川崎大師平間寺

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 平原寺 <2015(H27)年5月17日><2010(H17)年5月6日>
大本堂 八角五重塔 出店('10.5.16)
 平原寺は天保5(1834)年に建立されたが、昭和20年4月15日空襲で消失してしまった。
 現在は、その後に再建されたものだが、地元に根付いた立派なお寺だ。
 寺院内には、様々な記念碑が建立されている。
 旧本堂礎石 <2015(H27)年5月17日>
柵で囲まれた 礎石 解説板
 空襲で焼けてしまった建物の礎石を展示している。
 弘法大師降誕会 <2010(H22)年5月16日>
仲見世通り 園児の行進
 仲見世通りを歩いていると、園児の行進に出会う。園児の視線は自然と、店屋の方に向いている。仲見世通りからお寺へ入り、法要のする場所で終わる。
 お坊さんが到着すると、法要が始まり人だかりが幾重にもなって、中が思うように見えないので手を頭の上に掲げて撮してみる。
 弓道大会も行われていた。
お寺へ 終点 法要 弓道大会
 力石 <2010(H22)年5月16日>
力石の由緒書 力石
 力石なるものが横たわっている。それぞれ重量が違うようだが、とても持てるような代物では無いが、表面はつるつるだ。
 まり塚 <2010(H22)年5月16日>
まり塚 解説板
 まり塚もあり、由緒書には5月21日にお祭りがあるようだ。
 植木供養之碑 <2010(H22)年5月16日>
植木供養之碑
 碑文には「献木いちょう/植木供養之碑」と刻まれ、右下に小さく「古代より/よろづ枯死せし/樹乃精を/御山に集い/皆で弔ふている」と刻まれている。
 碑陰を見るのは大変だが、昭和51年11月吉日に建立されたようだ。
 高浜虚子の句碑 <2010(H22)年5月16日>
句碑 副碑 副碑
 碑文は「金色の涼しき法の光かな/虚子」と刻まれている。
 芭蕉の句碑 <2010(H22)年5月16日>
句碑 解説板
 碑文は「父母の志きりに/恋し雉の声/松尾●●」と刻まれている。
 鐘楼堂 <2010(H22)年5月16日>
鐘楼堂 由緒書
 この鐘が「除夜の鐘」として撞れて、新年を迎えるようだ。
 江戸消防紀念碑 <2015(H27)年5月17日>
 石塀に取り囲まれて石碑が建立されている。碑文は、達筆なので難解だ。歌碑なら分かるが、後世に伝える石碑は楷書で刻んで欲しいとつくづく思う。傍に、組頭を刻んでいると思われる江戸開府四百年の碑もある・
石塀に囲まれた 石碑 解説板 江戸開府四百年の碑
碑  念  紀  防  消
 千金の寶もたちまち一塊の灰となり積年の富もミるゝゝ一刻の煙と消るは火の災よりはなゝゝしきハあらさりけ利玉のうてなをはしめふるき工の
こゝろをつくせる宮寺も石すゑのミなんのたりけるそのときゝゝ烟とゝもに消失たる人々のまよへる魂はさるものにてのこれるうらのにはかに
道にさまよへるなどいふもおろかなり慶長八年徳川氏の江戸に覇府をひらきしよりかまとの烟日々月々にしけくなりまさるにつけて火の災いますゝゝ
たくましうなりもて行て北に火をうしへハ南にうつり西に起れは東におよへりことに明暦三年の災こそ又たくひなかりけれ町といふ町のかきりほとゝゝ
やきつくし煙の下に命をうしなへるもの十萬人にあまれりといふ今にしてきくさへ身の毛もそぞろたつこゝちしていともいたましきかきりならすや
其後享保三年に町奉行所より町ことに消火人夫をまうけ名主町役人をしてこれをすへしめたりこれそ江戸の町に火消し人足を於かれしはしめなりけり
同四年其組を六十四にわかち假名の四十七字に,数字を加へて目しるしとしこれをすへていろは組ととなへたり寛政九年十月に組ことに頭取といふ
ものをおかれたり明治元年におよひて江戸を東京とあらため町奉行所をやめて北南の市政裁判所にてこれを一くくり同二年八月東京府廳のあつかり
しるところとなり又六年十二月に警保寮に属せられたり七年にいたりて警視廳の所轄とさためらる其時に府下をわかちて六大區とし區ことに
警視出張所をおかれたり消防人夫も又六組にわかちこれまてのいろは組をあらためて何大區消防何番組ととなふることとハなりぬ十四年一月に
消防本署塀并に六の消防分署をまうけられて其制ますゝゝそなハれりされと其術猶とゝのはさるふしも多かりしをこの時より喞筒をとりあつかふことより
進退の号(右に乕)令等をさためられてつねにならはしおこたらさしかは時にのそみてかけひきあやまることなく風激しきおり火を失へるも手くはりいと
すみやかに行たらひぬれはかの明暦の災の如きハもとよりにて火の災ひ一里におよふことハたえてなかりけ利いてやたくひ那き 大御世のめくみにて
警視廳の心を盡されたるハさるものにてそのかみ享保三年に制をはしめられしより頭取にえらはれし人ゝのよくおきてをまもり消防人夫の義氣を
はけまし身をすてゝかへりミさる遺風のむさしからす今日にいたりて火の災ほとんと阿とをたつにいたれるよろこひにつけても前人の功をわすれ
さらむかためによりきたれるゆゑよしのあらましをこゝにしるしてなかく後につたふるに南無

