中央区の碑
 札幌市道路元標 札幌農學校用地第九號標 原子修氏の歌碑 北海道庁立札幌高等女学校・大通小学校跡 豊原中学校の記念碑 石森文学広場 石森父子の碑 石森延男歌碑 吟魂碑 相良義重歌碑 札幌護国神社 札幌護国神社彰徳苑 馬頭観世音の碑 あゝ結城先生の碑
=風景写真をクリックすると大きなサイズになります=
 札幌市道路元標 <2015.12.23>  国土地理院地図  Google Map
 道庁正門前に、札幌市道路元標が鎮座している。レンガの壁には元標を解説しているプレートが嵌め込まれている。
道庁正門 元標 プレート 道庁赤レンガ
 札幌農學校用地第九號標 <2016.6.8>
時計台南側 標石
 札幌時計台の南側には標石が鎮座している。標石には「札幌農學校用地」「第九號標」と刻まれている。
 原子修氏の歌碑 <2016.6.8> Google Map
 創成川に架かる北一条橋の袂にある創成川公園内に、原子修氏の歌碑がある。読めない石碑の多い中、読み易い文字でふりがなも打ってある。
創成川 歌碑 碑文 碑陰
 北海道庁立札幌高等女学校記念碑・大通小学校跡 <2016.6.9> Google Map
交差点の一角に 石の造形物の裏に
 石山通の北2条と1条の交差点に門柱や石の創造物や石碑がかたまっている。
 石の創造物は無いを表現しているのかさっぱり分からないが、石の後ろに{記憶素子「丘」・「森」 1989 丸山隆}と刻まれている。
 北海道庁立札幌高等女学校記念碑には副碑もあり、札幌北高の前身が女学校だった旨のことが刻まれている。碑陰を見ると建立は平成4年11月と刻まれている。
 門柱は札幌軟石と思われ、右に「札幌市立大通小学校」、左に「児童通用門」の石板が嵌め込まれている。
記念碑 副碑 大通小学校の門柱
 樺太庁豊原中学校記念碑<2023(R5)年12月20日> Google Map
金属柱 記念碑
 旭山記念公園の手前のバス停「界川2丁目」に石段と金属柱がある。石段を上ると、記念碑が鎮座している。
 碑文には、達筆で読めないが「薫風や/皇城南/一千里/純煌」と刻まれている。
 副碑が添えられ「建立の記」が刻まれている。碑陰と併せて読むと、頌徳句碑だと分かる。
 台座には、校章が埋め込まれている。
 
 記念碑の横に、ひっそりと風化しかけた3体の石仏が身を寄せ合っている。帽子やマフラー、角巻を纏って居るところを見ると、誰かに見守られているのだろう。
碑文 副碑 校章 石仏
副碑
建碑之記

 我等同窓生、曾て昭和十八年
上田校長の頌徳句碑の建立を図
りしも戦時下の情勢により中断
の止むなきに至る。然るに三十
有余年を経て右碑が石巻市亀井
石材店に現存せるを知り母校思
慕の念に堪えず茲に我等が熱意
を挙りて建立の素志を達成せる
ものなり。 母校は大正十四年
開校、昭和二十二年僅か二十有
三年の歴史を閉ず。その間細川
上田、瓜田の三代校長を中心に
師弟一如、教学甚だ興り、その
盛名全国を馳す。
 母校既になし。然れども母校
は豊中教学の精神と共に我等が
胸奥に厳然として存続す。
 茲に右碑建立の由来を記し併
せて母校の歴史と栄光とを永久
に伝えんとするものなり。
 昭和五十四年八月
  樺太庁豊原中学校同窓会
碑陰
純煌 上田光曦先生 昭和二年母校第二代學校長トシテ
 着任同十四年樺太師範學校長ニ轉セラルヽ迄十有三年
 夙夜大豊中建設ノタメ盡瘁セラル先生常ニ士魂ノ陶冶
 ヲ教學ノ中核トセラレ熱涙以テ至誠盡忠ノ大義ヲ説カ
 ル教ヲ先生ニ受クル者誰カ其ノ風ヲ讃仰セサラン時
 方ニ大東亜聖戰下士魂ノ發揚今日ヨリ急ナルハナシ茲
 ニ吾等門生一同先生欣慕ノ情ニ堪へス因ツテ頌徳ノ句
 碑ヲ建立シ報恩ノ微衷ヲ表ス
   昭和十八年 八月
      樺太廰豊原中學校同窓會
宮城縣稲井
亀井久六謹刻
石森文学広場 <2006.11.5>  Google Map
 藻岩山ロープウェイの玄関先に、藻岩山の大きな看板があり、その下に石森文学広場の看板があった。中に入ると水の枯れた石垣造りの水場と思われるものが目に付いた。その奥には小熊(おぐま)亭が瀟洒な佇まいで待ってくれていた。この広場には歌碑や文学碑が鎮座している。
旧山麓駅 広場の入口 水場 小熊亭
 石森和男文学碑
 石森文学広場と銘打っていので、広場の真ん中に、文学碑が鎮座している。
われらが愛する北海道
  第一章
十一州のしずめなる
ヌタプカムウシベ峰高く
われらが心をあらわして
国のも中にそびえたり
  第二章
その山かげをめぐりくる
石狩川は底清く
われらが心をあらわして
大野が原を流れたり
    第三章以下略
  作詞石森和男
 
