稚内公園(標高173.2m) =宗谷ヒストリーロード=
    氷雪の門 九人の乙女の碑と行幸啓記念碑 教学の碑 開基百年記念塔
    樺太犬訓練記念碑・南極地域学術観測隊樺太犬供養塔 測量の碑
=写真をクリックすると大きなサイズになります=

 アクセス
 ノシャップ岬の高台にある稚内公園(別名「氷雪の丘公園」)に上がると、宗谷海峡に浮かぶサハリンの島影が見える(一方通行の交差点に注意)
 国土地理院地図 周辺地図
  
宗谷海峡を望む
 氷雪の門
 公園の北端に氷雪の門が建っている。女人像は、樺太を背に鎖されてしまった狭い門の狭間でもがき苦しんでいるようだった。樺太は愛棒の縁の地なので、氷雪の門の前で記念写真を撮す。門の前に置かれている碑文を読み、像の裏を見ると、同じ内容で台座に彫られていた。この門は樺太慰霊碑でもあるようだ。
氷雪の門 樺太慰靈碑
女人像 碑文
    氷 雪 の 門
人々はこの地から樺太に渡り樺太から
こヽに帰った
戦後はその門もかたく鎖された
それから十八年望郷の念止みがたく
樺太で亡くなった多くの同胞の靈を慰
めるべく肉眼で樺太の見えるゆかりの
地の丘に木原豊治郎氏 笹井安一氏の
熱意と全国樺太引揚連盟の賛同並びに
全国からの心あたたまる協力によって
こヽに記念碑を造る
氷と雪の中できびしく生き抜いた人々
を象徴する女人像、望郷の門、靈石を
三位一体とする 彫刻家
本郷新先生の力作がこヽに出来上った
この記念碑を氷雪の門と命名した
 昭和三十八年八月十五日
    稚内市長 浜森辰雄
 九人の乙女の碑と行幸啓記念碑
 碑の真ん中に「 皆さん これが最後です さようなら さようなら 」と彫られ、向かって左に九人の名前と碑文、右には乙女のレリーフを配置した屏風の石碑になっている。九名の名前を拝し、その下の碑文を読もうとしたら、掠れていて読み取るのが大変だった。読んで行くうちに、その碑文と同じ内容の新しく碑文が設置されているのに気が付いた。
 昭和45年に昭和天皇皇后が行幸した際に九人の話を聞かれ、その時の心境を詠み、記念碑として氷雪の門の隣に建立されたようだ(御製:天皇、御歌:皇后)。
九人の乙女の碑 九人の乙女の名前 新しい碑文 行幸啓記念碑
戦いは終った それから五日昭和二十年八月二十日
ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした
その時突如日本軍との戦が始った 戦火と化
した真岡の町 その中で交換台に向つた九人の
乙女等は死を以って己の?場を守った 窓越
しにみる砲弾のさく烈 刻々迫る身の危険
今はこれまでと死の交換台に向い「皆さんこれ
が最後です さようなら さようなら」の言葉
を残して静かに青酸駈苛里をのみ 夢多き若
き花の命を絶ち職に殉じた
戦争は再びくりかえすまじ平和の祈りを
こめて尊き九人の乙女の霊を慰む
   昭和三十八年八月十五日
       稚内市長 浜森 辰雄
         寄贈
           東京都 本郷 新
           札幌市 上田佑子
  御製
樺太に命をすてし
   たおやめの
 心を思へばむね
   せまりくる

  御歌
樺太につゆと消えたる
   乙女らの
 みたまやすかれと
   たヾいのりぬ
 教学の碑
 立派な石碑と碑文だが、戦前、戦中の教育のことが、あえて触れられていないような気がしてならない。石碑中央の下に置かれた石は樺太から持っていた石のようだ。
        建  立  誌
 我が母校、樺太師範學校は昭和十四年
四月、四十五万島民の文化の向上と教育
振興の重責を担う教員養成機関として、
豊原市に開校したが、男女共學という専
門学校教育の実施は我が国最初の画期的
な試みで、上田光(日義)校長(純煌)の卓越
した教育理念によるものであった。
 (爾−ハ)来、至誠一貫を本義とする教學綱要
のもと品格の洗練・知性の向上・情操の
醇化・体(身區)の鍛錬に励み、樺太開拓に貢
献する教育者としての資質の琢磨練成に
努め、師弟一如の人間性豊かな校風を築
き樺太師範學校の盛名を高めつつあった
が、昭和二十年終戦により、その歴史を
閉じることとなった。
 然し、樺太師範學校の教育精神は同窓
生の教育実践に生かされ、戦後、我が国
の復興と平和文化国家建設に大きな役割
を果すと共に、多くの教え子に継承され
ている。母校は既にないが教學の精神と
共に我々の胸中に厳然として存続してい
る。茲に全国に居住する同窓生九百余名
開校五十周年を記念し、樺太島を望むこ
の地に母校永遠に不滅なりの思いをこめ
て、郷土樺太の石を台座に嵌め込み教学
の碑を建立する。
    平成元年七月八日
         樺太師範學校同窓会
教學の碑 歌碑
  至 誠
   一 貫