          明治二十年八月吉辰建之             伊藤馨書        井亀泉鐫
 しょうづかの婆さん <2015(H27)年5月17日>
 看板には、美しさをつかせどるとか、美肌、きれいな歯を歌い文句にしているので、女性には人気があるらしい。近づいて、解説板を見ると、三途の川の婆さんのようだ。
看板が 祠の様な 石仏 解説板
 お願いだるま <2015(H27)年5月17日>
お願いだるま 解説 お願いを貼り付け
 信徒会館にはお願いだるまがあり、子供達の願いことが書かれた折り紙が貼られただるまがある。
 つるの池 <2010(H22)年5月16日>
つるの池 解説板
 つるの池には鶴の置物と本物の亀がいた。昔はひょうたんの形をしていたらしい。
 施茶翁塚 <2015(H27)年5月17日>
石碑
 1835(天宝6)年に建立されたひょうたん形の石碑のようです。つるの池近くにあり、あまりにも古いので碑蹟と呼ばれています。
 8月8日のひょたんの日には薬師殿でお茶が振舞われるようです。
 やすらぎ橋 <2015(H27)年5月17日>
やすらぎ橋 解説板 解説板
 つるの池に架かる橋で、欄干に梵字が刻まれています。奥には薬師殿がある。
 九橋の碑 <2015(H27)年5月17日>
石碑 碑陰?
 やすらぎの橋を渡ると、池の縁に石碑が建立されている。碑文は所々読める程度だが、川崎区誌研究会・石造部会によれば「東海黨川崎与李大師の御堂に/詣る道の行手に他力の浄財を/集め九の橋を営架し侍里て/他力も亭和多世る橋も九の/品の名にあふ法楚尊支」と刻まれているようだ。
 古賀政男の銅像 <2015(H27)年5月17日>
銅像 賛歌 経歴
 信徒会館の玄関前に鎮座している。
 六字名号塔 <2015(H27)年5月17日>
解説板 内部を 石柱
 看板が無ければ分からない、奥まった所に鎮座している。
 弘法大師道標 <2015(H27)年5月17日>
道標 解説板 解説板
 
