手宮公園(標高90m)
    高射砲台座跡 技師青木政徳之碑 物故船員慰霊碑 手宮緑化植物園 尼港受難者追悼碑

 アクセス
 小樽の錦町の変形交差点から注意して手宮公園を目指す。
 国土地理院の地形図   周辺地図
=写真をクリックすると大きなサイズになります=
 高射砲台座跡 <2010.8.10> 国土地理院の地形図
競技場
 小樽手宮公園競技場の一角に高射砲台座跡があった。4つあった内の1つらしいが、まだ、しっかりしている。その傍に、真新しい石碑が建っていた。建立年は昨年6月11日と彫られている。
 傍では、学生が汗を流して赤いトラックを走っていた。戦争と平和のコントラストが何とも言えない。
 アンカーボルトの上に高射砲の幻影を見ながら、親父から聞いたグラマン戦闘機の空襲の話しを思い出す。
台座跡 台座跡と石碑 石碑 アンカーボルト
 技師青木政徳之碑 <2010.8.10> 国土地理院の地形図
石碑
 漢文で書かれた碑文を目の前にして、呆然と佇むのみだった。高校時代に漢文をチンプン漢文と言っていたことを思い出す。同時に、学の無さが悲しい。解読できないところが多々あるが、漢字を追うだけで、内容が分かりそうな気がする(古い赴の文字がPCに無い)。
 それにしても、防波堤工事のため、体を壊して三十半ばで亡くなられたとは痛ましい。
君姓青木名政徳幼稱武之助元治元年十月生於京都城番屋敷父曰政方属所
司代為砲術師範母桂氏君其二等也長兄大而君水屋性活達勇毅幼与群児戯
常為其領袖明治十三年為銭道局見習生明治十八年余之赴任琵琶湖疎水工
事方起工之初使君建事於長等山随道井状●工區蓋長等山随道者本邦第一
之長随道也而我邦工業幼稚工事困難然君能完成之明治二十一年及關西鐡
道會社起工将穿加太随道●董工之人白石博士謀之子●發乃推君君●完其
任更随平井博士従事於北海道炭礦鐡道會社亦能蓋其責明治二十六年任北
海道廰属就廣井博士従於小樽築港之事明治二十九年赴任北海道廰技師三
十三年於正七位築港防波堤工事起也君自被潜水服深入海中潜工時寒冷裂
●冐風雪而験波涛之力盡瘁不別晝夜遂得病而高旦才己余時為北海道廰鐡
道部長屋勸君以静養不聴防波堤工事益進而君病無號篤堤●成而君入鬼籍
芙悲大時明治三十三年五月十八日行年三十有八葬検京都六角大宮滿福寺
防波堤於手宮山縞海相對而呼欲應君之相知相謀建碑於山上欲傳君績前北
海道廰長官北垣男爵題字余不得以不文辞乃叙其梗概如是
明治四十四年八月     従四位勲三等工学博士田邉朔郎誌
                        従五位勲四等大邸屯書
 物故船員慰霊碑 <2010.8.10> 国土地理院の地形図
慰霊碑
 海難事故で亡くなられた方々の霊を慰めるため、昭和46年8月20日建立したようだ。
 手宮緑化植物園 <2010.8.10> 国土地理院の地形図
センターハウス
 手宮公園の中に延びる細い道を辿って行くと、小樽にしては広い無料駐車場に辿り着く。奥にセンターハウスが見えるので行って見ようと歩き出すと、小樽港が一望される。傍に看板があり小樽市の選定している重要眺望地点と書かれている。
           ←大
小樽市重要眺望地点より小樽港を望む
 センターハウスから、中央分離帯がある舗装道路を下って行くと、両側にアジサイの花が咲いていた。下には、東屋があり展望台にもなっている。ここからも小樽港が見渡せる。更に下に行ってみると厩(うまや)稲荷神社があり、ここからも入口があった。
