手稲歴史散歩

 ポイント
 詳しくは手稲区史跡ガイドHPに記載されている。頭の番号は「手稲区歴史ガイドマップ」に記載されている番号。
1.軽川無電と手稲役場跡 2.手稲神社神輿殿 3.北農軽川草炭工場跡 4.弥彦神社跡 5.聖火台
6.手堀りの小川 7.稲穂神社跡地 8.星置通洞 9.手稲鉱山選鉱場跡 10.滝の沢温泉跡
11.山口運河 12.手稲山口バッタ塚 13.手稲鉱山沈殿池跡 14.北日本飛行場跡 15.旧軽川駅舎跡
16.日本石油精油所跡 17.前田に遺跡 18.軽石軌道跡 19.新川神社跡 20.手稲遺跡
21.光風館跡 22.縄文時代レリーフ 23.手稲養狐場跡 24.サンタロベツ通行屋跡 25.乙黒製油所跡
26.軽川街道(藤の湯) 27.石狩街道 28.土巧排水 29.新川 30.開村五十年記念碑
31.開村八十年記念碑 32.星置開村記念碑 33.星置神社記念碑 34.星置開基百年碑 35.山口開基80周年碑
36.山口開基100周年碑 37.自作農記念碑 38.郷栄乃碑 39.発寒稲積開拓記念碑 40.上手稲開村記念碑
41.手稲開基百年記念碑 42.本町牛馬塔 43.忠魂碑 44.本町馬頭観世音 45稲穂.牛馬供養塔
46.山口馬頭観世音 47.前田馬頭観世音 48.北発寒馬頭大神 49.富丘馬頭観世音 50.手稲村道路元標
51.旅の碑 52.「拳々服膺」碑 53.村社紀念碑 54.HBCテレビ記念碑 55.札幌間開通記念碑
56.東宮駐れん記碑 57.前田農場記念碑 58.造林合資会社碑 59.時習館記念碑 60.防火の樹
61.手稲神社奥宮 62.手稲山の三角点 63.手稲パラダイスヒュッテ 64.稲穂の夫婦松 65.手稲記念館
=写真をクリックすると大きなサイズになります=
 1.軽川無電と手稲役場庁舎跡 手稲本町3条1丁目3 周辺地図 <’11.4.15>
コミュニティ
 現在、手稲コミュニティセンターになっている。西区手稲出張所の時までは面影があった。
 2.手稲神社神輿殿 手稲本町2条3丁目4 周辺地図 <’11.4.15>
神輿殿
 本殿の向って右奥に神輿殿がある。神輿殿に近づくと、木の陰になり見えなかった由来が書かれた看板が立っている。
 その由来書によれば、大正天皇が皇太子時代、前田農場の休憩所として使われ、その後、新川神社の社殿として移設され、再び、手稲神社の神輿殿として戻って来たようだ。
 3.北農軽川草炭工場跡 手稲本町2条4丁目 周辺地図 <’09.12.28>
樽川人道橋から
 「軽川草炭工場」は太平洋戦争の末期、昭和20年3月に北聯(現在のホクレン農業協同組合連合会)により事業が開始され昭和24年に終ったようだ。
 手稲区歴史ガイドでは樽川人道橋の手稲本町側に、赤レンガの建物があったと記されている。採掘場所は、はっきりしないが、以前、ホクレンの住宅(現在のホクレンショップ)があった周辺なのだろうか。そうすると、農業団体のホクレンが手稲に土地を持っていても不思議ではなくなるのだが。
 4.弥彦神社跡 手稲本町2条5丁目12 周辺地図 <’10.1.30>
長楽会館
 弥彦神社は長楽会館とマンションの間に延びる道路の奥にあったようだ。弥彦神社は日本石油北海道精油所の守り神だった。精油所は第二次世界大戦中にアメリカ軍の空襲を受けた。日本軍の高射砲からは一発の玉も発射されなかったと言う。
 弥彦神社は手稲神社に合祀されたが、石狩市高岡八の沢の山中には石碑が建っているとのこと、機会があれば訪問したい。
 5.聖火台(別ページ 札幌冬季オリンピック遺構へ) 手稲山スキー場  <2011.4.27>
 6.手堀りの小川(歴史史跡標) 稲穂2条1丁目5 周辺地図 <’09.12.8>
史跡標 現在の小川
 何時も何気なく通っていた道路沿いに史跡標があった。柵で囲われた中を覗くと、排水溝がある。小川のイメージは無いが、流れている水が綺麗なので、何故かほっとする。
本町排水と名がつくこの小川は、住民の手掘りで完成した。
宮崎寛家に保存されていた古文書(乍恐奉願候書付)を解読し
た結果、明治13年(1880年)、開拓使が掘削を許可した
ものとわかった。軽川から分水し、稲積川に注いでいる。
建設機械などが一切ない時代、住民総出の汗の結晶だった。
きれいな流れが続いていた。住民にとって、この水は生活用水
であり。水稲耕作に不可欠だった。年に一度、住民が相集って
清掃作業に従事した。 昭和30年代まで続いた。
軽川の取水口は、道路の拡幅と民家の増加で埋没、光星町内会
でも歩道下に埋設され、当時の面影を残すのは、わずかにこの
付近だけとなった。 先人の苦労を偲び、末永く語り継ごうと、
ここに歴史史跡標を立てた。

        2002年(平成14年)3月
      稲穂金山活性化推進委員会
 7.稲穂神社跡地(歴史史跡標) 稲穂4条5丁目4 周辺地図 <’09.12.8>
跡地 史跡標の跡 史跡標の台座
 何度も史跡標の傍を通りながら探す。場所が間違ったかと思い、上の家のご主人に聞いたら、道路沿いにあるという。残念ながら台座のみだった。
 8.星置通洞 手稲金山 周辺地図 <’09.12.8>