 石森父子の碑について
碑文
 石垣に、親子の石碑の副碑のように石碑が嵌め込まれていた。
 
     石森父子の碑について
       父 石森和男氏の歌碑は
           昭和三十三年七月建立
 氏は万延元年(一八五八年)宮城県に生まれ 東京大学
古典科を卒業 明治二十九年から三十七年まで北海道師範
学校に勤め その後税務監督局 樺太庁を経て 札幌一中
札幌高女に教鞭をとる
 歌人であり 多くの短歌を遺しているが 校歌や唱歌も
作詞し 碑文の「我らが愛する北海道」は 当時 広く道
民に愛唱された
       長男 石森延男氏の文学碑は
            昭和五十六年五月建立
 氏は明治三十年(一八九七年)札幌市に生まれ 北海道
師範学校を卒業 のち 東京高等師範学校に学ぶ 教職の
経験のほか  文部省図書局監修官として 戦後初の国定
教科書「国語」の編集に当たる
 児童文学者であるととともに 国語教育者であり 「咲き
出す少年群」(新潮賞受賞)「コタンの口笛」(小川未明
賞受賞)「パンのみやげ話」(野間文芸賞受賞)など 多
くの文学作品のほか 教師のための文献も多い
 石森延男歌碑
歌碑
 誰でも読める確りした字体で、刻まれていて安心して読むことができる歌碑だった。
 吟魂碑
吟魂碑
 碑文には大きく「吟魂碑/鳳帥出」と刻まれ、副碑には歌が刻まれている。台座には「創建20周年記念/鳳帥流現代朗吟会/1985:昭和60年10月13日建立」と刻まれている。
藻岩の四季
白いこぶしや山桜
春暁覚めて
   山腰に咲き
山麓の花園は
   陽光に萌え
生彩の気
   ちまたにあふる
 尾角風師●●
 
 相良義重歌碑
歌碑
 誰でも読める確りした字体で、刻まれていて安心して読むことができる歌碑だった。
霧去りて雫したたる
笹の葉に高山蝶が
来て羽たたむ 義重
 
札幌護国神社 <2020(R2).6.27> Google Map
 札幌護国神社(詳細は札幌護国神社のHPを参照)。
 みその橋・鴨々川・由緒書
みその橋 鴨々川 由緒書
 正面入り口にある鳥居を潜り、鴨々川に架かるみその橋を渡る。
 豊平川から分流した鴨々川は創成川となり、一部は海へ、一部は豊平川が注ぐ石狩川へ再び合流する。
 境内に川が流れている神社は珍しい。本殿を真正面に見て、参道を進むと、「札幌護國神社御由緒」の看板がある。
 札幌市保存樹 
イチイ 解説板
 札幌市により1969(S43)年8月5日に指定された保存樹がある。標柱によるとイチイ・ドロノキ外となっている。
 解説板によると、樹齢が880余年となっているが、何時の時点なのか分からない。
 社殿設立記念日を社殿が再建された1970(S45)年とすると、樹齢は2020(R2)現在、935年余となる。
 竹村まや女史の歌碑 
 1965(S40)年10月28日建立の歌碑「石狩の平野/はろ/\志/拓き来て/おや果てにつゝ/子孫住みつく/まや」が鎮座している。
 寝牛石 
寝牛石 由緒書
 寝牛石(ねうしいし)はアッツ島玉砕雄魂之碑(1968(S43))の建立と同時に奉納されたようだ(産地は不明)。
 天皇皇后両陛下御参拝記念碑 
石碑 副碑
 本殿の入口に、記念碑が鎮座している。碑陰や副碑によると、冬期五輪札幌大会の翌年1973(S48)年6月26日に建立されたようだ(施工者は深川市三上石材工業所)。
 さざれ石 
さざれ石
 火災で焼失した社殿の復興記念として、1970(S45)年に奉納 された。3億年前の古世層紀の岩石らしい。
札幌護国神社彰徳苑 <2020(R2).6.27> Google Map
 札幌護国神社の北側一角に、彰徳苑がある(詳細は札幌護国神社彰徳苑のHPを参照)。
 彰徳苑銘碑・桜植樹念誌・砲兵第七隊榮門哨舎
 彰徳苑の入口には、彰徳苑銘碑、桜の植樹記念誌、石碑群を守るように砲兵第七隊榮門哨舎が配されている。苑の銘々は三笠宮同妃、建立は1986(S61)年8月15日と刻まれている。桜の植樹記念誌は第十三期海軍飛行予備学生が1993(H5)年5月13日建立している。
彰徳苑銘碑 副碑 桜の植樹記念誌 榮門哨舎
彰徳苑の由来
 三笠宮同妃両殿下におかれては昭和
六十年六月七日当神社を御親拝になられ
た折 境内諸霊碑を巡拝されて
 宮司 反橋 宏 協賛会長 松家利男の願い
をいれられ特にこの聖域を彰徳苑と
御命名下される
 よってこれを記念し銘碑を建立する
  昭和六十一年八月十五日
札幌護国神社

