長官山(choukanzan)(254m)文学台230m
コース 登山口 BA文学台 KB伏古斎場 CC馬追温泉
縦 走 長沼スキー場→BA→KB CC→新道→BA→送電線下→KB
=写真をクリックすると大きなサイズになります=

 ポイント
 馬追山は南北に大小のコブが連なった長い丘陵になっている。その丘陵は馬追自然の森と呼ばれ、遊歩道が延びている。長官山の登り口は長沼スキー場やマオイリゴルフゾートを経由する文学台BA、伏古斎場・送電線下KB、馬追温泉・新道CCがある。主なピークは長官山と文学台で、低山の割には花が多い。
 国土地理院地図  Google Map
遊歩道案内板 自然の森案内図
長沼スキー場BA〜火葬場KBコース

 アクセス
 長沼スキー場から登り、文学台を経由し長官山の登り、道道3号線(札幌夕張線沿いにある伏古斎場(火葬場:馬追温泉の下)へ下る。斎場は道道から少し入ったところにある。
 5月31日<2003(H15)年 登り34(53分迷う) 下り22> 
 長沼スキー場からはアンテナ群に向かってゲレンデを直登する。振り返ると田園風景が広がっていた。
スキー場入口(大×) ゲレンデを登る ゲレンデから田園風景を見ながら
 遊歩道は無いので、その道路の延長線を歩く。すると、アンテナ群が出てきて、右にマオイゴルフ場から上ってくる道を見て、まもなく、立派なトイレ(ティッシュ付き)のある分岐になる。
造成中の道路 タワーが現れる 良い道が続く
 分岐から右手に行くと、「水戸藩勇威城建設構想の地」と書かれた木柱があった。車の中で寝ている人もいた。この車はマオイゴルフ場から上ってきたのだろうか。更に、下には「馬追原野の文学碑」があった。あまりにも文学碑が立派なので、この位置が頂上だと勘違いしてしまう(後でわかったことだが、文学台というらしい)。
水戸藩勇威城建設構想 馬追原野の文学碑 小説「馬追原野」から 辻村とも子の生い立ち
 辻村とも子は明治三十九年(一九〇六)
二月十一日、岩見沢市志文に生まれた。
日本女子大学を卒業した昭和三年に創作
集「春の落葉」を処女出版、十七年五月
(三六歳)には長編小説「馬追原野」を世
に送って第一回樋口一葉賞を受けた。(昭
一九)この作品は、父直四郎をモデルに長
沼町の開村前夜の開墾を描いたものであ
り、以来、作者は石狩の野に生きた人間
を愛情をこめて描きつづけた。二十一年
(一九四六)五月二十四日、病のため四十
歳と三ヵ月の若さを惜しまれつつ郷里岩
見沢にて永眠したが、死の床にさいごの
短編集「風の街」がおくられた。
 強慾な冬の力に反抗するやうに、時折、ぱあ
っと、明るい名残の陽ざしが顔をだすのだが、
その光は明るい割に弱々しく、すぐ灰色の雲に
押しのけられて、ガラス屑のやうな硬いこまか
な雪片が風と一緒に横なぐりに野面をおほって
しまふ。
 馬追の開墾地の人々は、まだ畑に堀り残して
あった馬鈴薯の残りを、総がゝりで小屋に運ん
でゐた。
              小説「馬追原野」から
 この文学碑は、郷土長沼町の文
化遺産である小説「馬追原野」を
顕彰して先人の遺業を偲ぶとと
もに、新しい町づくりの暁鐘と
して建立したものである。
昭和47年8月5日
 文学碑「馬追原野」設立期成会
 分岐から墓場のコースで下りようと、分岐の看板を見たのだが、文学碑の位置は記入されてない。勘違いしている頭では文学碑の方向が墓場だと思い込み下ってしまう。下る途中で、愛棒に、墓場まで車を移動するように電話をする。あまりにも立派な道なので、遊歩道と勘違いして下って行くと、突然唐松林に道が消えてしまった。
 それでも、道はあるだろうと唐松林を下って行くと、沢に出た。ぬかるんでいる沢を渡ることができず、沢伝いに藪を登って行った。
 低山だと思ってGPSも地図も待たず、気軽に出かけたのだが、結構藪漕ぎはきつかった。曇ってもいたので、時折上空を通過し千歳に向かう飛行機の音がたよりだった。何とか尾根に上がると遊歩道があり、それを辿って登って行くと、それは、なんと、先ほどの文学碑の分岐だった。藪漕ぎで小尾根を一回りしたに過ぎなかった。それから、考え直して、碑の広場から引き返して山頂へ向かう。
間違って下りた道 道が落葉松林に消え 再び間違った道へ 碑の広場から山頂へ
 山頂直下の木段を登ると、望楼のある頂上に出た。望楼の下に由緒書があった。帰りは墓場コースを下る。遊歩道は整備されていない道だった。
山頂直下の木段 山頂の望楼 望楼の下に由緒書 整備されていない道
 史跡 長官山
 明治24年9月、渡辺千秋北海道3代
長官が全道巡視の途次、この峰に登り、
石狩平野開拓の構想を練る。後長沼・
由仁両町民は、これを記念して長官山
と名づけれ。いらい郷土景観眺望第一
の地として親しまれる。
 氏は長野県岡谷市の出身。その後栄
進して宮内大臣となり補弼(ほひつ)の
・・・負う。 ・・・長沼町・・・
 途中で、木の根に足を引っ掛け、顔面着地をしてしまう。転んだ拍子に足がつってしまい、手で足の指を反らせ固まってしまったふくらはぎが緩むまで、転がっていた。それを見てなのか、小鳥が激しく鳴いていた。
 墓場は広い舗装した駐車場があり、温泉のうるさい親父もいないので、こちらの方が良いのではと思う。墓場のコースはこれでもかと言わんばかりに道標が設置されていた。
 ただ、遊歩道にしては草が多くズボンの裾が濡れ、木の根が隠れていたりしていた。愛棒は心配半分、呆れ半分、怒り数倍で待っていた。
登る時は右へ 登る時は右へ 墓場の奥に遊歩道が 右側の伏古斎場が
コース 登山口 BA文学台 KB伏古斎場 CC馬追温泉
縦 走 長沼スキー場→BA→KB CC→新道→BA→送電線下→KB

二人の山行記録もくじ6へ   次CC→BA→KBへ   アソビホロケール山へ

 二人の山行記録(遊びの時間を含む)
 2003(H15)年5月31日(土) 曇り(単独) 長沼スキー場AB〜墓場BKコース 登り34(53分迷う) 下り22
 10:00長沼スキー場→10:12林道へ→10:28文学碑の広場10:32→道に迷う→11:21再び文学碑の広場へ→11:27頂上11:2811:50墓地