 札樽自動車道の陸橋から選鉱場跡を眺める。まだ見えるかなと、ふらつきながら自転車を進めていると、後ろで警笛が鳴る。慌てて、道端に避ける。次に、手稲鉱山の中には入れないと思うが、ゲートの方に上って行くと、右側にコンクリートの建物跡と思われる遺構が見える。ここも、立入禁止のようで、鎖がしてある。ようやく、ゲートに到着するが、閉じたゲートに迎えられる。
 すごすごと、帰ることになるが、地図に四角い沈殿池と思われるものが載っているので、立ち寄ってみた。その池は金山パーキングエリア横にありゲートはあるが、地元の人たちは道端から入っているようだ。散歩した足跡を追うと、池の上にでた。そこからは、池が良く見えていた。
選鉱場を ゲート下の建物跡 閉じたゲート 沈殿池
 9.手稲鉱山選鉱場跡 手稲金山 周辺地図 <'03.2.22 一般人は入れず>
選鉱場
 市街地からも遠望できる気になる建物だが、近づいて見ることは出来ないのが残念だ。
 《滝の沢沿いに点在する産業遺跡は別ページ「手稲鉱山遺跡」へ》
 10.滝の沢温泉跡 手稲金山  <未踏>
 11.山口運河(別ページへ)
 12.手稲山口バッタ塚(別ページへ)
 13.手稲鉱山沈殿池跡 曙5条4〜5丁目 周辺地図 <’09.12.18>
曙西緑地 排水管
 手稲鉱山の沈殿地があったと言う曙西緑地周辺だが、今は、保育所の園児が遊びまくっている。土手の高さが遊ぶのには丁度良いのだろう。
 土手には、大きな排水管が顔を出していたり、 曲長(かねちょう)通りに面した一部は藪で踏み跡があり、入って見ると沈殿池の雰囲気がある。
 14.北日本飛行学校(飛行場)跡 曙3条1丁目付近 周辺地図 <’09.12.8>
今は宅地に
 昭和5(1930)年から昭和8(1933)年に飛行場があったと言う。何時も、通っていた所なので、驚きを持って現在の街並みを見る。
 15.旧軽川駅舎跡 手稲本町1条3丁目 <’11.4.15>
JR手稲駅
 昔の山小屋風の駅舎は風情はあったが、何時も、駅舎に入ることが出来ない利用者で外まで溢れていた。雨や雪の日には待っているのが大変だった。
 その後、山小屋風の駅舎は壊さず、喫茶店として保存し、その傍に、新しい駅舎が建った。その後、南口が無いと不便だと言うことで、建替えられ、現在の手稲駅となっている。
 16.日本石油北海道精油所跡 前田1条11丁目 <’11.4.15>
区役所
 現在は、手稲区役所や区民センターになっている。
 17.前田に遺跡 前田公園 周辺地図 <’09.9.12>
今は公園
 前田中央公園から北の新川を越えて12条付近まで、縄文時代の遺跡があったという。今は、子供達の遊ぶ公園になっている。
 18.軽石軌道(馬車鉄道)跡 前田地区 周辺地図 <’10.1.1>
手稲郵便局付近
 石狩手稲線(道道44号線)に大正11(1922)年から昭和12(1937)年まで馬車鉄道が通っていた。区間は西友から花畔までの8kmだったと言う。軽石は「けいせき」と読む。
 19.新川神社跡 前田10条11丁目1 周辺地図 <’10.1.1>
新川中央橋の袂 今は灯油配送センター
 新川神社は前田(砂山)地域の氏神で、砂山(手稲遺跡辺りか?)から昭和3年に移転、以来、昭和48年まで続き、その後、手稲神社に合祀されたと言う。
 20.手稲遺跡 発寒古川右岸付近 周辺地図 <'10.4.22>
上流から右岸を 上流から左岸を
 発寒古川は新川に注いでいるようなので、右岸に縄文時代の遺跡があったようだ。
 番外.発寒古川
明渠 土管
 地図では発寒古川は発寒川の上流に見えるが、発寒川に繋がっていなかった。その反対に新川に注いでいるように見える。
 そこで、明渠と土管の源頭から新川に向かって自転車道路を辿って見た。
 源頭から上流を振り向くと、手稲山が真正面に見え、三菱山、砥石山、阿部山、百松沢山、手稲峰、ネオパラ山、手稲山、西峰、星置山、奥手稲山、春香山と見渡せる。縄文時代の人々もこの景色を見て生活していたのだろう。
                     ←大
発寒古川とタンネウェンシリ(手稲山)
 土管の所には、カモのツガイが仲良く水面に浮いていた。土管の向こうにはパークゴルフを楽しんでいる人達で溢れていた。自転車専用道路を辿ると、手稲遺跡を過ぎると、道路で終わり、その道路に架かる橋越しに、手稲山が見えていた。更に、下流?を目指すと揚水場があり新川で終わっていた。
 新川の左岸に渡って、軽川の合流地点から揚水場を見る。ここからポンプアップし、新川に注がれるようだ。
カモのツガイ 手稲山 揚水場で新川へ 新川に注ぐ
 地図では発寒川の上流だが、発寒川に繋がっていなかった。流れは新川に向かっているように見える。新川や軽川が改修される前は、軽川の北に残る小川が発寒川の上流だったのではと思う。発寒古川は不思議な川だった。
 21.光風館(手稲温泉)跡(別ページへ)
 22.縄文時代記念レリーフ 富丘3条6丁目1 富丘高台団地 周辺地図 <’0910.04>
三樽別川沿いから レリーフ プレート
 二十四軒手稲通りの三樽別川右岸沿いの道を登ると、富丘高台団地があり、駐車場に面する壁にレリーフを見つける。
 駐車場の中に入らせて頂き、レリーフを見上げプレートを読む。こんな所に縄文人が生活していたとは驚きだ。
