石狩の名所旧跡石碑 花畔・樽川・南線神社石碑群 石狩灯台 石狩ハマナスの丘公園 石狩海浜植物保護センター 無辜の民の碑 弁天歴史公園 石狩弁天社 石狩川河口渡船場跡 上手稲養鮭記念碑 |
=写真をクリックすると大きなサイズになります= |
花畔(ばんなぐろ)神社境内 |
石狩湾新港の工事で、花畔神社に疎開した感がある新旧の石碑群 |
移住記念碑<2011(H23)年7月7日> |
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石川県から明治27年4月6日に移住してきた記念に明治32年9月8日に建立し、昭和47年10月5日に石狩湾新港用地(10線6号)から移設したようだ。 |
創田之碑<2011年7月7日> |
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昭和3年に初めて水田作付けして、記念に昭和5年9月3日に建立したが、昭和47年の石狩湾新港の工事で、昭和47年10月5日に移設したようだ。 |
花畔開村五十年記念碑<2011(H23)年7月7日> |
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建立年は紀元二千五百八十年とあり、西暦表記では660年引くので、1920年となる。従って、花畔村は1870年に開かれたことになる。 |
開拓碑<2011(H23)年7月7日> |
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碑裏には昭和60年8月建立と彫られている。碑史も嵌め込まれている。明治4年に岩手から入植した歴史が刻まれている。 |
石川県開拓百年碑<2011(H23)年7月7日> |
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碑史を見ると、石川県人の入植は明治二十七(1894)年で平成6年4月で百年になるのを記念して建立されたようだ。 |
明治卅七八年戰役記念碑<2010(H22)年12月22日> |
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明治37〜38年にかけて起こった日露戦争の寄付の記念碑で、明治40年9月10日に建立され、昭和58年9月13日に改装されたようだ。 |
戦没者慰霊平和記念之碑<2011(H23)年7月7日> |
戦没された35名の場所は、アリューシャン、樺太、中国、ガタルカナル、ニューギニア、テニアン、フイリッピン、ビルマ、硫黄島、沖縄、シベリヤピラ収容所と広範囲に及ぶ。特に、樺太の真岡で戦没された方々は昭和20年8月20日で、明らかに終戦後のスターリンの蛮行で亡くなられてしまったようだ。 |
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この碑は平成9(1997)年8月15日に建立されたもので、碑文にもあるように、半世紀が過ぎても戦争の傷跡は当たり前ながら癒えていない。 国の指導者次第で国民が幸福にも不幸にもなるが、今でも国民に首相を辞めさせる権利がないことを不思議に思う。 国の指導者は国民のためを思って欲しいと願うばかり。 |
土巧組合記念碑<2011(H23)年7月7日> |
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花畔土巧組合が昭和6年にかんがい事業を行い、砂地を水田にし、戦後の食料増産を経て、昭和46年の石狩湾新港で終止符が打たれた歴史が刻まれている。 記念碑は、昭和50年6月25日に建立された。 |
馬頭観世音<2011(H23)年7月7日> |
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碑裏には、「昭和2年7月建之/花川競馬會」の文字が刻まれている。 |
樽川神社境内 |
忠魂碑<2010(H22)年12月22日> |
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樽川神社の前を通りかかると、境内から年末年始の準備をしている音が聞えてきた。 音に誘われて、境内に入ると、右奥に石碑があり近づいて見たが、掠れていて何が書かれているのか分からなかった。 仕事中の男性に、尋ねてみたら、忠魂碑だと言う。 |
