.安春川の水辺と散策路 32.新琴似屯田兵屋 33.屯田兵もやい井戸跡 番外.新琴似神社 34.東繁造君学勲碑 35.新琴似兵村記念碑 36.馬魂碑 37.吹田晋平歌碑 38.百年碑 39.新琴似屯田兵中隊本部 40.拓魂碑 41.開村記念碑 番外.忠魂碑・殉国●●碑 42.歌人・若山牧水来訪の地 43.新琴似歌舞伎の跡地 44.
帝国製麻琴似製線工場跡

 ポイント
 札幌市北区役所では区内にある文化遺産の中から88か所を選定し「北区歴史と文化の八十八選」として散策路を作っている。コースは@文学と学問の道(鉄西・幌北:1〜22)、A水辺と開墾の道(北・新川・新琴似・麻生:23〜44)、B森と歴史の道(屯田:45〜61)、C農村文化発祥の道(太平・篠路:62〜78)、D藍の道(篠路・拓北・あいの里:79〜88)の5つある。
   枠の中は平成15年4月札幌北区役所が作成した看板の内容です。
 北・新川・新琴似・麻生コース
=風景写真をクリックすると大きなサイズになります=
 24.いのち(北25条西7丁目 若草公園内) <’09.7.23> 周辺地図
 サイクリングの帰り、若草公園にさしかかると母親と子のブロンズ像が目についた。回りは花壇になっている。
北側から 南側から
  24 いのち
 悲惨な事故が二度と起きないようにとの願いをこめて建立
された交通安全祈念の象。
 この「いのち」の像は昭和52年(1977年)に建立されたが、
10年にわたる風雪で腕や足に亀裂が入るなど傷んできたた
め、昭和63年にブロンズで作り直したもの。
 母とその両手に抱かれ、もみじの葉のような手を広げ大空
を見上げる幼児の姿は、見る人の心を強く引きつける。
 作家 坂 担道
 キーワード 空
 25.札幌飛行場正門跡と「風雪」碑(北24条西8丁目)<’09.7.23> 周辺地図
 サイクリングの帰りに宮の森北24条線(環状線:道道89号線)の北区役所を通過したら、歩道にはみ出している門柱が見えて来た。
 近づくと解説板があり、札幌飛行場正門跡とのことだった。足元には複葉の飛行機が飛んでいた。隣りには、ブロンズ像があり、プロペラと言われなければ分からない中に、飛行士の顔が覗いていた。それにしても、昔の地場企業は地元に根付いていたのがよく分かる。現代の、中国栄えて日本衰退の構図と似ているような気もする。
 25 札幌飛行場正門跡と「風雪」碑
 ここにある2基の門柱は、かって道内ではただひとつ東京への定期航空路を持
っていた札幌飛行場正門の跡である。この飛行場の歴史は大正15年(1926年)、
旧北海タイムス社が報道用のため、北24条以北を滑走路として使用したことに
始まる。昭和8年(1933年)、逓信省はこれを含めて拡張、53万平方メートルの
広大な飛行場とした。今井百貨店の屋上にすえつけられた航空灯台は、夜間飛行
のための指標であった。昭和20年(1945年)終戦の年、札幌飛行場は閉鎖さ
れた。また、隣りには同飛行場をしのぶプロペラ型のブロンズ像「風雪」碑がある。
これは、昭和62年(1987年)に彫刻家の「坂担道」さんが製作したものである。
札幌飛行場正門跡 解説板と門柱 インターブロックの絵 風雪」碑
 26.力士若勇碑(北24条西19丁目 新川橋の袂)<’08.3.25> 周辺地図
若勇碑と手稲山
土俵と軍配
 札幌市街に自転車で行く途中、新川の右岸沿いの道を走っていると、新川橋の袂にある1つの碑が目に付いた。看板を見ると「北区歴史と文化の八十八選」とある。看板に書かれた内容を見ながら、遠くを見ると何時も見慣れた手稲山があった。
 26力士若勇(ワカイサミ)碑 
 かっての新川地区は純畑作農村で、当時村人によって収穫
時に祭典が行われた。その主要行事の一つに奉納相撲があった。
 この碑の「若勇関」は、大正2年(1913年)、25歳で富山県