ここ、三樽別川の川辺で、約2500年ほど昔の縄文土器
がたくさん発掘されました。その昔、縄文人たちは貝や
木の実を求めて手稲の山をかけめぐっていたのでしょう。
レリーフのデザインは、縄文土器を中心に手稲の山山の
風と光と水の流れをイメージしました。
 23.手稲養狐場跡 富丘3条7丁目1 周辺地図 <’16.4.4> <’11.4.15>
公園(’11) 公園(’16) 解説板(’16)
 手稲養狐場は、現在、富丘やまばと公園の近辺だったようだ。
 公園の片隅には解説板が設置(以前は見付けられなかった)されたようだ。
 24.サンタロベツ通行屋跡 富丘2条5丁目2 周辺地図 <’11.4.15>
看板 三樽別川
 サンタロベツ通行屋は《「二級河川新川水系 三樽別川(さんたるべつがわ)Santarubetsugawa River 川の名の由来 名称はアイヌ語の「サンダラッケ」または「サンタロシキヒ」(なわでシカを縛り荷降ろしすところの道)。北海道》の看板の架かる付近にあったようだ。
 今は、コンクリートの河川だが、昔はどんな河川だったのだろう。
 25.乙黒(おつぐろ)製油所跡 富丘2条6丁目3  周辺地図 <’09.8.20>
木の門柱 薄れた文字が
 サイクリングの帰り道、旧国道(二十四軒・手稲通)を手稲に向かい、「三樽別川」を渡ると、何が書いているのか判別できない煤けた木の門柱を発見する。
 良く見ると「乙黒精油所」と書かれているようだった。ここが、明治時代から菜種を搾っていた工場なんだと思う。
 道の反対側には乙黒の表札を掲げた家がある。
 26.軽川街道(藤の湯) 手稲本町地区 手稲本町2条2丁目2 周辺地図 <’11.4.15>
藤の湯
 軽川街道と言われた二十四軒手稲通りには、藤の湯と言う古い歴史をもった銭湯がある。村上藤吉が明治35年(1902年)に開業したという。
 27.石狩街道(道道石狩手稲線) 前田地区 周辺地図 <’10.1.1>
 18の軽石軌道に同じ
 28.土巧排水(土巧川 新川水系) 曙地区 周辺地図 <’11.4.15>
 霜手稲通と樽川通が交わる所に、広場があり、その一角に「手稲土巧川」と書かれたモニュメントがある。手稲土巧川は前田川と広場で合流して新川に注ぐが、地図では横から前田川に土巧川が合流するように見える。広場から上流を見ると銭函天狗山が真正面に見える。思わず、もっと上流を見ようと道路を渡ると、和宇尻山の下の鹿山が真正面に見えていた。広場に帰って来て、下流を見ると、親水広場になっているが、水は真っ赤だった。
モニュメント 広場から上流 上流 下流
 29.新川 前田・新発寒地区 周辺地図 <’10.1.22>
新川中央橋から
 新川は定規で線を引いたように、河口からJRタワーに向かって真っ直ぐ延びている。河口は小樽市で壊れた橋が宙に浮いている。
 30.開村五十年記念碑 31.開村八十年記念碑
    稲コミュニティセンター 周辺地図 <’09.8.9>
 石碑群の左奥には「開村八十年記念」と彫られ、裏には昭和二十六年九月三日建立とある。後でわかったことだが、この年の11月に手稲村から手稲町になったようだ。
 右奥には「開村五十年記念」と彫られ、その横に北海道の文字も彫られているが解読できなかった。その裏には大正十年九月三日建立とある。何れにしても、9月3日は手稲にとって重要な意味を持つ日のようだ。
八十年記念 五十年記念
 32.星置開村記念碑(30周年碑) 33.星置神社御造営記念碑(90周年碑)
 34.星置開基百年碑
                     星置神社境内 周辺地図 <’09.10.19>
 星置神社の境内を入り、本殿に向かうと左に「星置開基百年碑」、右に「星置開村記念碑」があった。開基百年碑には碑文が書いてある。
星置神社 星置開基百年碑 碑文 開村記念碑
    碑   文
悠々たる歴史は時と共に流れ去る
明治十七年この地星置は広島県
佐伯郡より徳永鶴松氏外十六戸の
入植に始まる當時密林と濕地のこの
地に先駆者達は遠大な理想のもと開
墾に着手相次ぐ冷害や災害に禍い
されながら艱難を克服し爾来願望
百年 今ここに政令指定都市札幌の
一画にあってこの繁栄を子孫に伝え更に
躍進することを希い 茲に「星置開基
百年記念碑」を建立するもの也
  昭和五十八年九月吉日建立
 開村記念碑の横には大正二年九月と彫られている。星置神社の由緒書きを読んで、造営記念碑に向かうと「星置神社」の銘板の下に「星置開村90周年●●し 星置神社を●宮 昭和48年9月吉日建立」と掠れかかった字が読み取れる。鳥居からは青い海と星置市街が広がっていた。
開村記念碑の横 由緒書き 星置神社御造営記念碑 海と星置市街
    星 置 神 社
 祭神 天照大神 豊受大神
    大己貴神(大国主命)
 明治十七年広島県佐伯郡より約十六戸の入
殖により星置の開拓は始まり、その後、山口県
富山県及び青森県からの移住により村落を形
成し今日に至る
 斧鉞を知らぬ厳寒の地の入植に先住者達は
苦楽を分ち合う心のより処として明治二十年
頃星置一五三番地に小祠を建立し郷里より奉
持した御祭神を奉斉して村落の安泰と発展を
祈念した
 明治四十五年現在地を得、大正二年九月開