 雲流るゝ涯に

   散った
 亡き戦友を偲んで
 この櫻を植 樹する

 入隊五十周年を記念して
 北鎮砲兵発祥の地記念碑
記念碑 碑文
 記念碑は砲七会によって、1985(S60)年6月に建立された。榮門哨舎とセットのようだ。
 北鎮砲兵発祥の地記念碑
札幌市長 板垣武四 書
我が、野砲第七連隊の前身独立野戦砲兵大隊
は、日清戦争の後、三国干渉によって国論沸騰の
中に、明治廿九年十二月札幌の地に創設され、記
念すべき北鎮砲兵の殷々たる砲声は石狩河畔に轟
き渡った。明治丗二年十月、連隊の整備開始によ
り、同大隊はそのまま第二大隊と改称し、新たに
第一大隊が編成された。明治丗十三年十月、兵営を
旭川に移転し、同丗四年七月連隊本部が開設され
て、その編成の完結をみた。
 茲に、砲兵発祥の地に記念碑を建立し、ゆかり
ある哨舎の保存と共に、永く先人の遺勲を偲ばん
とするものである。
    昭和六十年六月吉日
        
砲  七  会 
 樺太太平炭鉱病院殉職看護婦慰霊碑 
 慰霊碑は1992(H4)年7月11日に樺太太平炭鉱病院殉職者看護婦慰霊碑建立実行委員会によって建立された。
石碑 碑文 碑陰
  碑陰には、恵須取町字武道沢で自決した6名のご芳名が刻まれている。
 高校生や大学生と同じような余りにも若い年齢にやるせなさを感じる。
碑   文

 太平洋戦争末期の昭和二十年八月、樺太はソ連軍の突然の
参戦で大混乱となった。恵須取町大平地区も十六日未明の空襲で
住民は一斉に避難した。炭鉱病院看護婦二十三人も夕刻になって
避難を始めたが、途中の武道沢でソ連軍に退路を断たれ、最悪の
事態を予測した高橋婦長らは、十七日未明に集団自決を図り
六人が絶命した。あまりにも悲しい事件であった。
 以来、四十七年。殉難者への思いを募らせる遺族や生存者、
この事件を終生忘れてはならないとする元大平地区居住者らが
発起人となり、ゆかりの人たちや王子製紙・十條製紙・本州製紙
神崎製紙の旧王子製紙系四社、その他関係団体の協力でこの碑を
建立した。ここに六姫命の御霊を祀り、永遠の鎮魂と祖国の
限りない平和を祈念する。
    平成四年七月十一日
     樺太大平炭鉱病院
殉職看護婦慰霊碑建立実行委員会
 歩兵第二十六聯隊軍旗奉焼之碑
石碑 碑文
 石碑の裏側に碑文が配されているので見難いが、歩兵二十六会によって1986(S61)年9月14日に建立された。碑陰にも何かが刻まれているようだが、頭を突っ込まないと見られないので止めた。

歩兵第二十六聯隊軍旗の沿革

明治三十三年十二月二十二日 軍紀親授式 皇城正殿
    同  年十二月二十六日 軍紀拝授式 旭川練兵場
大迫師団長より次の勅語が伝達された
勅語
歩兵第二十六連聯隊ノ為ニ軍旗一旒ヲ授ク 汝軍人等
協力同心シテ益々威武ヲ宣揚シ 我帝国ヲ保護セヨ
太田連聯長は次の如く奉答する
謹ンデ 明勅ヲ奉ス
臣等死力ヲ竭シ誓ッテ国家ヲ保護セン
明治三十七年十一月\
日露戦争に従軍第三軍に属し赤坂山
 同 三十九年  三月/
二〇三高地奉天戦に参加
大正六年四月\     
満洲派遣 北満に駐剳中シベリヤ
 同 八年五月/     
事変に参加
大正九年八月\     
満洲派遣 サガレンに出兵
 同 十年七月/     
討伐 警備 治安維持
昭和九年三月\     
満洲派遣 満洲事変に從軍
 同 十年七月/     
討伐 警備 治安維持
昭和十三年三月\   
満洲派遣 支那事変に從軍
 同 十五年九月/   
チチハルに駐屯
       昭和十三年三月−六月 徐州会戦に参加
       同 年 八月−九月 長鼓峯事件に参加
       同十四年六月−九月 第二次ノモンハン事件に参加
        同十四年九月−同一五年九月ハンダガイ附近の国境警備

昭和十六年十二月\ 
大東亜戦争に從軍 昭和十九年二月〜十月 北千島
 同 二十年 八月/  
幌筵島に進駐して同島の守備
       同年十月本土決戦に備えて道東地区の守備
      同二十年八月十五日ポツダム宣言を受諾
      同年八月十七日極秘電により札幌月寒に移駐
       同年九月十日軍令により月寒神社境内において
      軍旗を奉焼

