にしん文化歴史公園  =オロロンライン=
    花田番屋 平和の祈り 三船遭難慰霊之碑 慟哭の海に誓う 松浦武四郎翁の像 紫明句碑

 アクセス
 留萌市から国道232号線(オロロンライン)を北上すると小平町鬼鹿に道の駅「おびら鰊番屋」がある。
 国土地理院地図 周辺地図
=写真をクリックすると大きなサイズになります=
 鰊御殿と見間違う風貌をした道の駅「おびら鰊番屋」の横に花田番屋があるが、入らずに外から見て回る。玄関には「天登雁村A(○の中に二)漁場」の大きな看板が見える。
花田番屋へ 花田番屋 正面 解説板
重要文化財旧花田家番屋 
建築年月日

所 在 地


指定年月日


構造形式


規模面積

所 有 者
明治37年(推定)

留萌郡小平町字鬼鹿
広富35番地

昭和46年12月28日
 (文部省告示第220号)

木造平家一部二階建
寄棟造 こけら葺 外部下見
板張 基礎自然石 土台敷
一階801二階105u
小  平  町
重要文化財と指定された本遺構は、旧天登雁村(現在地)の鰊漁家花田伝作氏によって建
築されたっものである。花田家は屋号をAといい最盛期には18ケ統の鰊定置網を経営す
る道内屈指の鰊漁家であった。この番屋はその本拠として、 5ヶ統の漁夫の外船大工、
鍛冶職、屋根職、曲師等 総勢200人前後の人を収容していたもので、 その空間を生み
だしている木材は、すべて地元「大椴」の山より切り出し、 三半船で海上を運び、木挽き
の手によって製材されたものである。
 当番屋は道内に現存するものでは最大の規模を有し、木割は大きく豪壮であり、
空間は雄大である。玄関から奥に土間を通し、その北側に親方居住部分を、南側に漁夫
の生活部分をもうけ、 漁夫の寝台(ねだい)を中二階に備えて三段とし、 その機能と合理
性を求め、俗に番屋と呼ぶ鰊漁家特有の平面構成である。
 小平町では、重要文化財の指定と共にこれを買収し、 3年の年月と約1億9千万円の
費用を投じて解体修復したもので既に稀有となった古民家建築物鰊番屋の代表的遺構で
ある。
                          
 小平町教育委員会
 道を挟んだ海側ににしん文化歴史公園があり、その中に、数々の石碑等が建立されているので見に行く。最初に、「平和の祈り」と彫られた石碑があり、裏を見ると字が掠れて一部判別不能な碑文があった。想像をまじえて読んでみた。
公園 石碑群 平和の祈り 平和の祈りの裏
     碑  文
遠く●●日本●道くは日中●太平洋戦争の渦中にあって
夢にまで見た母国の山河に再び逢うこともなく九十余
もの尊い命が異国●●は●●とに●渦の華●●る。
 星霜ここに五十有余年眼下望洋の地に多くの有志の
賛同のもと戦没者永遠の追悼と恒久平和日本を願望し
郷土の隆盛を祈念してこの碑を建立する。
  平成十四年七月
  鬼鹿地区戦没者追悼之碑建立実行委員会
 その横に「三船遭難慰霊之碑」があり、その下に碑文が彫られ、花が添えられていた。碑文の裏側には「小平町・全国樺太連盟・三船遭難慰霊碑建設鬼鹿委員」と刻まれていた。その隣りには「慟哭の海に誓う」の歌碑があり、献花されていた。何れも、ソ連への恨みは綴らず、戦争の愚かさ悲惨さを訴えかけている。
慰霊之碑 碑文 裏側 慟哭の海に誓う
       碑  文

昭和二十年八月十五日 太平洋戦争終る
終戦後七日 昭和二十年八月二十二日
早暁の海は波穏やかにして 微風甲板を
渡る
この日泰東丸 第二新興丸 小笠原丸
の三船は戦乱の樺太(サハリン)より
緊急引揚の老幼婦女子乗組員 五千八十
二名を乗せ鬼鹿沖にかかりしが突如
旧ソ連軍の潜水艦による雷砲撃に遭い
瞬時にして沈没或いは大破し 千七百八名
の尊き生命を奪わる
留別の地樺太を脱し数刻夢に描きし
故山を目睫にしてこの惨禍に遭う
悲惨の極みなり
星霜ここに三十年我等同胞慟哭の海に向
かい霊鎮まらんことを祈りつつこの碑を
建つ