村記念碑と共に軟石造りの小柱を建立し神霊を
移遷
 昭和四十七年秋御造営の儀を起し氏子一同
心を合せ本年九月竣工
 この慶事を記すべく移遷前の小社の台座に
碑を建立し後世に遺するものである。
   昭和四十八年九月吉日
 35.山口開基80周年記念碑 36.山口開基100周年記念碑 周辺地図 <’09.11.3>
 山口神社の入口には山口開基80周年記念碑と100周年記念碑が並んで鎮座している。80周年記念碑の裏には昭和三十五年十一月建立と彫られ、100周年記念碑には碑文があり、裏には年表が彫られている。
山口神社 80年と100年碑 100年碑の碑文 100年碑の年表
    碑    文
 人跡未踏のこの地に開拓
の鍬を入れてから一世紀を
迎え今日の発展を見るは先
達の血と汗の結晶であり開
拓魂の賜である
 ここに先人の偉業を偲び
報恩感謝の誠を捧げると共
に其の志を永く後世に伝え
るものである
 昭和五十四年十一月十一日
 山口開基百年記念実行委員会
          年       表
明治 十三年  周防国玖珂郡今津村在宮崎源治
          右エ門外二名山口星置地区視察
明治 十四年  宮崎源治右エ門同村近郷より十
          四名引き連れ入殖
明治 十五年  大字三村山口村創設以後遂年山
          口広島両県より移住始まる此頃
          十勝日高に発生せるバッタの大
          群石狩地方を襲い全村全滅
明治 十八年  山口墓地開設山火事による全村
          被害
明治二十五年 山口小学校竣工
明治三十一年 運河竣工
明治三十五年 九月十七日山口神社創立許可
昭和  三 年 電燈開設
昭和二十四年 西瓜電熱育苗法接木成功
昭和三十三年 電話開通(北小学校)
昭和三十九年 国鉄バス開通
昭和四十三年 山口神社改築
昭和四十八年 手稲北小学校移転改築
昭和五十四年 山口開基百年記念事業実施
 37.自作農記念碑 前田中央会館 周辺地図 <’09.9.12>
記念碑
 会館駐車場の片隅に「自作農記念碑」と彫られた石碑がある。台座の碑文は何が書かれていたのかわからないが、石碑の横を見ると昭和十一年八月建設とある。戦後、マッカサーが行った農地解放以前のことのようだ。 
 38.郷栄乃碑 稲積記念会館 周辺地図 <’09.11.26>
記念碑 碑文
 会館の前庭に建てられているので、他人の家の庭に入るようで気が引けたが、断わる人影も無く、写真だけ撮らせていただく。
 碑の後には昭和59年5月建立と彫られていた。
          事  業  の  沿  革
 この地域は 酪農及び水稲を主体とした専業農家十数戸と明治乳業株式会社の経営する牧場等
からなる都市近郊型農業地域として、多大なる農業成果を背景に順調な発展を続けていた。
 しかしながら、この地域の付近に工場が相次いで建設され、地下水の汲み上げが多くなったこ
とから、地下水位が極端に下がるところとなった。このため多量の水を必要とする酪農経営が困難
となり、農地を手離す農家が増えていった。その結果、図上分筆による分譲転売が行なわれたこ
とから、この地域の将来の発展に大きな支障をきたすおそれが生じ、一部有志の心痛とする処で
あった。
 そのような折りの昭和四十七年十一月、札幌市から組合施行による土地区画整理事業によりこ
の地域の一層の発展を図ってはどうかとの勧めを受け、札幌市と地元関係者との協議が開始され
た。その後、昭和四十八年一月二十日に稲積開発期成会の発足を見、数次にわたる関係機関及び
利権者の意志確認を行ない、昭和四十九年六月に至り大方の同意が得られたので、札幌市長に対
し札幌市ていね稲積土地区画整理組合としての設立認可申請を行ない、同年八月二十日付けを以
ってその認可を得た。
 この事業の工事実施に当っては、予想外の軟弱地盤に遭遇し、下水道工事は途中で工法の変
更を余儀なくされる等最悪の極限迄に至り、これらの克服のために幾多の努力が重ねられた。加
えて日本経済が低成長期に入り、金融引き締め等の影響もあって、組合財政運営も非常に困惑し
た。この困難な時に当たり、札幌市の適切な指導と組合役員及び各権利者が一致協力して幾多の
難局を乗り越え、ここに事業の完成を見るに至ったことは、関係者一同の大きな喜びである。
 ここに意義ある事業完成に当り、この事業を末永く後世に伝え、この地域、この郷の限りな
い発展を祈念し、ここに碑を建立する。

      昭和五十九年五月吉日
         組合設立年月日 昭和四十九年八月二十日
         組 合 員 数   三八〇名
         総   面   積 一〇四、九 ヘクタール
         総 事 業 費   六拾九億六千九拾八万五千円
              札幌市ていね稲積土地区画整理組合
 39.発寒稲積開拓記念碑 北発寒稲積会館 周辺地図 <’09.11.26>
記念碑 碑文
 十字路の一角の駐車場に、馬頭大神や延命地蔵と共に、木に隠れるように建てられている。碑文を見ると大正3年に北渚から入植したようだが、北渚とは何処の地名なのだろうか。
大正三年先人北渚(ほくちょ)より来たりてこの地を故園(おえん)と定む