ここに光輝るある歩兵第二十六聯隊の終焉をつぐ
 輝けるわれらが御旗のいさおしは
   平和のねがいこめてわすれじ
 歴戦の強者どもが畏しこみて
   散りにし御旗ここに鎮まる
 昭和六十一年九月十四日
 歩兵第二十六連隊軍旗奉焼之碑建立期成会一同識
 札幌招魂社碑 
石碑
 札幌招魂社碑は1934(S9)年7月に帝國在郷軍人会札幌支部によって建立された。
 頌徳碑 
 石碑の台座裏には、1925(T14)年10月に帝國在郷軍人會札幌市分會建立と刻まれている(札幌市加藤友次郎作)。この石碑は1960(S35)年移設されたようだ。台座には石板が嵌め込まれていて、北海道帝國大學總長佐藤昌介氏の筆による関係者名が刻まれたいる。もう一つには、頌徳之詞が嵌め込まれ、1967(S42)年9月と刻まれているので、後付けされたのだろうか。台座裏には116名の祭祀名を刻んだ銅板が嵌め込まれている。
石碑 石板 頌徳之詞 台座裏
正五位勲三等功四級松本
勝四郎君資性誠愨重厚夙
任陸軍累進一等主計正退
役後見舉帝國在郷軍人會
札幌區分會長淬勵多年誘
掖會員造成鉅萬基本金加
之盡世無進公益効績亦不
尠可謂垂範當世流芳後●
者矣今茲會員胥謀欲彰厥
コ徴予文乃草之勤貞后云
大正十四年九月中浣
北海道帝國大學總長
正三位勲一等佐藤昌介撰
頌徳之詞

戦敗社稷存亡将危
宸慮悲深英靈装地
憂國之志士仰天嘆
郷軍之老友起作集
肖社名稱呼彰徳會
朝弔英靈夕慰遺族
滅私事公無寧日
重星霜茲經〇餘歳
僚友漸老物故加數
時聴訃音哀悼更切
惟謂卿等亦殉天職
?合祀慰靈偲遺コ
昭和四十二年九月
財団
法人札幌彰徳会理事
(6名の名前省略)
 尼港殉難碑
 碑陰には昭和三年の文字が読み取れるだけだった。殉難碑は1928(S3)年10月に帝國在郷軍人會札幌分會が建立したようだ。
 尼港(にこう:ロシアのニコライエフスク)で、パルチザン(共産ゲリラ)を名乗るトリャピーツィンと言う狂人らによって、大勢の白系ロシア人や日本人がリンチを受け殺された凄惨な事件だが、この碑には詳細は刻まれていない。小樽手宮公園にもこれよりも古い尼港殉難碑があり、碑文もある。
 アッツ島玉砕雄魂之碑
  石碑はアッツを偲ぶ会によって1968(S43)年7月29日に建立された。副碑には、碑の由来が刻まれ、冒頭に「短きを何かなげかむ 君のため/御国のため/捨つる命は」と玉砕兵士の遺作が刻まれている。
石碑 副碑 アッツ島の石
 アッツ島(アメリカのアリューシャン列島)の石は、後日、友好の印としてアメリカ人が寄贈したもののようだ。台座には1989(H元年)5月と刻まれている。
   碑 の 由 来
 短きを何かなげかむ 君のため
    御国のために 捨つる命は
       (玉砕兵士の遺作)
大東亜戦争も苛烈の度を加えつつあった昭和十七年六月、
日本軍はアリユーシャン列島アッツ・キスカ両島を占領し、
北方よりの米軍反攻に備えていたが、翌十八年五月十二日
未明突如米軍は陸、海、空より二萬余の大軍を以てアッツ島
を攻撃し上陸してきました。
山崎保代大佐を長とする二千六百余名の守備隊は寡兵よ
く敵の猛攻を破砕して大いに日本軍の真価を発揮しまし
た。
血闘すること十有八日残存兵力僅か百数十名となるに及
び五月二十九日山崎部隊長を先頭に敵陣深く突入し、鮮血
孤島の残雪を彩り日本で初めて守備隊全員が玉砕したの
であります。
 嗚呼!!悠久の大義を絶叫し、鬼神をも哭かしむるそ
 の烈々たる愛国の至情こそは、千載に語りつがれる
 べき武人の華であります。
   又アッツの雄魂がキスカの戦友撤収するに際
  し、其の行動を守護する数々の神秘を具現し、奇
  跡の撤収を成功させたのであります。
  かつての同僚相図りアリユーシャン方面作
  戦に於て散華せる戦友の偉業を後世に伝え、
  国家の繁栄と世界平和に貢献すべく、ゆかり
  の地に碑を建て永く英霊を祀りその鎮座を
  祈念するものであります。
     アッツ島玉砕雄魂之碑
        顕彰会一同識
      付 記
     一、建立 昭和四十三年七月二十九日
   二、慰霊祭 毎年五月下旬に行われてい
            ます。
   三、石材の種類
      碑石 神居古潭石 三二屯
      台石 日高角閃岩 二三屯
 ノモンハン英魂之碑
 石碑は1967(S42)年9月16日にノモンハン戦没将兵慰霊碑建立期成会が建立したと碑陰の碑文の中に刻まれている。碑陰には事件50周年の1989(H元年)8月に現地慰霊団が持ち帰った砂を碑のもとに埋めたと刻まれている。
 副碑は、1968(S43)年7月29日に建立され、詳細が刻まれている。
石碑 碑陰 副碑
  碑   文
 昭和十四年五月満蒙国境ノモンハン附近
ニ紛争起ルヤ 当時北満ニ駐剳中ノ 我ガ
第七師団ノ諸部隊ニモ出動ノ命令ガ下リ
六月以降逐次コノ戦闘ニ参加シテ 敵ノ機
械化部隊ニ対シ勇戦奮闘 克ク守備ノ任ヲ
果シ北鎮部隊ノ名声ヲ高揚シタリ
 然レドモ肉弾体当リノ敢闘ハ停戦ニ至ル
僅カ三ヶ月ノ間ニ 千五百有余名ノ戦友ヲ
遠ク異境ノ地ニ散華セシメ 尚二千余名ノ
将兵ガ傷ツクニ至レリ 噫
 爾来年ヲ経ルコト 二十有八年我等生キ
残レル戦友歳ト共ニ思慕ノ情切々タリ
此処ニ戦友相倚リ相図リ 特ニ遺族他各方
面カラノ協力協賛ノモトニ之ノ碑ヲ建テ
永ク英魂ヲ祀リ其ノ鎮座ヲ祈念スルモノナ