  樺太師範學校
 「郭公や
 樺太島は
   遠い夢
       純煌
碑文
(※小カッコ内の字は、パソコンでは打込めないので、合成あるいは差し引きしてください)
 開基百年記念塔
 一方通行を回り込んで、公園の一番高いところに建っている開基百年記念塔を目指す。時間が無いので、中に入らずに、外から見上げる。野寒布岬の最高地点に行って見ようと、車で舗装道路を辿るが、192m地点で車道は無くなっていた。その替わり、遊歩道が延びている。最高地点210.4mは遊歩道を辿ることになるが時間が無いので止める。この散策路が全長20kmとは驚きの長さで、全部踏破するには丸一日はかかると思う。一部でも歩いて見たかったが、次回に残した。
開基百年記念塔 記念塔 遊歩道
「育みの里」は稚内市民の自然を愛する豊かな心を育むことを目的に、稚内市少年自然の家「アドベンチャーコース」からトベンナイ(大慶寺裏)
・百年記念塔・南小の森・港小遊歩道の4方面へ全長20kmを尾根伝えで結ぶ自然体験散策路スカイラインです。
 樺太犬訓練記念碑・南極地域学術観測隊樺太犬供養塔
 一旦、戻って南極大陸が描かれてた看板をみる。次に、樺太犬訓練記念碑を見に行く。記念碑の上に犬のブロンズ像、石碑には犬ぞり隊の犬たちが嵌め込まれているが、掠れてしまってよく見ないと分からない。石碑に向かって左側上に白い南極の石も嵌め込まれている。
南極大陸説明板 犬のブロンズ像と(大×) 碑文 裏から
     南 極 大 陸
■南極観測樺太犬訓練記念碑
 昭和32年、国際地球観測年を機に、日本が始めて
南極観測に参加するにあたって、極地での物資輸送
を目的に”犬ぞり隊”が編成されました。
この”犬ぞり隊”の主役が、稚内周辺から集められた
樺太犬たちです。
南極hエ出発する前に、”犬ぞり隊”は稚内公園で8ケ月
間、厳しい訓練を受け、その中から選び抜かれた22
頭の樺太犬は、南極観測船『宗谷』で白い大陸に
渡り、任務をまっとうしました。
 しかし、南極の悪天候を克服できず、樺太犬15頭が
現地に置き去りにされて死ぬという悲劇を被りました。
 そして、昭和34年1月、第3次越冬隊がタロ・ジロの
奇跡的な生存を確認し、当時世界の人々を感動させた
ことは今日でもよく知られています。
   樺太犬訓練記念碑
 昭和三十一年 わが国が国際地球観測
年の行事の一環として、南極地域観測に
参加するにあたり北海道内から集まった
樺太犬三十数頭は、この地でソリの訓練
を受けた。その中の代表二十二頭は観測
隊員とともに遠く極地に渡り 昭和基地
の建設に、また南極大陸内の調査探検に
ソリを曳いて立派にその使命を果した。
ここに記念碑を建て、永久にその功績を
たたえる。
昭和三十四年十一月(一九五九 一一)
   日本学術振興会
    南極地域観測後援特別委員会
 三角錐の南極地域学術観測隊樺太犬供養塔を見る。中央には犬のレリーフが嵌め込まれている。タロには学生時代、北大の植物園で見かけたが、女性には擦り寄るが、男にはそっぽを向いていたことが思い出される。男には依然、不信感が払拭されなかったのだろうか。
供養塔 犬のレリーフ
■樺太犬供養塔
白い南極の大陸で命を落とした15頭の”犬ぞり隊”
の霊を慰めるための慰霊碑で、稚内公園の犬ぞり
訓練所跡地に、昭和35年10月、建立されたものです
訓練隊がケルンをつくり、それを道標として雪原を
前進したことから、慰霊碑は、三角のケルンに秩父
硬石が張りめぐらされています
  南極大陸説明板より
 
 測量の碑
 測量の碑はベンチのようで、他の碑と比べて気持ちが緩やかになる。中心には方位盤と標石があり、方位盤を見ると、サハリンクリリオン(能登呂)岬62km、東京1090km、南極点15044kmと矢印に添え書きされていた。測量の碑の正面には緯度経度と高さが嵌め込まれていた。
測量の碑 方位盤と標石
 測 量 の 碑
【標石の位置と高さ】
北緯 45度12分14.9563秒
東経141度40分03.1685秒
標高    101.607メートル
改測 平成20年10月15日
 最後に、樺太の島影を探し、宗谷岬、稚内市街地を一望して、公園を後にする。
                     ←大
野寒布岬方向                      樺太の島影           宗谷岬
                     ←大
宗谷岬                  稚内北防波堤      フェリーターミナル 市街中心

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 二人の散歩路記録
 2009年8月25日(火) 晴れ