茫茫(ぼうぼう)たる原野泥炭土にして地味瘠薄(せきはく)なり
昭和九年乳牛を誘い全戸酪農を営む幾多の
風雪に堪え艱難(かんなん)共にしこの地を豊穣の地となす
ここに先達(せんだち)の辛楚(しんそ)を偲(しの)びこの碑を建立する
            昭和九年自作農
            昭和十九年第二開拓入植
        期成会 以下省略
 40.上手稲開村記念碑 手稲記念館前庭(西区西町南21丁目3)  周辺地図 <’09.8.20>
記念碑 碑文 説明板
碑文は薄れていて判読不能だが、傍に解説板があり、開拓した先人の苦労が分かるようだ。
    上手稲開村記念碑
明治4年、旧仙台藩士片倉小十郎邦憲(白石城主)が北海道開拓を命
ぜられ、その家中(家臣)150戸600余人が故郷を後に開拓の途につ
きました。このうち50戸241人が 翌5年に入植したのが、この
地(上手稲)の草分けであり、手稲発祥の地といわれています。
この碑は、上手稲に集団移住した先人たちの苦心と開村の事情を
後世に伝えるため、半沢新三郎ら青年会有志が発起人となって、
明治44(1910)年11月3日に建立されたものです。
隣りの手稲記念館が新設された昭和42年に、西町北20丁目にあ
った元 上手稲神社の境内から現在の地に移築されました。
        平成10(1998)年10月  西区役所
 41.手稲開基百年記念碑 手稲記念館前庭(西区西町南21丁目3)  周辺地図 <’09.8.20>
記念碑 碑誌
上手稲開村記念碑と向かい合わせに、立っている。少し洋風の感じのする碑で、単純明快に彫られた碑誌が傍に付いている。
    碑  誌
 今茲に手稲開基百年を
迎えた。この時に当り
手稲草創の時代より今日
まで数代に亘って厳しい風
雪と血のにじむ困苦に堪
えたゆまぬ努力を町造り
に捧げられた先人先達に
感謝の誠をこめて、この碑
を建立し、以って永く後世
に伝えることにした。
 昭和四十六年四月二十日
 手稲開基百年記念事業実行委員会
     委員長 箕輪 早三郎
 42.牛馬塔 手稲神社 手稲本町2条3丁目4 周辺地図 <’09.8.9>
 忠魂碑の裏手には牛馬塔と月山神社の石碑が並んで建っていた。石碑の裏には昭和十一年八月建設と彫られていた。台座に目を転じると「前田農事組合解散にあたり 原野拓きし先人の思いを伝え 牛馬魂へ慰霊の誠を捧げ之を改修す 平成二十年七月吉日」と彫られた碑文があった。
牛馬塔と月山神社 牛馬塔 牛馬塔の裏 碑文
 
 43.忠魂碑 手稲神社 手稲本町2条3丁目4 周辺地図 <’09.8.9>
 手稲神社の東門から入ると、左手に「忠魂碑」が鎮座している。近づいて石碑の本体を見上げ、手前に黒御影石と思われる石に手稲町殉國戦死者之霊と彫られ横44名縦5列と18名合計238名の名前が刻まれている。
 横に回ると、寄付した人達の名前が彫られていた。良く見ると個人以外に一金参拾円日本石油・前田農場の名前がある。
 裏に回ると本体に大正七年七月三日建立と彫られていた。本体の裏には本体よりも新しい碑文があり「紀元二千六百年記念」と彫られ故軍人15名の名が彫られていた。この碑文は昭和十五年八月十六日建立と彫られていた。
手稲神社東門 忠魂碑 忠魂碑本体 寄付した人達
 番外.月山神社碑
出羽三山の碑 碑誌
 山形県の月山神社の碑には湯殿山・羽黒山・鳥海山と中央に彫られていた。
 裏には碑誌が刻まれていた。読むと、個人的な石碑のようで、建立は昭和51年5月16日と言うことだった。
 44.馬頭観世音 手稲本町2条2丁目2  周辺地図  <’09.8.9>
馬頭観世音
 軽川街道だった手稲本町の歩道沿い(藤の湯横)に鎮座していいる。
 45.牛馬供養塔 稲穂3条5丁目1 稲穂会館前  周辺地図  <’09.12.8>
供養塔
 国道5号線沿いの一角に西を向いて鎮座している牛馬供養塔を見付ける。
 碑の裏には「昭和廿六年拾月吉日、開村80周年記念建立」と刻まれている。
 46.馬頭観世音 山口神社横  周辺地図  <’09.11.3>
馬頭観世音
 山口神社入口の横(建立日不明)。一番上に観音様をあらわすと言われている梵字が彫られている。
 47.馬頭観世音 前田7条11丁目1  周辺地図 <’09.4.14>
馬頭観世音
 前田小学校の道路を挟んで北側にある(平成14年9月22日建立)。
 48.馬頭大神 北発寒稲積会館 周辺地図 <’09.11.27>
記念碑 延命地蔵
 十字路の一角に木に隠れるように建てられている。目立たないので、何時も通っていたのに全く気が付かなかった。
 碑の裏を見ると、昭和十年五月建立と彫られていた。
 隣りのお堂に、2体の延命地蔵が鎮座し、花が手向けられていた。 
 49.馬頭観世音 富丘4条4丁目5 富丘浄苑内 周辺地図 <’08.11.28>
馬頭観世音
 富丘浄苑内に石碑を見つけ近づくと、馬頭観音だった。明治四十五年七月八日建設と刻まれていた。
 番外.牛馬供養塚・御神木 西区西野290−257 上手稲神社内 周辺地図 <’08.4.9>
 上手稲神社内に牛馬供養塚がある(大正9年7月建立)。神木は銀杏で旧社殿から移植したという。
上手稲神社 牛馬供養塚 御神木 由緒書き
 上手稲神社旧社殿地
