大野台場山(261m)

 アクセス
 函館方向からは大野を横切る国道227号線を厚沢部町方向へ行くと、大野町きじひき高原の大きな看板がある。それをやり過ごして走ると、駐車帯が左、右に出てくると、直ぐ右手に大野台場山の入口がある。
 国土地理院地図  Google Map
=風景写真をクリックすると大きなサイズになります=
 4月29日<2005(H17)年> 
 台場山は函館側にあり、気になったので行ってみる。台場山の入口にも標柱「史跡 箱館戦争 土方才造蔵 二股口 激戦之地」があり、奥に入って行くと用水路にぶつかり、その前に駐車する。用水路沿いに歩いて奥へ進むと、江差山道の入口が現れる。江差山道は足元をキクサキイチゲの白い花で飾っていた。台場山のコルに着くと、看板「江差山道通行の難所と二股古戦場跡」があり、さらに越えて奥へ伸びていたが、コルから左へ登って山頂に向う。奥にも激戦地の標柱が立っている。
古戦場の入口 用水路沿いに キクサキイチゲ 史跡の看板
解説板
  江差山道通行の難所と二股古戦場跡
 この場所は、昔一番古い道路であった所で、江差山道の通行の難所と
言われたところです。下方の川には大野川の支流下二股川があります。
 箱館戦争の明治2年の戦いでは、榎本軍が各要所にざんごうを掘って
土方歳三を隊長とする約300人の兵を率い頑強に官軍の前進を阻止し
た所であります。海岸戦の矢不来戦では榎本軍が退却したので、土方軍
も撤退したものですが、そうでなかったら二股戦はまだまだ長引いたも
のと思われる。
 明治3年8月4日には、後に京都本願寺22代法主となった大谷
光瑩一行が江差までおもむくために、この沢を越した所でもあり、江
差のニシン漁華やかな時代には、大勢の人々が往来したところの道路
でもありました。

 平成6年10月 大野町教育委員会
 山頂は塹壕の跡と思われる窪地に取り囲まれていた。帰りがけ、コルから下った所の塹壕の中に石が並べられていた。兵隊が椅子代わりにしていたのだろうか?
窪地 山頂の塹壕 塹壕の中に石が
解説板
  箱館戦争二股口の戦い
 明治元年(1868)10月、榎本武揚率いる艦隊は鷲ノ木に上陸し
た。
 新政府軍に勝利した榎本政権は五稜郭に樹立した。
奪回をめざす新政府軍は江差方面から上陸し江差山道を通過するのは
十分想定された。 従って榎本軍は山沿いに散兵壕や台場を築き、下二股
川の崖をはさんで反攻を防ぐ作戦に出た。
 新政府軍は翌2年(1869)、予想通り乙部・江差から上陸した約
600人が山道を通った。
 一方、榎本軍の土方歳三を隊長とする約300人は台場山へ砲台も築き
二股口で待ち構えていた。4月13日(旧暦)、新政府軍は対岸にたど
りつき戦闘が開始された。川を渡り天然の要塞である二股口を突破しよ
うと何度も試みるが、土方隊の発砲で押し返された。
 海岸線矢不来の戦いで榎本軍が敗れたため、土方隊は5月1日、陣地
を放棄して五稜郭方面へ返却した。

 平成12年8月 大野町教育委員会

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 二人の山行記録
 2005(H17).4.29(金) 晴れ