にしん文化歴史公園 =オロロンライン= 花田番屋 平和の祈り 三船遭難慰霊之碑 慟哭の海に誓う 松浦武四郎翁の像 紫明句碑 |
アクセス 留萌市から国道232号線(オロロンライン)を北上すると小平町鬼鹿に道の駅「おびら鰊番屋」がある。 国土地理院地図 周辺地図 |
鰊御殿と見間違う風貌をした道の駅「おびら鰊番屋」の横に花田番屋があるが、入らずに外から見て回る。玄関には「天登雁村A(○の中に二)漁場」の大きな看板が見える。 |
花田番屋へ | 花田番屋 | 正面 | 解説板 |
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道を挟んだ海側ににしん文化歴史公園があり、その中に、数々の石碑等が建立されているので見に行く。最初に、「平和の祈り」と彫られた石碑があり、裏を見ると字が掠れて一部判別不能な碑文があった。想像をまじえて読んでみた。 |
公園 | 石碑群 | 平和の祈り | 平和の祈りの裏 |
碑 文 遠く●●日本●道くは日中●太平洋戦争の渦中にあって 夢にまで見た母国の山河に再び逢うこともなく九十余 もの尊い命が異国●●は●●とに●渦の華●●る。 星霜ここに五十有余年眼下望洋の地に多くの有志の 賛同のもと戦没者永遠の追悼と恒久平和日本を願望し 郷土の隆盛を祈念してこの碑を建立する。 平成十四年七月 鬼鹿地区戦没者追悼之碑建立実行委員会 |
その横に「三船遭難慰霊之碑」があり、その下に碑文が彫られ、花が添えられていた。碑文の裏側には「小平町・全国樺太連盟・三船遭難慰霊碑建設鬼鹿委員」と刻まれていた。その隣りには「慟哭の海に誓う」の歌碑があり、献花されていた。何れも、ソ連への恨みは綴らず、戦争の愚かさ悲惨さを訴えかけている。 |
慰霊之碑 | 碑文 | 裏側 | 慟哭の海に誓う |
碑 文 昭和二十年八月十五日 太平洋戦争終る 終戦後七日 昭和二十年八月二十二日 早暁の海は波穏やかにして 微風甲板を 渡る この日泰東丸 第二新興丸 小笠原丸 の三船は戦乱の樺太(サハリン)より 緊急引揚の老幼婦女子乗組員 五千八十 二名を乗せ鬼鹿沖にかかりしが突如 旧ソ連軍の潜水艦による雷砲撃に遭い 瞬時にして沈没或いは大破し 千七百八名 の尊き生命を奪わる 留別の地樺太を脱し数刻夢に描きし 故山を目睫にしてこの惨禍に遭う 悲惨の極みなり 星霜ここに三十年我等同胞慟哭の海に向 かい霊鎮まらんことを祈りつつこの碑を 建つ 昭和五十年八月二十二日 樺太引揚三船遭難慰霊碑建立合同委員会 |
慟哭の海に誓う 一 夕日輝くこの海に 三船遭難誰思う 戦い終わりし七日目に 故郷の夜明けさいま見て 喜び胸に秘めた時 激滔と共に我船は 海のもくずと沈み行く ああこれが無謀な戦争か 二 母よ娘よ妹よ 叫べど返る声聞けず 焦れば焦る波間には 今見し我子見え隠れ 板子一枚命綱 沈みし船に巻かれずと 必死に泳げど覚束ず 戦いの無残さ今ぞ知る 三 あの日数えて五十年 悲惨の感が今もなお 二度と返る事なかれ 穏やか海に祈るのは 安らかに眠れと思うのみ 戦い興し無き誓い この碑に向い今叫ぶ 無駄にぞしない君の死を 平和の世代の糧にする 平成七年八月十五日 作 作詞 今村 武 平成十六年八月吉日建之 樺太引揚三船遭難遺遺族会 |
歌碑の前には、方位盤があり矢印は「泰東丸沈没地点」を指しているようだ。字は掠れて良く読めないが「泰東丸沈没地点/西南西約15,483M/水深60M」と三段に彫られているようだった。歌碑の裏には碑文があり当時の状況が刻まれていた。改めて、無念の思い出で亡くなられた方々のご冥福を祈りつつ、光る虹の様なトワイライトアーチに向かう。トワイライトアーチの傍には松浦武四郎の銅像があった。 |
泰東丸沈没地点 | 裏の碑文 | トワイライトアーチ | 松浦武四郎の銅像 |
碑 文 昭和二十年八月二十二日九時五十五分 樺太からの引揚船泰東丸は、旧ソ連潜水艦 L一九号の攻撃を受け、鬼鹿沖で沈没しました。 懐かしの故郷の山河を目前に瞬時にして 奪われた六百余名はいずれも老幼婦女子 ばかりであります。 この非道な行為とその無念を晴らすため この町の有志は、泰東丸遭難者の遺骨収集 を行いましたが残念ながら一片の遺骨も 収集できませんでした。 今年で樺太引揚三船遭難六十回忌 泰東丸 発見から二十周年を迎えます。 この節目の年に、関係有志から樺太引揚 三船犠牲者の鎮魂のため歌詞の贈呈が あり、私たち樺太引揚三船遭難遺族会は 歌碑を建立し、泰東丸、小笠原丸、第二振興丸 の犠牲者千七百八名の鎮魂を謹んで ご祈念し、この歌碑を建立するもので あります。 平成十六年八月吉日建之 樺太引揚三船遭難遺族会 |
モニュメントの台座には松浦武四郎の句碑があり、銅像の台座は経歴等が書かれていた。銅像は原寸大だが、台座に上がっていても、目線はさほど変わらない。 松浦武四郎の銅像の横にひっそりと「こころよき ものに 直線 燕来る 紫名」の句碑があるが、いきなり明るい現代に戻ったようで、違和感があった。 最後に、天売島と焼尻島方向に、受難の三船が樺太から来たと思われる航跡を望んで、北へ向かう。 |
モニュメントの台座 | 銅像の台座 | 句碑 | 天売焼尻を |
名にも似ず すがたやさしき女郎花 なまめき立てる おにしかの里 |
松浦武四郎翁の像 北海道の名付け親松浦武四郎翁は、文政元年(1818)伊勢 国須川村(現三重県三雲町)に代々郷士であった松浦家の四子と して生まれる。 翁は27歳の春、蝦夷地探検を発起以来6度に渡り蝦夷地を案 内のアイヌの人々と踏査し、詳細で実情をあますところなく書き 記された地図・絵図・記録は高く評価され、探検家・研究者とし て、その功績は偉大である。 翁の身長は4尺8寸(1m45cm)、足の大きさは24cm と小柄ながら、その旺盛な精力と知識欲により未開の荒野を踏査 ・探検し、当地へも4度に渡って訪れ、鰊漁場の賑いをきわめた 往時の鬼鹿の歴史を詩に残している。 松浦武四郎は、社会科学史上・文化史上に輝く燦然たる偉人で あるとともに北海道の史実を証するものとして、今もなお道民の 心の中に生き続けている。 |
=ロシア考= L-19潜水艦(コノネンコ艦長:第二新興丸の反撃で帰途に沈没、2007.7勲章授与)、L-12潜水艦(シェルガンツェフ艦長:帰還後勲章授与)、ソ連の独裁者スターリンなら勲章授与は分かるが、ロシアは何処に向かっているのだろうか。 ※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)を読んで・・・ふと思う・・ |
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