開村五十年記念碑<2010年12月22日> |
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帰りながら、鎮座している石碑を見て回ると、開村五十年記念碑が目に留まる。碑裏を見ると、昭和九年七月建立と彫られていた。 |
樽川村移転之碑<2010(H22)年12月22日> |
開村百年碑<2010(H22)年12月22日> |
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この碑は樽川村の歴史をわかり易く伝えていた。 |
供養塔 <2010(H22)年6月13日> 国土地理院地図 Google Map |
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国土地理院の地図に石碑のマークがあり、行って見たら道路に背を向けた格好で南を向いて鎮座していた。 後ろには、何かを入れるように取っ手も付いている。碑文も建立年なども無いが、周囲は綺麗に草が刈られている。 現在は、無くなっているようだ。 |
南線神社境内 Google Map |
開田之碑<2010(H22)年12月13日> |
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南線神社の入口に、石碑があるので覗いて見たら、開田之碑だった。 敗戦後の食糧難の時代に、この砂地に水田を造ったと言う。現在は、全くその面影はない。碑裏を見ると33年8月に建立されたようだ。 |
町村農場發祥之地<2010年12月13日> |
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南線神社の入口には、もう一つ石碑があり、近づくと「町村農場發祥之碑」だった。 明治30(1897)年に町村牧場が開設され、昭和3年、江別に移るまで、ここで営農していたと言うが、現在からは想像もつかない。 |
石狩灯台 Google Map |
6月20日<2023(R5)年> |
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解説板が新しくなり、ビジターセンターの中に旧燈器が展示されていた。 |
9月11日<2009(H21)年> |
灯台守の歌碑が灯台が見える遊歩道の入口にある。灯台へは石狩川沿いの公園から少し下って行く。一人でも記念写真が写せるようにとカメラ台が設置されていた。 |
歌碑 | 来訪日と標柱 | 石狩川河口 | 石狩川の説明 |
灯台の傍には教育委員会と海上保安庁の解説板があった。白い灯台が紅白になった経過を読み終え、灯台を再び見ると、白い灯台も見えて来るような気もする。最後に近づいて石狩灯台の明治25年1月1日初点のネームプレートを見上げる。 |
解説板 | 解説板 | 石狩灯台 | ネームプレート |
石狩ハマナスの丘公園 別ページハマナスの丘公園あり |
<2009(H21)年9月11日> |
ビジターセンタの前に案内板がある。二階の展望所に上がると景色景色が良く見える。遊歩道の入口から木道が石狩灯台の傍を通って延びている。 |
ビジターセンタ | 案内板 | センタ展望所から | 遊歩道入口 |
石狩灯を見ながら木道を歩くと、木道の傍に、ウンランやハマナスが顔を出す。木道は直ぐに終わりになり砂浜の道になるが、真っ赤に熟したハマナスの実も見られる。 |
木道を | ウンラン | ハマナス | ハマナスの実 |
、ハマボウフウ、ハマエンドウ、エゾカワラナデシコ、アキグミも花や実を付けていた。 |
ハマボウフウ | ハマエンドウ | エゾカワラナデシコ | アキグミ |
<2023(R5)年6月20日> |
遊歩道沿いにはには、ハマヒルガオ、ハマナス、ハマニガナ、ハマエンドウが咲いている。 |
ハマヒルガオ | ハナナス | ハマニガナ | ハマエンドウ |
湿原には、エゾスカシユリやノハナショウブが咲きコガラが草の茎に留まっていた。海岸ではオジロウワシが風を自由に操っていた。。 |
エゾスカシユリ | ノハナショウブ | コガラ | オジロウワシ |
石狩浜海浜植物保護センター<2009(H21)年9月11日> Google Map |
望楼のある建物が目に止まったので、建物の前にある駐車場に車を入れる。中に入ると、トイレだけの利用は駄目だと書かれていたので、何か居心地が悪い。展示写真や展示物を流し見して、望楼に上がって見ると、小樽方向が良く見えていた。 |