 昭和四十二年九月十六日
  ノモンハン戦没将兵
  慰霊碑建立期成会会員一同識
 ノモンハン事件五十
周年の平成元年八月悲
願の現地慰霊がかない、
本道から慰霊団に参加
された一行が遠く異境
の地に眠る魂魄の安泰
を願い万里を越えて故
国に持ち帰えった砂を
英魂之碑のもとに埋め
てとこしなえに鎮座を
祈念する.
ノモンハン英魂の碑顕彰会讃
  英 魂 之 碑 由 来
 巍然としてまろやかに 威あって猛からず
 在りし日の君を彷彿 護国の礎石となりて
 
御魂此処に鎮まる
 ノモンハン事件は、旧満州国興安北省ホロンバイル草原ノモン
ハン地区において、満蒙国境線をめぐり、昭和十四年五月十一日
から同年九月十六日の停戦に至るまで、日満軍対ソ連モンゴル軍
の双方が死力を尽くした史上空前絶後ともいうべき凄愴なる肉弾戦
であった。
第七師団将兵も六月二十日より逐次これに参加し、三ヶ月に亘る
戦闘で、不幸にも千五百有余名が遠く異郷の地に散華したるは誠
に痛恨慟哭の極みというべきである。
今や日本は平和国家として、世界に冠たる経済大国に成長したが、
この陰には戦没者の尊い犠牲のあることを銘記すべきである.
さきに我々はノモンハン勇士の遺徳を偲び昭和四十二年九月十六日
英魂之碑を建立し、この度建碑二十年に当り茲にその「由来碑」を
建立するものである。
    (ハルハ河をふりかえり一兵士が詠む)
  うしろ髪ひかるる思いぞハルハ河
     戦友の
遺体すがた を如何で忘れん
    英魂の碑の構造及石材の種類
     碑銘揮毫 須見新一郎(元歩兵二六連隊長)
     正面巾 六メートル
     奥 行 五メートル
     碑 石 神居古潭石系油石30屯
          (自然石)
     石 垣 京都風石積み 角閃岩
     階 段 茨城県稲田産白みかげ石
     塀 垣 研磨した角閃岩
     床 石 十勝産青みかげ石
     台 石 角閃石(自然石)25屯
         昭和六十一年九月十四日
         ノモンハン英魂之碑顕彰会
 屯田兵招魂碑 
招魂碑
 屯田兵招魂(云が上に鬼の上の点が無いのが下)碑は碑陰を見ると1818(M11)年2月建立のようだ。碑陰は自然石にコンクリートを塗り、文字を刻んだようだ(〇は欠けた文字、●は読めない文字、■は氏名)。
〇〇別働第二旅團長屯田兵第一大隊屬焉轉戰數月奮闘而
●於行間者弐十八人陸軍中将兼参議開拓長官正四位勲一
札幌請陸軍大将兼議長議定官二品大勲位前征討總督熾仁
予部下使予記其梗概因勒各人姓名於左