   昭和五十年八月二十二日
樺太引揚三船遭難慰霊碑建立合同委員会
   慟哭の海に誓う
一 夕日輝くこの海に
   三船遭難誰思う
    戦い終わりし七日目に
  故郷の夜明けさいま見て
   喜び胸に秘めた時
    激滔と共に我船は
     海のもくずと沈み行く
  ああこれが無謀な戦争か
二 母よ娘よ妹よ
   叫べど返る声聞けず
    焦れば焦る波間には
     今見し我子見え隠れ
  板子一枚命綱
    沈みし船に巻かれずと
     必死に泳げど覚束ず
  戦いの無残さ今ぞ知る
三 あの日数えて五十年
   悲惨の感が今もなお
    二度と返る事なかれ
     穏やか海に祈るのは
   安らかに眠れと思うのみ
  戦い興し無き誓い
    この碑に向い今叫ぶ
     無駄にぞしない君の死を
  平和の世代の糧にする
    平成七年八月十五日 作
     作詞 今村 武
  平成十六年八月吉日建之
 樺太引揚三船遭難遺遺族会
 歌碑の前には、方位盤があり矢印は「泰東丸沈没地点」を指しているようだ。字は掠れて良く読めないが「泰東丸沈没地点/西南西約15,483M/水深60M」と三段に彫られているようだった。歌碑の裏には碑文があり当時の状況が刻まれていた。改めて、無念の思い出で亡くなられた方々のご冥福を祈りつつ、光る虹の様なトワイライトアーチに向かう。トワイライトアーチの傍には松浦武四郎の銅像があった。
泰東丸沈没地点 裏の碑文 トワイライトアーチ 松浦武四郎の銅像
    碑      文
 昭和二十年八月二十二日九時五十五分
樺太からの引揚船泰東丸は、旧ソ連潜水艦
L一九号の攻撃を受け、鬼鹿沖で沈没しました。
 懐かしの故郷の山河を目前に瞬時にして
奪われた六百余名はいずれも老幼婦女子
ばかりであります。
 この非道な行為とその無念を晴らすため
この町の有志は、泰東丸遭難者の遺骨収集
を行いましたが残念ながら一片の遺骨も
収集できませんでした。
今年で樺太引揚三船遭難六十回忌 泰東丸
発見から二十周年を迎えます。
 この節目の年に、関係有志から樺太引揚
三船犠牲者の鎮魂のため歌詞の贈呈が
あり、私たち樺太引揚三船遭難遺族会は
歌碑を建立し、泰東丸、小笠原丸、第二振興丸
の犠牲者千七百八名の鎮魂を謹んで
ご祈念し、この歌碑を建立するもので
あります。
  平成十六年八月吉日建之
    樺太引揚三船遭難遺族会
 モニュメントの台座には松浦武四郎の句碑があり、銅像の台座は経歴等が書かれていた。銅像は原寸大だが、台座に上がっていても、目線はさほど変わらない。
 松浦武四郎の銅像の横にひっそりと「こころよき ものに 直線 燕来る 紫名」の句碑があるが、いきなり明るい現代に戻ったようで、違和感があった。
 最後に、天売島と焼尻島方向に、受難の三船が樺太から来たと思われる航跡を望んで、北へ向かう。
モニュメントの台座 銅像の台座 句碑 天売焼尻を
名にも似ず

すがたやさしき女郎花

 なまめき立てる

  おにしかの里
     松浦武四郎翁の像

 北海道の名付け親松浦武四郎翁は、文政元年(1818)伊勢
国須川村(現三重県三雲町)に代々郷士であった松浦家の四子と
して生まれる。
 翁は27歳の春、蝦夷地探検を発起以来6度に渡り蝦夷地を案
内のアイヌの人々と踏査し、詳細で実情をあますところなく書き
記された地図・絵図・記録は高く評価され、探検家・研究者とし
て、その功績は偉大である。
 翁の身長は4尺8寸(1m45cm)、足の大きさは24cm
と小柄ながら、その旺盛な精力と知識欲により未開の荒野を踏査
・探検し、当地へも4度に渡って訪れ、鰊漁場の賑いをきわめた
往時の鬼鹿の歴史を詩に残している。
 松浦武四郎は、社会科学史上・文化史上に輝く燦然たる偉人で
あるとともに北海道の史実を証するものとして、今もなお道民の
心の中に生き続けている。
 =ロシア考=
 L-19潜水艦(コノネンコ艦長:第二新興丸の反撃で帰途に沈没、2007.7勲章授与)、L-12潜水艦(シェルガンツェフ艦長:帰還後勲章授与)、ソ連の独裁者スターリンなら勲章授与は分かるが、ロシアは何処に向かっているのだろうか。
 ※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)を読んで・・・ふと思う・・

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 二人の散歩路記録
 2009.8.25(火) 晴れ