保護センター | 展示写真1 | 展示写真2 | 望楼から小樽を |
無辜の民の碑<2009(H21)年9月11日> Google Map |
道端に道標があったので、道の奥へ進んで見たら、大きなコンクリート台が見えて来た。上に載っているのは何だろうと思いながら近づいてみた。人間が布で巻かれて、血が滲んでいるように見える。こんなブロンズ像を見るのは初めてだった。後に回り込むと、たった今、上から落ちてきたような状況に見えた。 |
道標 | 大きなコンクリート台 | ブロンズ像 | 後から |
石狩の清清しい大地に苦しんでいる様子の像は何だろうと思い、改めて、説明板を読み、コンクリート台の嵌め込まれたプレート「この地に生き この地に埋もれし 数知れぬ無辜の民の 霊に捧ぐ 一九七九年 本郷新」を見る。改めて、これは美術品というよりは慰霊碑だと思いながら、ブロンズ像を振り返りながら帰る。民はリーダ次第だとつくづく思う。 |
説明板 | 慰霊の書 | 期成会の書 | ブロンズ像を振り返り |
「石狩ー無辜の民」 札幌彫刻美術館々長 札幌市教育委員会文化課長 原子 修 このブロンズ像は、本道出身の彫刻家本郷新 (一九〇五〜一九八〇)の、代表作のひとつです。 本郷新は、石狩の海など、北海道の大自然を こよなく愛しましたが、また、ふきすさぶ時代 の嵐にあらがって生きぬく、名もなきひとびと に、熱いまなざしを注いでいたのでした。 ヒューマニティにあふれた彼のおもいは、 やがて、昭和四十五年の「無辜の民シリーズ」 十五点の連作となって結実し、人しれず生きる 無数の民衆の、戦乱や干ばつなどで、生きる自 由をうばわれていく姿が、悲痛なフォルム(形 態)で造形されたのでした。 この「石狩ー無辜の民ー」像は、はじめ、 「無辜の民シリーズ」中の一点として制作され た「虜われた人<1>」(高さ二十八糎、横三十六 糎、幅四十八糎)と同型のもので、翌四十六年、 高さ二米、横一・五米、幅三米の大作として、 箱根彫刻の森美術館主催の第二回現代国際彫刻 展に出品されたものです。 大自然の暴威や人間社会の矛盾によって、が んじがらめに縛られた、ひとりの、無実な生活 者の、いたましい姿の中に、なおも、生の復権 をもとめやまない作者の祈りの歌が、荘重に奏 でられています。 昭和五十六年六月三十日 記 |
弁天歴史公園<2023(R5)年6月20日>Google Map |
運上屋棟の横に先人たちの碑がある。碑というよりはモニュメントのようで、その下に石狩市のあゆみが記されている。庭には句碑と副碑がある。歌碑は読めそうにないので、副碑を見ると「俤の/眼にちらつくや/たま祭/秩父蜂起の井上伝蔵/(石狩では伊藤房次郎)が/明治三十九年に詠む」と刻まれている。公園内には、楽山居という建物がある。 |
運上屋棟 | 先人たちの碑 | 房次郎句碑 | 楽山居 |
打ちっぱなしのコンクリートの壁に英語と日本語の解説板がある。中は和室になっていて、その前に奇麗な日本庭園が広がっている。 |
解説板 | 内部 | 庭 |
庭の奥に石碑が見えるので近づいてみると朗人句碑があり、「先駆け/の/ はま瑰の/芽の真紅/朗人」と刻まれていた(はまは旧漢字)。碑陰は最初の有馬朗人と二〇〇三年九月以外は解読出来なかった。 年尾句碑「わが橇の/馬が/大きく/町かくす/年尾」もあり、碑陰には碑文と同じ文章が楷書で刻まれていて、素人の助けになって嬉しい。 一歩・摩耶子句碑「石狩の/冬が/近づく/ポプラ/かな/一歩 山笑ひ/海/ほほえん/で/ゐる日/かな/摩耶子」とご夫婦の俳句が仲良く刻まれていた。碑陰には縦線で仕切られたご夫婦の略歴が刻まれていた。句碑からは楽山居が良く見える。 |
朗人句碑 | 年尾句碑 | 一歩・摩耶子句碑 | 楽山居を |
年尾句碑碑陰 |
一歩・摩耶子句碑碑陰 |
高浜年尾 明治三十三年高浜虚子の長男として 生まれ昭和二年六月●●●●ホトトキス」を 主宰●昭和五十四年● 平成十七年七月建立 札幌ホトトギス会 わが橇の馬が大きく町かくす |
嶋田一歩(しまだいっぽ)本名を●(つとむ)。大正十二年、東京に生まれる。 産婦人科医。医学博士。 浜年尾子詞として虚子にも直接指導を受く。 昭和三十六年ホトトギス同人。 北海道並びに札幌ホトトギス会会長、俳人協会評議員 国際俳句協会理事等を経て、現在、(社)日本伝統俳句協会 常任理事・(財)虚子記念文学館理事・その他講師など。 現在熱海住。 嶋田摩耶子(しまだまやこ)。昭和三年、宮城県に生まれる。 昭和二十五年、一歩と結婚。フラワーデザイナー 虚子・年尾・立子・汀子師の指導を受く。 昭和三十六年、ホトトギス同人 北海道新聞俳壇選者等を経て、札幌より熱海に転居。 現在、(社)日本伝統俳句協会評議員等。 平成十九年九月十六日 竹 林 会 札幌ホトトギス会 建立 |