〇〇三十日〇〇〇〇 戰歿准陸軍軍曹■ 六月一日戰歿于人吉 准陸軍軍曹■
 -----中略(戰歿5名、病歿32名)-----
明治十二年二月
陸軍中将兼議官司添大輔従四位勲二等山田顯義記 廣群鶴鐫
 忠魂碑 
忠魂碑
 碑文は「忠魂碑/希典書」と刻まれている。碑陰にも建立月日は見当たらない。
 山鼻神社碑 
 由緒書を要約すると、「山鼻神社は山鼻屯田兵村の守り神。社号碑は、1876(M9)年2月建立されたが、1971(S46)年9月5日現在地に新設建立した。同時に祭神名碑の3柱は彰徳苑の遷座。山鼻神社碑(切妻神明造社)は、1876(M9)年2月より、南30条西11丁目の中神建設敷地に鎮座しているところを発見され、1990(H2)年に遷座。」と記されている。
社号碑 由緒書 大山祗大神碑 耳早立雄之神碑
 山鼻神社碑の碑測には明治九年二月の文字が刻まれている。
天満宮碑 山鼻神社碑 山鼻兵村
 石灯篭の台座にも山鼻兵村の文字が刻まれている。 
 メレヨン島戦没者慰霊碑 
 メレヨン島(ウォーレアイ環礁)戦没者慰霊碑は1971(S46)年10月に北海道メレヨン会によって建立された。
 碑陰には碑文が刻まれ、石碑の裏側には、島の位置、部隊の行動計図、戦没者名を刻んだ銅板を嵌め込んだ副碑と祭壇が添えられている。祭壇には九九式重防楯が前面にあり、その後ろに碑文が刻まれている。
 台座裏には、1977(S52年7月3日に全国メレヨン会北海道大会が開催された名簿が埋め込まれている。
慰霊碑 碑陰 地図 九九式重防楯
 碑  文
第二次世界大戦中西カロリン群島
メレヨン島守備部隊は寧日なき米
軍の猛爆撃を受け高温多湿悪疫瘴
癘に悩まされつつ食料医薬品の欠
乏に斃るるの続出し陸海軍総員
六千八百名中実に五千二百名を失
ふに至るこのうち本道出身戦歿者
約一千四百名の多きに達す
茲に南洋の珊瑚礁に眠る英霊を弔
慰するため遺族並びに僅か二百名
の生還者一同相寄り相扶けこの碑
を建つ
昭和四十六年十月
  北海道メレヨン会
右の防盾は昭和五十年十一月
第三次遺骨収集派遣
団員としてメレヨン島に赴いた
富樫正雄氏が曽ていくさの
庭であった南溟の同島で
あまた戦友の御遺骨と共
に土中に埋もれていたものを
持帰りメレヨン島戦歿者
遺族会が之を碑前に捧ぐ
千早振る
大和島根は
ゆるぎなし
沖乃白波
寄せて
砕けよ
米軍の反攻熾烈を極め
食糧の危機その極限に達す
昭和二十年一月当時メレヨン島
守備隊長北村勝三少将が
詠んだこの和歌は太平洋の
防波堤として烈々たる斗魂
と責務を示し全将兵の
志気を鼓舞したものである
北村氏は戦後割腹自決
をしてその生涯を遂げられる
戦没者名 碑録
 この碑は1974(S49)年9月22日に建立された。碑の台座にある砂と貝殻は1966(S41)年5月に持ち帰ったものとのこと。碑陰には、部隊の行動記録が刻まれている。
   碑   録
昭和十九年二月満洲を出発した関東軍第二十四師団の三阡三百の精鋭は釜山から
門司に至り輸送船団を編成し台湾、パラオ、サイパンを経て同年四月九日ガム島に
至るも同島を目前にした払暁米機動部隊の魚雷を受け指揮船松江丸以外の僚船
は悉く炎上した
昭和十九年四月十二日目的地メレヨン島に上陸し既に配備を完了していた海軍
部隊と合流したが同月十八日第一回の空襲を受け多数の戰死者を出し加えて兵器
彈薬糧秣の殆んどを失ひ爾来終戰迄連日の空襲を受けた
この空襲以後すべての補給は断れ昭和十九年末頃からは極度の食糧の不足により
死亡者も急増し陸海合せて六阡八百と言はれた兵力も遂に五阡ニ百余の戰歿者
を出し更に制空制海権をも失った同島は完全に太平洋上に孤立するに至り部隊
としての編成は事実上その機能を失ひ昭和二十年八月十五日戰争終結となった
翌九月十五日現地において武装解除直に病院船高砂丸に乘船帰国の途につき同月
二十六日大分県別府市に上陸翌十月七日部隊解散となる
昭和三十九年末メレヨン島からの生還者少数によって北海道メレヨン会が結成さ
れ翌々年四月現地への墓参と遺骨の蒐集を計画し民間自費で北海道は平野春栄氏
東京は小関信章氏大阪は沖中慶ニ氏が現地に出発翌五月現地での任務を終って
帰国した三氏は広島県福山に全国メレヨン会の建設した碑に納骨し続いて七月
北海道地区は平野春栄氏の報告をかねて慰霊祭を行う
北海道メレヨン会は昭和四十六年慰霊碑を建設したので我々は之を機会に
遺族会を結成しこれまで長期にわたる生還者の厚意に依存してきたことに思ひ
をいたし氏名碑を建て慰靈碑の補足とし部隊の行動と現在までの経過更には
壱阡四百十二名の戰歿者を後世に記録するためこの碑を建てる
  昭和四十九年九月二十二日
     メレヨン島北海道遺族会    会長 藤枝義見