海に向う中央道路 東屋 展望台から 厩稲荷神社
 尼港受難者追悼碑 <2010.8.10> 国土地理院の地形図
 石碑と言うよりは、廟だと直感する。碑文を見るとやはり遺骨が納められていたが、現在、遺灰は小樽市中央墓地(緑町)の萬霊塔で供養されていると刻まれていた。中に入ると右手に五輪塔、中央に納骨されていたと思われる納骨堂がある。一回りして外に出ると、「義烈千載」の碑があり昭和11年12月に建立されたようだ。大正7(1932)年5月24日の尼港(にこう:ニコライエフスク)事件の顛末が書かれていると思われるが、難解で読むのが大変だ。
納骨廟と五輪塔 碑文 納骨堂だった 義烈千載
尼港殉難碑   陸軍大将正三位勲一當加三級町田經字豪額  雪畦山田實丸書
大令ヲ奉シテ異城ニ防衛ノ重任ニ●ル将士一身ヲ挺シテ遡北ニ産業ノ開拓ニ従フ勇者一朝交通
杜寒スルヤ暴灰ナル楚徒ノ覚フ所トナリ蒙ニ故國ノ天ヲ仰キ空シク恨ヲ呑ンテ死ニ就ク霊ニ傷
心断腸ノ極ナヲスヤ大正九年三月十二日我力尼港守備隊及ヒ居留民等六百有餘名残忍厭クナキ
過激派ノ毒刀ニ●レ●テ五月二十四日●議ナル魔手ニ罹リ●窓ノ下ニ屈辱ヲ忍ヒシ同胞一百數
十名亦盛●ノ惨ニ遭ヒ天日●クシテ霊暴々月色淡クシテ風断●タリ蒙ヲ聞キ急派セラレタル救
援軍ハ萬難ヲ排シテ尼港ニ突進シ直ニ遺戦ヲ●索拾枚ス根嘉ノ述言語ニ絶シ残虐ノ状正視スル
ニ堪ヘス乃チ悲ニ之ヲ芥張ニ附シ忠魂塔ニ納メテ弔慰ス●●進軍ノ撤退ニ伴ヒ亜港ニ安置セシ
カ大正十三年小樽市ハ軍ニ請ニ納骨搭ヲ築キ之ヲ撰安奉●シ年次期ヲ定メテ祭祀ヲ嚴修ス蓋シ
本市ハ殉難将士及ヒ同胞カ足跡ヲ取セル最後ノ邦土ニシテ事蒙ノ惨禍ニ對シ市民ノ哀愁慎愴尤
モ深刻ナシハナリ當時号ニ碑ヲ建テ其ノ遺烈ヲ後●ニ傳ヘントシ議未タ勲セスシテ己ム今茲積
徳ノ一長老卒先塔ヲ修治シ廻ラスニ●垣ヲ以テシ●ル譽●ヲ改ム市當局其ノ譽ニ感孚シ愈建碑
ノ企ヲ霊ヲ余ニ文ヲ徴ス義●スル能ハス●其ノ事ヲ●シ以テ百世ノ下天下ノ士ニ忠誠ヲ勧奨シ
義烈ニ除式スル所アラシメムトス●尼港事件メ来物狭リ星移リ蒙春秋ヲ●リテ追憶ノ涙尚巾ヲ
●ス行遺祠ニ讃リ佇霊●●●太ル●ハ●ルモノアリ若シ夫シ憂国ノ士往時ヲ懐ヒ遺鎮ヲ招キ進ン
テ北洋無限ノ當●ヲ●●シ國力ノ根●ニ貢献スルアラム殉難ノ英霊方メテ安ンスルヲ得ン乎
昭和十一年十二月     小樽等商業學校教授花田位四等 ト部岩太郎撰文 ●●●●
 =尼港事件考=
 パルチザン(共産ゲリラ)を名乗るトリャピーツィンと言う狂人によって、白系ロシア人や日本人がリンチを受け殺された事件のようだ。ロシア、支那、朝鮮人からなるパルチザンは4,000人で、ニコライエフスク市を焼き払い、市民12,000人の半数の同胞を虐殺、日本人は石田副領事夫妻以下居留民384名、軍人351名が陵辱暴行の上、虐殺されたと言い伝えられている。
 現在のニコライエフスク・ナ・アムーレは人口約35,000人の都市に生まれ変わっている(google地図)。同市の博物館には「日本帝國領事館」のネームプレートが保管されている。

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 二人の散歩路記録
 2010.8.10