 角力取り碑 <2015(H27)年5月17日>
横綱の石柱
 弘法大師道標の横に、「横綱/仙台/大砲改/待乳山萬右エ」と刻まれた石碑がある。
 弘法大師一千御忌供養塔 <2015(H27)年5月17日>
石碑 碑陰
 碑陰には「天下泰平萬民豐樂風雨順時百穀成熟現世安穏後生善所/正當御忌来甲午歳而雖隔拾三年露命難量急令作善者也/當山三拾五世/文政三庚辰三月 法印隆盛大和尚位 米山松壽建焉」と刻まれている。
 木村新左衛門記念碑 <2015(H27)年5月17日>
石碑 碑文
 木村新左衛門は旧山門の棟梁だったようだ。山門は1901(明治34)年に12年の歳月をかけて完成した。この山門は関東大震災にはびくともしなかったが、空襲で焼けてしまった。本当にもったいないことだ。
 碑陰には建碑賛同者の名前が刻まれている。
碑  念  紀

木村新左衛門大師河原人以天保十四年生矣家業工
匠天資勤勉技能卓絶名聲夙高明治廿一年隆建僧正
(業の下を改)願大樓門之建立推氏為棟梁也氏承命感激乃齋戒
沐浴日夜勵精以膺斯大業明治卅五年工告成時貫主
隆運僧正特犒賞授一巻洵可謂一世之榮譽也明治卅
七年晩春以六十二歳歿焉諡號義道一貫居士矣爾後
廿有餘年大正之大震雖極強烈山門依然現嚴聳毫不損
舊觀牢而如磐石焉氏之技術非凡依之盆顕頃者門弟
等輓近慨師道墜地欲傳斯洪業於百世一以彰氏之遺
功一以裨世道人心觀斯美擧可知建碑非偶然也
 樓頭松籟鏘響大虚  金剛殿額炳耀朝暾
 潜思于茲竭力于茲  休哉工匠爾名永
  維時昭和五年仲秋
        金剛山第四十三世僧正隆超撰
                當所
                石匠竹内喜助
 伊呂波歌頌徳碑 <2015(H27)年5月17日>
石碑 涅槃像?
 石碑の前には、穴の空いた石があり、その中に涅槃像なのだろうか鎮座していた。
 碑陰には建碑賛同者の名前が刻まれている。
  碑徳頌歌波呂伊
いろはにほへと
       ちりぬるを
わかよたれそ
       つねならむ
ういの於くやま
       けふこ江て
あさきゆめみし
       ゑひもせす
 右弘法大師諸行無常の偽を
  國歌ふ譯統一るなり
        雲照 印□
        田 鶴年謹刻 
 いろは歌略解 <2015(H27)年5月17日>
石碑
 石碑には三段にわたり、碑文が刻まれている。碑陰には篤志家の名前が刻まれている。
い ろ は 歌 略 解
抑も此いろは歌は我國文明の祖師にして又殖産興
業の大恩師たる弘法大師が今を去る壹千百餘年前
の御創作にして爾來我國の宗教、教育、文学學を
始め其他上は九重の雲深き所より下萬民に至るまで
片時も此いろは歌の恩澤に浴せざるものなきは何人も
之を感謝し又實に貴び喜ばざるを得んや、さて其いろ
は歌の意義如何にと云ふに弘法大師の深き思召にて
我國民一般に佛教の真意を知らしめんとの御趣意にて
釋尊の説き給ひし涅槃経の中の四句の偈を最も解
し易くいろは歌に作り給ひ日常折に觸れ事に當りて
自づから其真意を知らしめんとの慈心に出でたる
ものなり而して其四句の偈といろは歌を配すれ
ば則ち下の如し
涅槃経
 四区偈

諸行無常

是生滅法

生滅滅己

寂滅為楽 
國字いろは歌
いろはにほへと
 ちるぬるを
わかよたれそ
 つねならむ
うゐのおくやま
 けふこえて
あさきゆめみし
 ゑひもせす
漢 字
色ハ匂ヘド
 散リ去ルヲ
我世誰ゾ
常ナラン
有為ノ奥山
 今日越ヘテ
浅キ夢見シ
 酔モセズ
されば四句の偈の中●●●●●
有漏とて迷の世お有様を詠み●●
後のニ句は無為無漏とて●●●●
を詠じ給ひしものにて僅に四●●●
なれども四句の偈の蘊奥を窮め●
されたるものなれば貴賎●●●●
日常此恩澤●●●●●●●●●
歌の眞意を解し人●●●●●●
會得し常に十善の道●●●●
業務に奮闘努力して怠ること●●
は一家の福壽●●●●●●●
隆運天壌と●●●●●●●●
願ふべし