        御神木「銀杏」移植
此の度上手稲神社旧社殿地の鎮守の森の御神木として
地域の歴史を見続けてきたこの銀杏が
左記の地元の心ある人々から奉納されました。
上手稲神社の郷の発展を見下ろしてきた「生き証人」の銀杏を
この後も未来永劫にお守りしていきたいと
考えるところです。
 奉納協賛者御芳名
                     平成六年十月吉日
 50.手稲村道路元標(げんぴょう) 手稲コミュニティセンター 周辺地図  <’09.8.9>
 軽川停車場の奥には石碑群があり、厄介物を押し込めたと言う感がある。近づいて見ると、一番前に「手稲村道路元標」なるものが鎮座している。石碑の台座に埋め込まれた銅版に説明文が刻まれていた。この説明文だけでは何処にあったものかは良く分からなかった。裏に回ると「昭和七年建設 北海道廳」と刻まれていた。道庁が建設したと言うことは、道道だったのだろう。
石碑群 道路元標 プレート 裏側
     手稲村道路元標
 この道路元標は、北海道及び手
稲村の道路の起・終点として、昭
和七年に初めて設定したが、幾度
にわたる庁舎の移転改築により、
昭和六十年九月に改めて、この地
に再建したものである。
 なお、この元標より、おおむね
北東五十度四十分の方向二百七十
メートルの地に、最初の位置を明
示してある。
          札幌市
 番外.軽川停車場 手稲コミュニティセンター(手稲本町3条1丁目3) 周辺地図  <’09.8.9>
 手稲コミュニティセンターの地続きの一角には、「軽川停車場」がある。看板に貼られた説明文を読み復元された客車を一回りする。中には吊革やベンチも付いていた。小さな車輪がレールの上にあった。
軽川停車場 説明文 客車 レールと車輪
   軽川軌道(通称・馬鉄)の歴史
    設置期間 大正11年〜昭和11年
       軽川(手稲)〜花畔(石狩)間(8km)
      (現在の西友南側から石狩市役所前)
経  過
明治14年手宮・札幌間に鉄道が走ってから、現在の前田地区
の酪農、畑作の生産品と石狩の秋味(鮭)などの輸送・交通
期間として馬車鉄道が使用された。
◆この馬鉄は札幌・茨戸間を運行していた札幌軌道鰍フ払い
 下げを受けて、軽川軌道鰍ェ設置したが、道路交通の
 発達に伴って、馬車鉄道の役割も終り、約10年で廃止さ
 れることになった。 当時は軽川の象徴的な存在であった。
 51.旅の碑 手稲コミュニティセンター 周辺地図  <’09.8.9>
旅の碑
 ただ、「旅」と彫られた石碑が手稲コミュニティセンター前にある。向かって右横には「手稲駅開駅百五年・旅友会創立二十年・記念」と彫られ、向かって左側には「贈・昭和五十九年十一月二十三日 旅友会会長●●」と彫られていた。105年前に「軽川簡易停車場」が設置された記念だと言うが、何とも中途半端で、ここにあること自体が不自然極まりないと思う。
 52.「拳々服膺」碑 手稲中央小前庭(手稲本町3条2丁目) 周辺地図 <’09.8.9>
 「手稲中央小学校」の前庭を入ると、校庭を見下ろす所に、何かのモニュメントなのが白い板状の3本柱の上に鐘がぶら下っていた。銅版に何かが書かれているが、判読不能だった。その後に、天然石の石碑が鎮座していた。見上げると「教育勅語喚發50周年記念 昭和十五年十月建」と彫られているようだが、判然としない。横に回ると、銅版が埋められていて「寄付者 輕川老年奉仕會」と彫られていた。後に回り込んで見上げると「拳々服膺」と彫られている。改めて、学校を背にして北の大地に向いている方が表だと納得する。
モニュメント 拳々服膺の碑 裏側 軽川老年奉仕会
 碑の傍には現代を刻む時計があるが、過去を刻む時計はこの石碑なのではないかと思う。過去に何があっても消すことが出来ないが、未来を刻むのは若い心の中の時計ではないだろうか。「拳々服膺(けんけんふくよう)」の意味は教育勅語とは全く無関係だが同一に見られるのは悲しい。このことは小学生にも心にとどめて忘れないで欲しい。
 53.村社(そんしゃ)紀念碑 手稲神社 手稲本町2条3丁目4 周辺地図 <’09.8.9>
村社紀念碑
手稲神社の自動車安全祈祷所近くの土手に石碑があり、近づいて見ると村社紀念碑」と彫られていた。
 この碑は、手稲神社が札幌神社の軽川遥拝所から手稲村の村社に昇格した記念として建てられたようだ。建立は大正六年八月二十三日とある。
 54.「HBCテレビ完成記念」碑 手稲山山頂 周辺地図 <2010.7.28>
HBCアンテナ 記念碑
 HBCのアンテナの建つ敷地には石造りの門があり、入ると木陰に記念碑が鎮座していた。碑文は半世紀を過ぎたためか、掠れていて解読できないか所○もある。その内容は、会社の社長とは思えない遊び心があり、今でも心を打つ内容だった
 碑の後ろには9項目にわたり、工事関係の記述があるので、現地で見てください。
何がこれを完成させたか
手稲山にはリスが居り兎が
棲み熊が出没する 冬は丈
余の雪が積もり寒風が吹きす
さぶ 今やこの山頂には科
学技術の粋を集めた白亜の
殿堂ー北海道放送テレビ送
信所が建ち 六十米のアンテ
ナが聳えている これは世
界屈指の大送信所である
かっては猟師登山家スキー