石狩弁天社<2023(R5)年6月20日>Google Map 石仏は別ページ |
弁天歴史公園に隣接して石狩弁天社がある。門の前には金属板の解説板がある。門から入って左手に北千島沖流網之碑がある。境内には太郎代曝観音碑があり、西国三十三箇所霊場になっている。 奥には鮭供養之碑もある。碑陰には「石狩町開基300年/開町100年記念/昭和四十三年九月七日/第十三回石狩さけまつり実行委員会/石狩町 石狩町観光協会/石狩漁業協同組合 石狩町商工会/石狩町飲食店組合」と刻まれていた。 |
石狩弁天社 | 北千島沖流網之碑 | 観音碑 | 鮭供養之碑 |
石狩市指定文化財第1号 | 歴 石狩元小屋跡 |
石狩弁天社 この神社は元禄7年(1694年)、松前藩の山下半右衛門 の願いによって建てられました。建てられた目的は、石 狩場所の主産物、鮭の大漁と石狩に出入する船お安全を 祈るためです。中心となる神様は弁財天(弁天様)です。 弁天社は石狩場所に関係した役人や場所請負人によって 信仰され、とくに村山家では守り神として大切にしまし た。主神のほか、稲荷大明神をはじめ多くの神々がまつ られていますが、石狩川の主であるチョウザメと亀を神 にした「妙亀法鮫大明神」は鮭漁の神様としていまも信仰さ れています。建物の内外には本州から運ばれ奉納された 御神燈、絵馬などが残り、蝦夷地第一の生産を誇った石狩 場所の繁栄を示しています。 |
慶長年間(1590年〜1614年)石狩河口は、厚田、増毛な どとともに松前藩によってアイヌ民族と交易する地点( 場所)に指定され、その後、流域の十二の場所を加えた 石狩十三場所の中心地となりました。元小屋は、他では 運上小屋といわれますが石狩では古くからこう呼ばれて いました。幕末の記録では、間口八間半、奥行く二十 七間半で、その前には二層の遠見のヤグラもありまし た。当時この附近から石狩川岸にかけて、勤番所(箱館 奉行所出先)や武器蔵、蔵など四十五棟のほか民家も多 数あり、大いににぎわっていました。 なお、元小屋は明治9年の大火で消失してしまいました。 |
北千島沖流網之碑碑文 |
昭和8年5月鰊と鮭の沿岸漁業から 北千島沖鮭流網の図った祖父 と乗組員は20屯級の機帆船で羅針 盤を頼り未知の北千島に向け石狩川 河口を船出した。哀く濃霧と風波を 越え漁労の成果をあげた。九ケ月の 操業航程3千浬なり。而して昭和20 年千島を失って50年目を迎えるに当 り遠洋漁業開拓の実績を賛え刻す。 平成7年10月 船 主 建立者 昭宝丸 吉田庄助 吉田忠夫 長榮丸 吉岡三之助 吉岡治男 白龍丸 後藤要次郎 後藤國夫 龍生丸 柴田久吉 吉星丸 金田寅之助 金田方夫 |
石狩川河口 渡船場跡(左岸)<2023(R5)年6月20日>Google Map |
五三の桐の家紋の付いた石造りの建物があり、周りに石垣が回されている。周囲と明らかに違った雰囲気で、由緒ありそうな場所がある。この横を通って石狩川の堤防に上がる。堤防の上は遊歩道になっていて、自転車が行き交っていた。川辺に下りると、解説板が立っていた。そこからは良く見えないので、少し戻って船場跡を覗き見る。 |
石造り | 川辺へ | 解説板 | 船場跡 |
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戻る途中で、護岸を見ると、マンネンソウと思われる花が咲いていた。 |
上手稲養鮭場記念碑<2023(R5)年6月20日> Google Map |
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住宅地の片隅に、草生して鎮座している。碑陰にも台座にも何も刻まれていない。 |
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二人の散歩路記録 2023(R5)年6月20日(火) 2011(H23)年7月7日(木) 2010(H22)年12月13日(月) 2010(H22)年6月13日(日) 2009(H21)年9月11日(金) |