大正五年十二月十五日 建設      東京●會
 宝篋印塔 <2015(H27)年5月17日>
宝筐印塔 解説板
 1757(宝暦6)年の塔のようだ。
 四国八十八カ所お砂踏み参拝所 <2015(H27)年5月17日>
八十八か所 解説板 副碑
 皆さんはわき目も振らず、水を掛けていた。
 招魂碑 <2015(H27)年5月17日>
石碑
 碑文には「橘樹郡出身征清陣○軍人招魂碑」と刻まれている。碑陰には裏には明治二十九年一月建立と刻まれている。どうやら、日清戦争で亡くなられた方々の招魂碑のようだ。
 鶴澤勝造君碑 <2014(H26)年5月28日>
石碑 碑の頭
 浄瑠璃三味線の功労者のようだが、刻まれている内容は知識が無いので、理解できなかった。
浄瑠璃三味線の技海内に行はるヽこと久●く其門流いと多●天保中鶴澤勝造とい
へる者大阪に居り一代の名人と称せらる是を其初代とす二代目は早く歿して一時
其名を襲く者なか●●に豊澤一造君三代目を襲くに及ひて鶴澤勝造の名また東京
に鳴る君は本名を金田茂吉といひ備中國浅口郡玉嶋の人なり幼に●て父に従ひて
大阪に移り十六歳の時豊澤重造の門に入りて此技を學び一造の名を授けらる尋て
豊澤團平に師事す明治十年君竹本綱太夫一座につきて始て東京に上り一座の二枚
目織太夫の三味線を彈きしより其名稍顕る年僅に二十一なり後東京に移住●鶴澤
豊造の門に入りしが遂に三代目鶴澤勝蔵の名を襲くに至れり君資性温厚に●て●
言毫も藝人輕浮の風な●夙に心を其道に潜めて創意する所いと多く遂に獨特の妙
を發揮しけれは聴く者感動せさるはなく門に入る者前後数百人に及べり君他の嗜
好なく僅に酒を愛するのみ興至れは俳諧を口すさひ往々警句あり君常に世の藝人
の人に媚ひ勢に附くを慨歎して曰く是れ恒の産なきか為なり身を潔く●て技藝を
めんとならは豫め其謀なかる●からすと此に於て落花生かき餅の製法を工夫●
けるに鶴勝かき餅の名都下に傳はりて家道も亦豊なるを得たり君安政四年二月十
五日に生れて大正三年十一月二十一日に病死す享年五十八雑司ヶ谷に葬る其遺族
門人碑を川崎の平間寺中に建てヽ其遺徳を表せんとす余は君に親炙すること十数
年ほヾ其性行を知るを得たれは乃辭せす●て之を記す
     大正五年十月    天水 坂東幸平撰并書
        於當山四十一世隆運師代建之
 種梨遺功碑 <2014(H26)年5月28日>
遺功碑 寺内由緒
 寺内由緒には「長十郎梨の良種を発見した当麻辰次郎(文政9(1826)年〜明治38(1905)年)遺功の碑。大正8(1919)年3月建立」と記されている。
      神奈川縣知事正四位勲二等有吉忠一篆額
果宗多種類而吾邦輓近有稱長十郎梨豊産而美味頗良種當麻
辰次郎君所發見也君業農傍種梨勵精多年遂得此新梨苗爾来
専圖繁殖避邇亦競栽培之今也殆洽海内需要愈夥聲價益高寔
可謂梨中王牟所謂長十郎者盖出於君之家名君本邨人以文政
九年十一月朔日生以明治三十八年四月十一日歿後農商務大
臣賜銀盃本縣知事授褒状以追賞其功績頃者本郡果物業組合
聯合會胥謀茲樹碑請文予回叙其梗概以傳于世
     大正八年三月
           橘樹郡長正五位勲四等隈元清世撰
               猪瀬博愛書
                  内藤慶雲鐫

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