から本道に来て琴似村新川地に住居を持った。本名を前谷省
三といい、素人相撲ながら大関を張り、その豪快な取口は人
々の話題をさらったと言われている。また、「若勇関」は、
当時としては大型の農業を営み、新川地区の農業の基礎を作
ったと言われている。
 農民として、また力士としての功績を称えてのがこの「力
士・若勇碑」である。大正10年(1921年)、相撲を引退した
記念に建てられた。新川地区の農業にも貢献しました。
 27.馬頭大神(新川3条13丁目 新川皇太神社境内)<’08.3.25> 周辺地図
 新川皇太神社境内の左奥に鎮座していた。平成元年10月に改修されたようだ。
馬頭大神
 27 馬頭大神
 馬は農家にとって開拓の蔭の功労者であった。馬の健康を
祈り、苦労への感謝が「馬頭大神」となった。
 この「馬頭大神」碑は、昭和24年(1949年)に設立され
たが、今でも馬頭さんのお祭りと呼ばれる例大祭が、毎年10
月17日に行われている。
 28.新川緑地<’08.6.20 '11.5.12>
 天狗橋の袂に説明板が立ち、川辺を覗くと、緑地が広がっていた。
 28 新川緑地
 新川・琴似地区の排水をよくし、発寒川
や琴似川のはんらんを防ぐなどの目的で明治
時代に造られた人工の川「新川」。
 桑園競馬場付近から石狩湾へ注ぐまで、全
長約13キロメートル。川の流れは、北区と西
区・手稲区の区界でもある。
 かって、洪水防止と土地改良に計り知れな
い力を発揮した「新川」も、今、水辺と緑の
オアシスに生まれ変わろうとしている。
 約10.5キロメートルの区間を「海辺に咲
く花」・「野に咲く花」・「花と緑のプロムナード」
の三つのゾーンに分け、それぞれ魅力ある水
辺空間を創出する。
 整備計画年次 平成元年度〜平成10年度
天狗橋 河川敷
 6月下旬にはハマナスやバラなどが咲いている。
新川の堤防沿い 黄色い花 ハマナス バラ
 29.新川開基百年記念碑(新川4条14丁目 新川中央公園内)<’10.6.17> 周辺地図
 新川中央公園の入口に道路に背を向けて建っている。台座にはエンブレムの様に「不撓不屈」の文字が大きく光っている。
百年記念碑
 29 新川「開基百年記念」碑
 新川地区の開拓は、明治22年頃から屯田兵や一般入植者が
定住して本格化した。湿地帯であったことから幾度となく水
害に襲われたが、先人はこれを乗り越えて豊かな農耕地帯へ
と導き、そして現在の住宅地へと発展させた。新川という地
名は、物資輸送と水害防止に役立った人工河川「新川」から
由来している。
 この記念碑は、開基百年を記念して平成元年に建立された。
 碑の裏を見ると、大きな字で碑文が彫られていていた。
苦節百年 不撓不屈の精神をもって、過酷な自然条件を克服し、
新川地区の生生発展の貢献した屯田兵および部有地へ入植した開
拓者の偉業を偲び、その功績を顕彰する。開拓に心血を注いだ先
人の魂は、我ら新川住民の心に永遠に継承されるであろう 今日
の新川地域の栄光と住民の幸せは、我らの一層の協力と親和への
努力により、未来へ向かってより輝かしいものとしけなければ
ない ここに新川開基百年を記念し、この碑を建立する。
    平成元年(一九八九年)十月二十二日 新川開基百年記念協賛会
 30.近藤牧場(新川694番地)<’10.6.17> 周辺地図
牧場
 結構街中の信号だが、その一角に牧場が見える。
 31.安春川の水辺と散策路(新琴似5条1丁目〜10丁目付近)<’10.6.17> 周辺地図
 南北に流れる安春川の両岸に遊歩道が延びている。要所要所に橋や東屋がある。
 
足元に 川と橋
川辺の遊歩道 石畳の遊歩道
 31 安春川の水辺と散策路
 明治23年(1890年)、湿原の地下水位を下
げ農業の発展を期すために、屯田兵により開
削された「安春川」。
 その川も、都市化の波により流水が枯渇し、