 この碑に記録された者は昭和十九年四月十二日から昭和二十年九月二十五日までの間
 にメレヨン島又は船中において戰歿した者とし所属部隊及び氏名はすべて北海道庁
 の戰歿者台帖によって確認した 又留守家族が道内にあった者を原則と
 したが例外として遺族が道外から転入し申し出た者は記録した
 碑の台座にある砂と貝殻は昭和四十一年五月代表者が現地から持ち帰ったものである
 北千島慰霊之碑 
 北千島慰霊之碑 昭和50年 8月23日建立 建立者 北千島慰霊の会
千島列島ノ最北端ニ位置スル占守 幌筵ナド北千島ノ諸島
ハ、大東亜戦争ニオケル本土防衛ノ北東方面第一線ニシテ
コレヲ守ル第五方面軍第九一師団ヲ基幹トスル陸海軍将兵
及ビ民間産業戦士等ハ、北洋の孤島特有ノ酷烈ナル自然ノ
重圧ト、戦況ノ悪化ニ伴ウ補給途絶ノ艱苦ニ耐エツツ、長
期ニ亘リテ志気些カモ衰エルコトナク、迎撃ノ闘魂ニ燃エ
テ防衛任務ヲ遂行セリ。然乍ラコノ間ニオイテ、或イハ空
中戦ニ 或イハ米軍ノ艦砲射撃ヤ空爆、輸送中ノ雷撃ヤ疾
病等ニヨリ 任務ニ殉ゼル者モ、ソノ数少ナカラズ。
昭和二十年八月十八日未明 時既ニ終戦ノ大詔ハ渙発サレ
全軍矛ヲ収メタル後ナルニ、突如、ソ連軍ハ猛烈ナル砲爆
撃ノ支援ノモト、全北千島占領ノ企図ヲモッテ、占守島国
端ノ竹田浜ニ攻撃シ来タレリ。予期セザル奇襲ニ対シ自衛ノ
タメ直チニ反撃ニ立テル我ガ軍ハ、激闘数時間ニシテ敵ニ
壊滅的打撃ヲ与エテソノ行動ヲ頓挫セシメ、更ニ敵ヲ一挙
ニ水際ニ殲滅スルノ態勢ニ至レルモ、軍命令ニヨリ、同日
一六時攻撃ヲ停止、停戦協定ヲ締結シ、ニ三日武装ヲ解ク
コノ戦闘ニオケル我ガ軍ノ戦死約七百名ナリ。
コノ後 全将兵ハソ連領内ニ抑留サレ、極寒ト飢餓ト恥辱
ノ境ニ彷徨シツツ強制労働ニ服スルコト数歳、遙カニ故国
ヲ望ナガラ非命ニ倒ルルモノ多キハ、痛恨ノ極ミナリ。
戦後時移リテ三十星霜 未ダ戦跡ヲ訪ネテ弔ウヲ得ズ、シ
カモ北千島戦史ノ世ニ埋没シユクヲ悲シム。
茲ニ戦友遺族相侍リ、殉国ノ英霊神鎮マリマス札幌護国神
社ノ境内ニ碑ヲ建テ、ソノ武勲ヲ讃エテ、英魂ノ永遠ニ安
ケキヲ祈念スルモノナリ。
  昭和五十年八月二十三日
北千島関係戦歿者慰霊碑建立者 識
 南方地域戦死者慰霊碑 
慰霊碑 位置図 副碑
 慰霊碑の両側には、位置図と碑文が刻まれた副碑が配されている。
碑 文
先の大戦より戦後六拾有余年経た今日。皇国の防人として
灼熱の南洋の地に於いて椰子の葉陰に南十字星を仰ぎつつ
祖国の山河を夢まで見つつ、散華され、洵に痛恨極まりなし。
南方戦線 従軍 全戦死者 諸英霊の 勇戦敢闘滅 私奉公の
事蹟の尊き礎の上に日本の平和がある。
天命の定めにより、ニューギニア帰還兵の卒寿の齢の一古老
特に パプアニューギニア方面に 生死を共にせし
三百八十名の戦友の無念を思う。
全戦死者に 万感の想いを致し、鎮魂の誠を捧げ、
恒久平和の願いを建碑にこめ後世に遺すものである。
 平成二十一年十月吉日 建立者 伊藤義顕
 北海道全海軍英魂之碑 
 北海道全海軍英魂之碑は昭和53年8月20日に北海道全海軍の集いにより建立された。碑の両脇には錨が配されている。錨には「住友重機械工業株式会社・浦賀造船所」と刻印されている。傍には「昭和19年10月24日ヒ島シブヤン海に/軍艦武蔵戦没四十周年/北海道軍艦武蔵会」の看板がある。
英霊の碑 碑文 刻印 40周年
 守るも攻むるもくろがねの 浮かべ
る城ぞたのみなる
・・・・勇壮なる軍艦行
進曲のもと、固く心を結び合ったあの
海軍生活。その絆をもとに北海道全海
軍の集いは組織され、旧交を温め未来
を語り、郷土の発展と平和に寄与すべ
く歩みを続けつつある。
 日本の命運を賭しての戦いに敗れ、
慟哭の中で迎えた終戦以来すでに三十
有余年。思えば日本海軍創建以来、遠
くは日清、日露の戦いから、近くはあ
の太平洋戦争に至るまで、いかに多く
の将兵たちが戦火に斃れ、祖国に殉じ
ていったことか海ゆかば水漬く屍
・・・
と冷たい大海原の底深く沈み、あるい
は雲流るる果てに散っていった戦友た
ち。今われわれが享受している日本の
平和と繁栄は、これら多くの英魂の献
