ゆかりの碑(標高100m) |
アクセス 洞爺湖温泉街にある「洞爺湖ビジターセンター」裏手に広がる「有珠山金比羅火口災害遺構」の散策路中にある。駐車場所はビジターセンターか遺構展望台の前にある。 国土地理院地図 周辺地図 |
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金比羅山火口災害遺構散策路(別HP有り)を歩いていると、何も書かれていないモニュメントがあり、その傍に開設板、跡地の碑、ゆかりの碑がある。 この碑は湖畔に立っている「回生」の碑と対になっているようだ。 |
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モニュメント | 解説板 | 跡地の碑 | ゆかりの碑 |
ゆかりの碑---------- 北海道で結核性疾患にかかった教職員を療養させるサナトリュームとして、昭和18年に開設 された北海道教員保養所がこの周辺に建っていた。昭和40年代には教員にかぎらず、道職員のほ かの入所者枠を広げ、また、全道の小・中学生の病弱生徒療育施設として「みずうみ学園」を併 設し、退所復帰研修の場としても効果をあげていた。しかし、昭和52年の有珠山噴火で全員避 難、昭和53年泥流の直撃を受けてこの地での再開を断念した。 昭和58年、患者・地域住民を含む関係者一同が「教員保養所ゆかりの会」を組織し、この地 で死と再生の明暗を超えた多くの人達の思いを刻むため、美唄市生まれ、イタリヤ在住の彫刻家 安田侃氏に「ゆかりの碑〜後に回生」のの制作を依頼した。現地調査に訪れた安田侃氏は、最終原 案に込める思いをこう綴ってゆかりの会事務局に送っている。 「病気を克服した人々が押したり、さわったり、よしかかったり、生きている喜びを身体で感じ られるような、そんな石の碑を追い求めてきました。そして湖畔には歩けぬ友を背に負った療友 の姿が浮かんで消えないのです。湖畔の碑「回生」も跡地の碑「ゆかりの碑」もどちらも欠くこ とができません二点で一作品のつもりです。」 今回の噴火でこの「ゆかりの碑」も熱泥流の直撃を受けたのであるが、奇跡的になんの損傷も 受けずにこの地に鎮座していたのである。 |
北海道教員保養所跡地 「北海道教員保養所」は1940年教職員の初期結核患者の保養施設として発足以来 40年間、太平洋戦争という未曾有の苦難の時代を乗り越え、常に、先進的医療と 取組み「結核」という伝染性難病を我が国から追放する役割の一端を担う存在で あった。木造平屋建て赤い屋根5棟が並列する保養所は、この40年間に患者と 医師や職員その家族を含め延べ8,000人が、洞爺湖の美しい自然にふさわしく助け合い 励まし合って療養の日々をおくっていた。また、発展途上にあった温泉町の経済を 助け、文化や医療にも貢献したこともあって、街の人々との温かい交流も生まれ、心や病を 癒すきずなとなっていった。 さらに、1959年には作業療法の一環として、全道の小中学校病虚弱児童生徒 対象の療育施設「みずうみ学園」を併設し、回復期患者の研修療法として成果をあげ 注目された。 しかし、医療品の開発、外科医療法の進歩、或いは予防医学の発達により 患者の減少期をむかえ、施設の老朽化も考慮し検診センターとして建替を計っていた矢先 1977年 有珠山噴火、引き続く泥流災害の直撃を受けて1978年対に閉鎖のやむ なきに至った。私達は、教員保養所ゆかりの人々を集い、保養所の在りし日に想いをはせた 1984年洞爺湖畔にモニュメント「回生」を、この地には慰霊の碑を建立した。 1994年12月吉日 北海道立教員保養所ゆかりの会 虻 田 町 教 育 委 員 会 |
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二人の散歩路記録 (遊びの時間含む) 2009.10.22 |