バッタ塚(5.1m)

 ポイント
 誰も訪れない忘れ去られた場所のようで、時間が止まっているよう。
=写真をクリックすると大きなサイズになります=
 アクセス
 表玄関:国道337号線(道央新道)の山口墓地線の交差点に「札幌市指定史跡 手稲山口バッタ塚 これより3km」の標識がある。
 裏玄関:国道337号線(道央新道)の第一新川橋(現在無し)の袂から、新川の左岸(河口に向かって左)沿いの道を北上し、汚泥焼却場手前の「バッタ塚橋:濁川に架かる」を渡り、焼却場の向かって右に伸びる砂利道に入ると裏玄関がある。
手稲山口の道標 裏玄関

 国土地理院地図 GPSトラックは「山の地図帖2009.8.18」へ Google Map
 夏草が生い茂る裏玄関から、砂利を新たに敷いた道を辿ると、舗装した駐車場に出る。駐車場から北側に付けられた道を辿ると、ベンチや東屋がある公園の一角に、バッタ塚がある。石碑には「手稲町山口バッタ塚」と彫られている。
公園のベンチ 公園の柵の外に 記念碑と由緒書 記念碑
 石碑には、トノサマバッタの雄雌とその卵の実物大写真がははめ込まれている。石碑の裏には碑文「元手稲村山口のバッタ塚」があり当時の状況が書かれている。注)蝗害(こうがい)
 記念碑の後ろには、英文を伴った金属プレートの由緒書がある。由緒書には飛蝗(ひこう)の状況が書かれている。
バッタの原寸大の図 記念碑の裏に 由緒書き 畝状のバッタ塚
   元手稲村山口のバッタ塚
 ここは明治13年から同18年にわたる北
海道蝗害の記録や古老の言い伝えから考えて
、恐らく明治16年に、人手と器具で付近10
km以内の土中から堀り集められたトノサマ
バッタの卵数億を、うね状に集積し、くわで
その上に20cmほど砂をかけて翌春孵化す
るのを防ぐという、当時世界でも最新の方法
が行なわれた、日本の害虫対策史上きわめて
貴重な遺跡の一角である。 

                  札幌市指定史跡 手稲山口バッタ塚
 飛蝗(ひこう)
 バッタ科の昆虫が群飛して移動するもの。広大な草原地帯で発生し、通過地域の農林作物は惨害を受ける。
生息密度が低いときは群飛しないが、高密度になった世代では形態上・生理上に著しい変化が起こって群飛する。
                                                --広辞苑より--
 農耕が広く行き渡る前の北海道にも、何十年かおきに飛蝗が発生したことを、アイヌの人たちは語り継ぎましたが、記録に
残っている限りでは、明治13年に十勝で発生して、日高、胆振、後志、渡島、などへ広がり、同18年まで農作物などに被害
を与え、開拓に着手したばかりの農家に深い絶望感を与えたトノサマバッタの飛蝗は、最大規模のものでした。
 明治政府は開拓農家を励まし、また飛蝗が津軽海峡を越えて本州へ進入するのを防止するために、当時のお金で年約5万円
を支出して、飛蝗の駆除に努めました。
 当初はアメリカ、ヨーロッパ、中近東で行われた駆除方法を参考にし、捕らえた幼虫成虫等は穴に埋め、土で覆ったバッタ塚
を各地に数多く造らせましたが、現在ではほとんど残っていません。
 ここに見られる幅広い畝状の塚は、効率よく工夫され、明治16年、主に札幌区の付近8km内外の地域で掘り集めた大量の卵のう
を、不毛に近い砂地に列状に並べ、各列の上にその両側の砂を厚さ25cmほどかけて、造られたものと推定されます。当初
このような畝は100条ほどありましたが、昭和42年にそれらの一部が東京拓地(株)から札幌市へ寄贈され、昭和53年8月21日に
札幌市指定史跡となり、ここに保存されています。

                             札幌市・札幌市教育委員会
              Locust Mounds at Teine-Yamaguchi
           --Designated historic site of Sapporo--
 以下英文・・

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 二人の散歩路記録
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