身と犠牲の上に築かれたものであるこ
とを銘記せねばばらない。
 ここにわれわれは、北海道、千島、
樺太にゆかりのすべての海軍関係戦没
者および戦後の物故者の霊を祀り、永
遠にその遺徳を偲ぶとともに、日本の
恒久の平和と郷土の繁栄を願う象徴と
し、また、われわれ海軍関係者の心の
ふるさととして、この英魂の碑を建立
する。
昭和五十三年八月二十日   
北海道全海軍英魂之碑建立期成会
 沖縄戦戦没者慰霊碑 
 慰霊碑には、供物や花束が置かれています。今日も、女子生徒がお参りに来られたいました。碑陰には碑文が刻まれ、石碑の後ろには、市町村別に戦没者名が刻まれています。
慰霊碑 碑陰 建立年月日 戦没者名
 太平洋戦争末期の沖縄戦は史上稀に見る激戦となりました。昭和二十年三月二十六日
の慶良間列島に次いで、四月一日に沖縄本島に上陸した五十四万の米軍と十一万の日本軍
との間で、住民を巻き込んだ熾烈な戦いが繰り広げられました。六月二十三日に日本軍の
司令官が自決し、組織的戦闘は終わりましたが、最後の日本軍守備隊が降伏文書に調印
した九月七日まで、抗戦が続きました。
 沖縄戦の全戦歿者は二十四万人、日本人戦没者は二十二万六千人とされています。沖縄
住民を除く日本人戦没者七万七千人のうち、都道府県別では、北海道出身将兵が一万八百人
と最も多かったのです。
 昭和四十年九月に北海道沖縄会が、世界の恒久平和実現の願いを込め、北海道出身の
戦没者を祀るために、沖縄戦英霊紀念の碑を札幌藻岩山麓の私有地に建立しました。
 以来半世紀近くが経ち、札幌護国神社の彰徳苑に移転・新築することになりました。
新たな慰霊碑の基壇には、元の碑に埋め込んであった沖縄の小石を移し、五十四枚の御影石
に、沖縄戦戦没者の名前を出身地ごとに刻銘いたしました。
平成二十三年六月二十三日 建立
北海道沖縄会
七色に 彩り変わる 沖縄の
海見ゆる山に  君は果てしと
黒田 せい
 馬頭観世音の碑<2012.12.3>   Google Map
石碑
 小別沢線の沿線に小別沢会館があり、その前に馬頭観世音の碑が鎮座している。碑陰には昭和10年9月17日と刻まれている。
 あゝ結城先生の碑<2011.11.18>   Google Map
 盤渓小学校の正門には「許可なく校地内へ侵入は禁止します。学校長」の看板が架かっていて、気後れするが、学校関係者に出会ったら許可を求めようと校門から入ってみる。校庭の網のフェンスには、生徒が焼いたと思われる陶器のお面が括り付けられている。校庭に入ろうと思ったら、冬期閉鎖中のようだったが、無害進入なので、アスレチックのある山側へと辿る。
 石碑は校章と共にあり、石碑を見ると「あゝ結城先生」と彫られていた。傍に、碑文があり由緒が刻まれていた。
正門 石碑と校章 石碑 碑文
 碑文を見ると大正11(1922)年12月22日の夜中に、吹かれて亡くなった先生の追悼の碑だった。当時は、小別沢のトンネル(1928年完成)が無かったのでその上にある割れ目を超えて盤渓まで来たのだろうか。
   故結城先生を偲ぶ
今は昔熊笹道を覆ふ盤の
沢開拓に勵む頃四十二年前童
心に哀しい想い出を残した。
あゝ先生がこの地に御着任以
耒六年の星霜内容整備充實
尽痒校舎新築亦成り永年待
望の小学學校昇格をむかえた
大正十一年十二月二十三日落成式前日
教育勅語戊申詔書奉遷の途上
山の夜道の猛吹雪大自然の猛威に先
生遂に力尽く生死の境紋衣で
包み堅く抱きあたら四十二才尊い
殉職の身となる
先生常に児童と金剛石をうたって金
剛石先生と敬称され慕われつゝ校下の
信頼を深められた
あゝ先生の尊い御霊に永遠にこの
地にとゞめる 先生を偲ぶ教えを子
同志の方の心は凝ってこの記念の
碑となりました あゝ先生
進藤子撰文清碧山人書
 碑裏にも建立年が刻まれてはいなかったが、大正11(1922)年、の出来事で、碑文には42年前と刻まれているので。昭和39(1964)年の建立と思われる。

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