ヤーのほか近寄れなかった
この山にこの工事をなさ●
めた●のは何が それはテ
レビ送信所として絶好の条
件を備えている魅力である
●るから発射する電波は全
道に伸びる●●は北見網走
帯広函館利尻礼文に電波が
到達している 山頂の送信
建設は道路が必要である
また人が住み送信機を働か
せるには水に電気がなけれ
ばならない これらのもの
を蓄え得るか 人々はそれ
を不可能といい無謀といっ
●●をかしわれわれは敢然
として山に挑みかかった
そして昭和三十一年四月か
ら●十年の間に道路治水設
備電力線のみならず送信所
建物とその内外設備一●を
完成した かつ冬の交通を
確保しているこれを成し
遂げたものは何か そ
れは綿密な計画近代技術を
最高度に駆使した能率的施
工と担当者従事員にみなぎ
る不屈の精神である かく
て工事は無事に完成し昭和
三十二年三月三十日盛大な
開局式を行い同年四月一日
から本放送を開始した そ
して永久にテレビ電波を発
射し続けるあろろう われ
われはこの工事●極めて順
調で成功を喜び工事関係者
の志に感謝し 送信所よ永
久に幸あれと祈る
 昭和三十二年文化の日
 ●●●● 阿部謙夫
      ●●●●●
 番外.1 第一号スーパースタンスタイルアンテナ  番外.2 北大雲物理測候所
 番外.3 ロータリークラブの碑              番外.4 境界石
 第一号スーパースタンスタイルアンテナの1/2の模型としの下に碑文が書かれていたが、余りに近づき過ぎてしまったので、全景は撮せなかったが、上記HBCアンテナ写真の右に泡立て器の様に写っている。
 北大の雲物理測候所は空き地になり、門柱が無ければ分からなくなって来た。NHKの施設の一角に、工事に使ったと思われる境界石を見付ける。
碑文 北大観測所跡 ロータリ碑 境界石
 55.「札樽自動車道札幌西〜札幌間開通記念」碑
    稲穂5条6丁目 金山パーキングエリア上り線 周辺地図 <’09.12.8>
 一般道から「金山パーキングエリア上り線」傍にある四角い池を目指す。パーキングエリア内に入られないので、どうしようかと思ってパーキングエリア内を覗いて見たがそれらしい石碑は無い。仕方なく、池の中の道路に入ろうかと思ったら、ゲートが閉まっていた。ゲートの横に地元の方々の散歩道か踏み跡があったので入って見る。そこから、パーキングエリアに行けたが、やはり石碑は無い。
 再び、元来た道を戻ると、陸橋の袂から右に延びる踏み跡があり、奥を覗くと石碑があった。近づいて行くと大きく「翔」と書かれた石碑が鎮座していた。辺りは草茫茫で訪れる人はあまり居ないようだった。石碑の裏を見ると、平成4年9月30日に建立したようだ。下には関係者の名前が彫られている。
 自然の地形を削って作られた札樽自動車道の記念碑が、草生した自然の中にひっそりと佇むのには不思議な気持ちがした。
パーキングエリア 碑は藪の中 翔と掘られた碑 裏側
 =思い出=
 高校の先輩という道路公団の総裁が母校で講演をした時に、三つのHが大事だと言った。それを聞いて、勘違いした生徒が笑った。総裁は憮然として、3Hを説明した。人に大事なのは「腹」「ヘルス」「ハート?orヘッド?」だったような気がする。その中で、腹が日本語なので何となく違和感が・・・
 56.前田農場「東宮駐れん記」碑 前田公園 周辺地図 <2013.11.15>
石碑
 JRを跨ぐ人道橋を渡っていると、木々の間に大きな石碑が透けて見えた。近づいて見ると、個人住宅の中にある。道路沿いから写真を撮させていただく(前田1条10丁目3 及川邸 周辺地図 <’10.4.3>)。
 平成25年10月に、手稲駅の横から、手稲前田公園に移設された。碑文は、石碑の表面の溶け方が激しく、掠れてほとんど読めなかった。解説板がなかったら、何がかかれているのか分からないところだった。
手稲前田公園 石碑 解説板 碑文の解説
東宮駐輦記
明治四十四年秋八月
東宮行啓北海道二十五日過石狩
國輕川●●●吾前田●農場而
台●●●●●●●●●●●●
而今又疋此●●●●●●●●
諸君感激國報●●●●●●●
●●自良田増為●●●●●●
●●番●●●家治●●●●●
●亦●●●●●●●●●●●
奉上之誠意●●文●八十八●
彰記●石●●●為●記●●●
一言●●●●●●●●●●●
●侯爵前田利為篆額
         永山近彰●●
         石川龍三謹書
 57.前田農場「東宮殿下御野立所跡」記念碑 前田1条10丁目6 岡ア邸 周辺地図 <’09.10.4>
軽川の橋から 記念碑
 軽川の橋から見ても高い所は無いが、川沿いに辿ってみると、個人住宅の庭の中に石碑がある。中に入らず、写真だけを撮させていただく。
 遠目なので、碑文は読めないところもあり不正確だ。
       御野立所 記
 明治四十四年八月二十五日
大正天皇、当時東宮殿下ノ御資格ヲ以テ北海
道ニ行啓アラセラレ旧前田農場ニ御駐覚アラ
セラル、本碑ノ位置ハ其ノ際前田農場●ヒニ
石狩平野ヲ御農望アソバサレシ、御野立所跡
ナリ
      昭和五十六年八月吉日
           岡崎 基 之建
 58.北海道造林合資会社「創立満三十年記念碑」 周辺地図  <’09.10.4>