降雨時のみの廃水路と化していたことから、
快適な生活環境を創造するため、創成川高
度処理水によるせせらぎの復活と、河川敷の
オープンスペースを利用した遊歩道の整備、
さらには、快適な冬期生活に向けての融雪施
設を設置することとし、昭和62年度から事業
に着手した。
 長さ約1.4キロメートルにわたり、遊歩道
や親水広場などが整備されており、地域の人
たちや子供たちの憩いの場として親しまれて
いる。
生い立ち 新琴似8丁目橋 川の解説 北側を
 32.新琴似屯田兵屋(新琴似1条6丁目)<’10.6.17> 周辺地図
木造住宅表
木造住宅裏
 住宅の前にはサイコロ状の「さっぽろ・ふるさと文化百選」の看板が設置されて、「新琴似屯田兵屋 建築年 明治20年(1887年) 構造木造平屋建て 平成2年 札幌市 27」と表記されている。
 新琴似は明治20年(1887年)琴似・山鼻に次いで札幌で
3番目に屯田兵村が置かれた地域で、西日本各地より220戸
が入植した。この建物は、大分県出身の屯田兵 田中竹次
郎が明治21年(1888年)に入居した兵屋である。その後、石
川県より入植した山西家の住居として使われた。建物の
位置は、当初より少し後退しているが、土台や壁は建築時
のままである。当時の生活をしのぶ数少ない遺構である。
 33.屯田兵もやい井戸跡(新琴似5条4丁目)<’10.6.17> 周辺地図
住宅前に
 一般住宅前に、看板が突き出ていた。
 33 屯田兵もやい井戸跡
 明治20年(1887年)新琴似に九州出身を中
心とする屯田兵146戸が入植。その生活を支
えた井戸は4戸の共同使用で、風呂が併設
されていた。「もやい」とは「共同」の意味。
 この井戸は水源までモウソウ竹を打ち込ん
だもので、水が30センチほど自噴していた。
 竹の長さは約30メートル、継ぎ目にはコン
ブが巻かれていたと言われている。
 番外.新琴似神社(新琴似8条3丁目 新琴似神社境内)  周辺地図
新琴似神社
 JR新琴似駅付近の踏み切りを渡り、西5丁目樽川通り(道道865号線)を西に向かうと、新琴似神社がある。その一角に「新琴似屯田兵中隊本部」や石碑群が見られる。
 開村記念碑は神社の右奥に鎮座している。
 34.東繁造君学勲碑<’09.7.23>
東繁造君学勲碑
 34 東繁造君学勲碑の解説
 東繁造は大正9年(1925年)●●当時の東大教授三田定則の門下生として血液の
鑑別方法を研究。それまで鑑別しにくかった人と家畜類の血液を早く確実に
見分ける科学的鑑別法に成功。この方法は、恩師と自分の名をとって「三田・東
法」と名づけた。
 この碑は、氏の功績を称えるため、昭和35年(1960年)に当時の東大名誉教授
古畑種基らによって建立された。
 35.新琴似兵村記念碑<’09.7.23>
新琴似兵村記念碑
 35 新琴似兵村記念碑の解説
 新琴似地区は、明治20年(1887年)、屯田兵の入植によって開かれた地で、開村
50年を記念して昭和11年(1936年)の建立された。
 既に開村5年を記念して建立された「新琴似開村記念碑」が神社の東側にあった
が、永年風雪にさらされて、文字の解読も困難になったところから、新たにこの
碑を建立したものである。
 札幌軟石の外棚を巡らしコンクリートの基礎、この上に幅3.5メートル、高さ
厚さ30センチメートルの板石を建てている。
 裏磁には、入植屯田兵220名の氏名が刻印されている。
 36.馬魂碑<’09.7.23>
馬魂碑
 36 新琴似馬魂碑の解説
 この馬魂碑は、大正8年(1919年)に光明寺境内(新琴似7条1丁目)建立
されたが、昭和50年(1975年)に新琴似神社境内に移された。
 開拓時代、その家の手足となって働いた農耕馬を供養するためのもの、当時の
主な農家は、自分の愛馬を弔うため、それぞれ自分の農地の片隅などに建てたり
