長官山(254m)文学台230m =馬追丘陵= |
ルート | 長沼スキー場 | 火葬場BK |
ポイント 馬追山は南北に大小のコブが連なった長い丘陵で、馬追自然の森と呼ばれている。丘陵には遊歩道が延びていて、登り口は長沼スキー場やマオイリゴルフゾートからAB、火葬場BK、馬追温泉口CCの3か所ある。まおい共有の森からも道はあるようだが不明だ。主なピークは長官山と文学台になる。 |
長沼スキー場ルート |
アクセス 長沼スキー場に駐車場があり、駐車場の出口から文学台に延びる車道(冬期通行止め)がある。 国土地理院地図 山の地図帳「2008.12.31」へ 周辺地図 |
12月31日<2008(H20)年 往復スキー4.930km 登り1:14 下り31> |
長沼スキー場の駐車場入口には「本日無料」の看板があり、ありがたく使わせていただく。駐車場から未除雪の車道を辿って行く。車道は大きくカーブしながら上がって行き、途中からスキー場のゲレンデを覗くこともできる。パラボラアンテナも遠くに見え出す。 |
長沼スキー場 | 未除雪の車道 | スキー場を | パラボラアンテナを |
再び、車道は大きくカーブを描いて上って行くので、由仁安平低地を望むことが出来るが、残念ながら夕張山系の雄大な山影は無かった。 |
由仁安平低地を望む |
車道はパラボラアンンテナが見えたり、スキー場のゲレンデが見えたりと、激しく蛇行している。三角点「馬追201.8m」に立ち寄ろうとしたら、結構傾斜のある法面を登らなければならないので止めて先に進む。今度は、スキー場の場内放送をバックにして進むと、小さかったパラボラアンテナも一段と大きくなってくる。振り返ると愛棒が少し遅れ気味になっていた。 |
パラボラアンンテナを | スキー場を | パラボラアンンテナが | 愛棒を振り向く |
車道はマオイゴルフ場へ分岐するが直進する。道は少し狭くなり、雪で真っ白になった木立のトンネルとなる。直ぐに、分岐になり山形方向へ下る道が分岐するが右へ進む。道端のトトマツは雪を纏って重たそうに幹を垂らしていた。 |
分岐(直進) | 道が狭くなる | 分岐(右へ) | 雪を纏ったトトマツ |
平らな道を辿って行くと、道の真ん中に文学台のトイレが見えて来た。文学碑:馬追原野は右に行けば少し下がったところにある。早速、記念写真を写し碑を一周して、プレートに彫られた文字を雪で埋めて、文面を斜めに読む。「水戸藩勇威城建設構想の地」と書かれた木柱は見ないで先を急ぐ。帰りがけ、気になる看板があったので見てみたら、長沼町報徳社社有林の看板だった。夏に文学台から立派な道があり、下ってしまい迷子になった林だと思った。 |
文学台のトイレ | 文学碑へ | 馬追原野の文学碑 | 報徳社社有林の看板 |
辻村とも子は明治39年(一九〇六) 2月11日、岩見沢市志文に生まれた。 日本女子大学を卒業した昭和三年に創作 集「春の落葉」を処女出版、十七年五月 (三六歳)には長編小説「馬追原野」を世 に送って第一回樋口一葉賞を受けた。(昭 一九)この作品は、父直四郎をモデルに長 沼町の開村前夜の開墾を描いたものであ り、以来、作者は石狩の野に生きた人間 を愛情をこめて描きつづけた。二十一年 (一九四六)五月二十四日、病のため四十 歳と三カ月若さを惜しまれつつ郷里岩 見沢にて永眠したが、死の床にさいごの 短編集「風の街」がおくられた。 |
強欲な冬の力に反抗するように、時折、ぱあ っと、明るい名残の陽ざしが顔をだすのだが、 その光は明るい割に弱々しく、すぐ灰色の雲に 押しのけられて、 ガラス屑のような硬いこまか な雪片が風と一緒に横なぐりに野面をおほって しまう。 馬追の開墾地の人々は、まだ畑に堀り残して あった馬鈴薯の残りを、総がかりで小屋に運ん でゐた。 小説「馬追原野」から |
引返して、長官山を目指すと直ぐに、山頂の櫓が見えて来た。下は、階段なので、スキーで辿るには骨が折れる。ようやく山頂に着いて、望楼の階段を除雪しながら上がって行き、テーブルと椅子の雪を払い、腰を下ろす。まだ、昼食には早いので、ココアを飲みながら辺りを見回すが雪が降っていてなにも見えなかった。雪が無いので子午線標に下ると、登りが大変だと思い止め、早々に山頂を後にする。 遊歩道に入口には、まだ、「危険 平成20年9月9日にヒグマの足跡が発見されましたので当分の間遊歩道の使用を禁止します。長沼町」の注意書きが空しく垂れていた。帰りは初心者には丁度良い、傾斜を滑り降りる。途中で、ゲレンデを滑ろうと愛棒に持ちかけるが、却下され車道を下り、無事駐車場に着く。 |
山頂の望楼が | 閉鎖された | 緩傾斜のスロープ | 駐車場 |
=史跡 長官山(山頂にあった由緒書き)= 明治24年9月、渡辺千秋北海道3代長官が全道巡視の途次、この峰に登り、石狩平野開拓の構想を練る。後長沼・由仁両町民は、これを記念して長官山と名づけられ。いらい郷土景観眺望第一の地として親しまれる。 氏は長野県岡谷市の出身。その後栄進して宮内大臣となり補弼(ほひつ)の・・・負う。 ・・・長沼町・・・ |
山行記録冬山6へ 次長官山火葬場口へ アソビホロケール山へ |
二人の山行記録(遊びの時間を含む) 2008(H20)年12月31日(水) 雪 往復スキー4.930km 登り1:14 下り31 8:56長沼スキー場→9:31パラボラアンテナ→9:35分岐(直進)→9:41分岐(右)→10:00文学碑→10:10頂上10:30→10:37文学碑入口→10:40分岐→10:41分岐→11:01スキー場 |