 札樽自動車道のアンダーパスをくぐり、手稲温泉跡を右に見て、直ぐ左側に球徳稲荷へ行く道がある。栗がごろごろ落ちている道を辿ると、鳥居の奥に狛犬に守られた稲荷神社がある。この裏に踏み跡があり尾根伝いに辿って行くと、三角点西野の山裾に延びる林道跡と思われる所に記念碑があった。
 流石に林業関係の記念碑だけあって林の中だった。近づいて見ると「創立満三十年記念碑」と彫られているが、横に彫っている字が「正三位勲一等農繁修士佐の高人書」としか読めない。裏には「昭和三年十月吉日建立北海道造林合資会社」と彫られている。
球徳稲荷 記念碑(大×) 創立満三十年(大×) 記念碑の裏(大×)
 碑の前の林道が何処まで続いているのだろと思い、辿って見ると、小さな沢を越えて延びていた。急に雨が降ってきたので、革靴でもあり引き返す。帰りに、稲荷神社の道で栗拾いをする。
 59.時習館記念碑 西区西町南19丁目1 中の川公園内 周辺地図 <2011.5.9>
 国道5号線沿いに「時習館・教育発祥の地」の看板が立っている。中の川沿いの柵の間に延びる小道を奥へ入ると、「さっぽろ・ふるさと文化百選72 時習館ゆかりの地」の看板が出迎える。文字のほとんどが掠れていて読むのに一苦労する。
 更に、公園の奥に入ると、エゾエンゴサクのジュウタンをバックに石碑が鎮座していた。。近づいて見ると時習館記念碑と彫られていた。碑文には時習館の由来が書かれていたが、これも読みにくかった。
国道沿い 文化百選72 石碑 石碑
      札幌市創建120年記念
    さっぽろ・ふるさと文化百選
       時習館ゆかりの地
 明治5年(1872年)旧白石藩の47戸が上手
稲に入植した。そのうちの一人三木勉は自宅
を私塾として開放し「時習館」と名づけ、子
弟の教育にあたった。(現在の西区西町北18丁
目あたり)開拓判官松本十郎がこれを見て感
動して贈った書が、「手稲記念館」に残されて
いる。「時習館」はその後「手稲筆算所」とし
てこの地に移り、現在の手稲東小学校に引き
継がれた。
         平成3年
         札幌市
           72
 明治五年五月 三木
勉がのこの地に塾を創
始し「学ンデ時二コ
レヲ習フ」の古事を
引用して「時習館」
と命名した この理
想をそその徳たりと
三木 勉氏の教育精
神であって 氏の学
徳の教育の中に力強
く具現されたのであ
った
 ここに手稲教育の
発端を追慕し 教育
の先見を讃えてこの
由来を永久に傳えん
とするものである
 60.防火の樹 手稲本町2条4丁目8 周辺地図  <’09.12.28>
北側から 由緒書き 南側から
 何時も、何気なく通っていたマンションの一角に、防火の樹がある。看板が添えられていたので、近づいて見る。
  防火の樹(樹齢一〇〇年)
明治三十九年七月十日、軽川市街地に
五十戸の大火災有り、先代の松井武市
の店舗・住宅(四十一番地)は類焼せ
るも敷地内の此のいちの木にて鎮火す。
大正四年二月札幌税務署より醤油製造免
許下付されるや、醤油工場建設し、その
住宅用地内(四十三番地)に移植す。
手稲本町二・四地区再開発事業完成に
あたり手稲水防倉庫跡に記念樹として
移植するものなり。
   平成九年十一月吉日
        寄贈 松井武市
 61.手稲神社奥宮 62.手稲山の三角点 手稲山の山頂 周辺地図 <’07.9.1>
奥宮 三角点 三角点の説明
 手稲山の山頂に並んである。
 奥宮は北海道で一番高い所にある。
 63.手稲パラダイスヒュッテ 手稲山の山麓 周辺地図 <’09.8.22>
 手稲山のロープウェイ手のカーブにゲートが付いた林道があり、その入口から入ると、右手にヒュッテの看板がある。ウッドチップが敷かれた道を辿るとヒュッテが現れる。ヒュッテの横にはバーベキューの炉辺も見える。
ヒュッテ 玄関 看板 バーベキューの炉辺
 64.稲穂の夫婦松 稲穂2条6丁目11 池田邸前  周辺地図  <’09.12.8>
夫婦松 説明板
 国道5号線沿いの枝道と交差する所にある民家の前に二本のマツがある。
       保 存 樹 木
樹 種 アカマツ・クロマツ
樹 齢 約105年(指定時)
規 模 樹高  6.0M・幹周1.3M(アカマツ)
     樹高 10.0M・幹周1.6M(クロマツ)
 これらの樹木は、現所有者池田昭一さんの曽祖父
池田秋三郎が、明治17年広島県から当地に入植した
記念に植えたもので、地域住民から稲穂の夫婦マツ
と呼ばれ大切にされています。
                 昭和60年5月24日指定
                    札 幌 市
 65.手稲記念館 西区西町南21丁目3 周辺地図 <2011.5.9>
記念館
 昭和44(1969)年に開設された記念館で、開拓当時の写真や農機具、出土した土器などが展示されているようだ。

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 二人の散歩路記録
 2003.2.22 2007.9.1 2009.8.9 2009.9.12 2009.12.8 2009.12.18 2010.4.3 2010.4.19 2010.4.22 2011.4.15