していたが、これを総括し「馬頭観世音」として奉遷したものである。
 37.吹田晋平歌碑<’09.7.23>
吹田晋平歌碑
 37 吹田晋平歌碑の解説
 吹田晋平歌碑(本名 菅 進)は、明治35年(1902年)8月19日に新琴似に生まれ
永年にわたり歌人として、さらには政治家として地域の発展に貢献した。
 55年間にわたり歌人として数々の秀作を発表する一方、札幌市議会議員を通算
6期24年勤め、市政の発展と地域の振興に尽力した。
 この碑は、氏の功績に報いるため有志により昭和47年(1972)に建立された。
 吹田晋平歌碑には「村を拓きし 屯田本部の 跡どころ こぶしは咲けり 朝の日ざしに 晋平」と刻まれていた。
 38.百年碑<’09.7.23>
百年碑
 38 新琴似百年碑の解説
 明治20年(1887年)の屯田兵入植に始まる新琴似地区は、当時、あまりにも厳
しい自然環境に耐えきれず、離農する人たちが後を絶たなかったと言われている。
●●ま●●の地に望みをかけて踏み止った少数の屯田兵と、新天地を求めて新た
に渡ってきた一般の入植者の不屈の精神によって、昼なお暗きうっそうたる原始
林が切り開かれ、良好な農耕地から住宅地へとめざましい発展を遂げた。
 この記念碑は、開基百年を記念して昭和61年(1988年)に建立された。
 「百年碑」には添え書きがあり、「この地に育つ 若人よ 今日を創りし 先人の 自耕自拓の 精神を 継いで努力の 人となれ」と刻まれていた。
百年記念碑の添え書き
 39.新琴似屯田兵中隊本部<’09.7.23>
 中隊本部前には札幌市の説明板があり、斜め読みする。どうやら、明治の建物を昭和40年代に改修し復元したようだ。
   39 札幌市有形文化財 新琴似屯田兵中隊本部
 この建物は、明治20年九州各地の士族146戸の入植(翌21年に74戸を補充)により発足した新琴似
兵村(屯田兵第1大隊第3中隊)の本部として、明治19年に建てられました。
 明治36年の屯田兵役解除後、新琴似兵村会の共有財産として引き継がれ、明治44年の兵村解散後
は、新琴似屯田親交組合、新琴似兵村部落会、新琴似自治会、新琴似町内会、琴似産業組合、新琴
似中学校仮教室、札幌市新琴似出張所等に使用されるなど、時代の変遷を経て昭和40年11月、札幌
市に寄付されました。
 その後、昭和43年度から昭和46年度にかけて、創建当初に復元するための改修工事が行われ、昭
和49年4月20日には歴史的価値が高く建築構造の上からも貴重な建造物として、札幌市有形文化財
に指定されました。
 建物の構造は木造、小屋裏部屋付き平屋建て、全体の形は素朴でおおらかさがあり、玄関出入口、
窓回り等の細部、小屋組などに当時流行した洋風木造建築の特徴を良く残しています。
 現在札幌市では、新琴似屯田兵中隊本部保存会の協力を得て建物を保存管理しています。
                                  札幌市
 中隊本部の中に入ると、入口に受け付がある。受け付けを済ませ展示場に入ると、農耕馬用の農機具が目に入ってくる。懐かしい馬橇、プラウ、押し切りなどが展示されていた。
中隊本部南側 中隊本部正面 中隊本部 プラウ・馬橇
 左壁にはスコップ、鍬、天秤等の農具が、右側には農耕馬用の方形ハロー(整地)、ミノとカンジキが見える。別の部屋には「もやい井戸」が展示され、「もやい井戸(屯田兵の井戸) 明治19年に新琴似屯田兵村が建設された時、4戸ごとに作られた井戸です。直径約90cm高さ約70cmの桶を地中半分まで埋め、桶の底から水源までは竹筒が使われました。水源までは、深さが30m近くもあったそうです。もやいとは、共同という意味です。井戸のそばには風呂も作られました。」と注釈がある。別な部屋には石臼や脱穀した後、穀粒を綺麗に選別する手回しの唐箕があった。
スコップ・鍬・天秤 ハロー・ミノ・カンジキ もやい井戸 石臼・唐箕
 40.拓魂碑<’09.7.23>
拓魂碑
 40 吹田晋平歌碑の解説
 吹田晋平歌碑(本名 菅 進)は、明治35年(1902年)8月19日に新琴似に生まれ
永年にわたり歌人として、さらには政治家として地域の発展に貢献した。
 55年間にわたり歌人として数々の秀作を発表する一方、札幌市議会議員を通算
6期24年勤め、市政の発展と地域の振興に尽力した。
 この碑は、氏の功績に報いるため有志により昭和47年(1972)に建立された。
 拓魂碑のは「百年の 基を開きし 濃魂ぞ 命絶やすな 先達の声」と刻まれていた。
 41.開村記念碑<’10.6.17>
開村記念碑
 41 開村記念碑の解説
 新琴似地区は、明治20年(1887年)、屯田兵の入植によって
開かれた地で、開村5年を記念して建立された。
 しかし、この開村記念碑が永年風雪にさらされ、文字の解
読も困難になったことから、先人の開拓の功を後世に伝える
ために、神社の西側に「新琴似兵村記念碑」として昭和11年
(1936年)に再建されている。
 石碑の裏を見ると「明治廿年五月廿日百四十六戸移住 明治廿一年五月廿六日七十四戸移住 明治廿五年五月廿日建設」と彫られている。傍には、四角い石碑があり、200戸の方々と思われる名簿が彫られていた。古い石碑には解説にあるような文字の掠れが無く確り読み取れた。新しい石碑には、どうしても兵の字を入れたかったのだろうか?
 番外.忠魂碑<’09.7.23>
     殉国●●碑
<’10.6.17>
忠魂碑 殉国●●碑
 拓魂碑の横に忠魂碑、参道際に殉国●●碑が祀られていた。●●は紙垂(しで)が邪魔して読めなかった。
 ここにも、戦争の傷跡があり、平和の尊さを改めて感じた。戦争が無ければ生めよ増やせよの時代が無く、必然的に私がこの世に存在していなかったかなと思ったり、複雑な気持ちになる。
 42.歌人・若山牧水来訪の地(新琴似7条3丁目) 未踏
 43.新琴似歌舞伎の跡地(新琴似7条1丁目) 周辺地図
 ビックリドンキーの駐車場横に木が茂っているか所があり近づいてみると、そこが劇場の跡地のようだった。
 43 新琴似歌舞伎の跡地
 明治30年頃から20年後の大正5年(1916年)
まで、新琴似では農村青年を中心に開拓を支
える慰安として歌舞伎が華やかに演じられて
いた。
 当初は、新琴似神社境内で上演されていた
が、最盛期には屯田兵2世も加わり明治43年
(1910年)には収容能力が310人の常設劇場「若
松館」が開設された。ここはその劇場の跡地
である。道内の農村芸能史上、常設劇場が建
設されたことは珍しいことであり、同時代に
存在した篠路歌舞伎とならんで北区の貴重な
農村文化史を語る。
足元に 川と橋
 
 44.帝国製麻琴似製線工場跡(麻生町3丁目) 周辺地図
 道の真中に大きなアカマツが見えて来る。その前に看板がある。
看板側から
 44 帝国製麻琴似製線工場跡
 明治7年(1874年)当時ロシア公使・榎本武揚が開拓使長官黒田清隆に
ロシア産の亜麻種子を送ったのが、本道の亜麻栽培の始まりであった言われてい
る。
 明治20年(1887年)に後の帝国製麻株式会社となる亜麻会社が発足。現在の麻
生町一帯の約8万坪(244,000平方メートル)の地に製線工場を建設し、同23年に
操業を開始した。明治後期、亜麻事業は全盛期を迎え隆盛を続けたが、昭和20年
代に入り原料のコスト高や化学繊維の進出などで、工場は閉鎖の運命を余儀なく
された。昭和32年(1957年)のことである。ここは、工場長宅があったところで、
当時からのアカマツが残っている。工場は現在の麻生球状付近にあったと言われ
ている。

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