青森の石碑 |
青森市聖徳公園 6月25日 <2017(H29)年> 周辺地図 |
聖徳公園内に石碑群があるが、雑然として分かり難い。園内に解説板が設置され、石碑の名称や位置が示されてはいるが、実際の石碑の名前とは違う表現もある。 |
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公園から海を | 解説板 |
彌富破摩雄の歌碑 |
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碑文には「●こし●に/つたはりゆか●/希ふゆのち/明治帝の/大御跡所/元皇子傳育官正四位彌冨破摩雄/謹詠傳書」、碑陰には「建立奉仕者代表/棟梁鬼虎之助/石影齋藤賢造」碑側には「碑石発見顛末」が刻まれていたが、夕暮れなので良く見えなかった。建立年月日が刻まれていないということは、当時の人たちには誰にでもわかる年月日だったのだろう。 |
海の記念日發祥の地碑 |
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碑文の横には運輸大臣大野明書と添えられている。この碑の建立年月日は探せなかった。 |
海の記念日の碑 |
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錨のモニュメントと伴に石碑がある。碑文は銅板に活字体で白く浮き出ているので読み易い。 |
明治九年七月十六日、明治天皇東北ご巡幸の帰途 明治丸で青森港を出港、函館を経由横浜港に安着さ れる。 ときに七月二十日------。昭和十六年、この日を 海の記念日と定める。 このたび、海の記念日五十回を記念して東京商船 大学のご好意により明治丸の主錨を複製し、海の記 念日発祥の地であるこの地に展示し、その由来を後 世に伝えるものである。 平成二年七月十六日 青森港管理事務所 青森港振興協会 |
景仰聖コ塔 |
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石碑を見た時には何処が正面か分からず一回りすると塔が四角柱で、景仰聖コと刻まれた面が正面、銅板の由来書が嵌め込まれている方が裏面と分かる。 側面には長く文字が刻まれ、その下にライオンの頭が嵌め込まれいる。 改めて、正面に回って碑文を見るが、何方が書かれたのかが分からない。 |
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向かって右側面 | 向かって左側面 | ライオンの頭 | 由来書 |
向かって右側面の碑文
向かって左側面の碑文
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裏側の由来書
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海の日50周年の碑 |
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碑文が掠れてしまっている。全文を解読するには、至らなかった。碑文の刻みの技術が伝承されていないように感じる。 碑文には、平成二年七月十六日の文字が見える。 |
明治九年7月十六日●明治天皇は浜町埠頭から御乗船● 七月二十日横浜港に安着された●●●●●●●●●は● 本市は●こに碑を建立して聖徳公園を●●●●園は●● 昭和十六年その日を海の記念日として海●思想の●揚を● 図ってきたが●今世界は●ルー●より●ショシ●●を指向 し●青森市にもウォーターフロント●●●見る●●●●を海 を侮●者に栄光はなく●海の未知に挑む者は●を●れ● は●つを●い●生命の母なる海よ●共存を望●者に●大● れと衷心●●ってやまな●●今●五十年の節目に●●●● 公園を拡充し●新たに碑を刻んで港運の発展を願●る ものである 平成二年七月十六日 記念碑建立期成会 青森港振興協会 会長坂上●●郎 青森港湾研究協会 会長鈴木●●正 青森建設協会 会長新村●次郎 |
皇太子殿下御降誕記念碑 |
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碑陰に「昭和九年九月十二日/青森市立學校/兩師範附属小学校児童並職員一同」と刻まれている。 |
明治天皇御巡幸御記念の看板 |
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板の看板に書かれている文字は掠れてはいるが、まだ読めた。 |
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聖徳公園の由来の碑 |
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碑文は楷書で刻まれているので、読み易い。 |
聖徳公園の由来 この公園は昭和五年八月明治天皇 御巡幸御渡海記念碑建設会によつ て設置され完成と同時に青森市に その一切を寄附されたものであり ます。市は昭和六年七月明治天皇 ゆかりの地としてその史蹟保存の目 的から名称を聖徳公園とし一般に 公開してきましたこの地先はかつ て青森桟橋のあったところであり 明治天皇が明治九年七月同十四年 八月および九月の三回奥羽北海道 御巡幸の際この地より御乗船御上 陸された由緒の深いところであり また青森港の昔を後世に伝え物語 るに足る思い出の深いところでも あります青森開港以来三百四十有 余年沖荷役時代からいまは海辺が 埋立てられ臨港地区の整備港湾施 設の拡充によって大型船舶の接岸 荷役に替わり港勢の発展隆昌は昔 日の比ではありませんいままた臨 港鉄道線路を施設するの必要にせ まられ記念碑等の施設を再び移転 するの余儀なきに至りましたここ に市民の思い出深い聖徳公園をこ の地に移し再現をはかり遠く明治 の時世をしのびかつありし日の青 森港の海岸線を永遠に記念しあわ せて港勢のますます盛んならんこ とを希念するものであります 昭和四十三年七月 青 森 市 |
明治天皇御渡海記念塔 |
明治天皇青森御乗船竝御上陸桟橋址の碑 |
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碑側に「史跡名勝天然記念物保存会ニ依リ史跡ニシテ/昭和拾貮年四月 文部大臣指定」と刻まれている。 |
紅葉 高松宮殿下御寄贈 |
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プロムナードを歩けば、道端に標柱とモミジが見えて来る。 |
青森県歴史街道の図碑 |
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吉田松陰の足跡を記した「青森県歴史街道の図」が青森県歴史の道整備促進協議会によって建立されている。大きな写真は青森県庁のHPにあります。 |
桂月文学碑 |
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碑文には右側に白地に「大町の桂の井戸の/水を清みさやかにやどる/秋の夜の月/大正十年十一月七日/桂月」という句が刻まれている。 |
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青森市街 |
大井蒼梧の生い立ち 6月25日 <2017(H29)年> 周辺地図 |
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青森市のリッチモンドホテルの一角に、設置されている。 |
城ヶ倉大橋 周辺地図 |
青森県知事木村守男歌碑 6月26日 <2017(H29)年> |
紅葉で有名な所で、大橋の両サイドに駐車場があるが、城ヶ倉温泉側の駐車場に車を停めると、歌碑がある。碑陰には、道路整備の顛末が刻まれているが、掠れていて読み難い。歌碑は平成7年10月27日に建立されたようだ。 |
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城ヶ倉渓流を跨ぐこの道路は津軽地域と南部 ●●の交流機会の拡大を促す●上東西横断道路に ●●●●●●昭和49年●●●方道黒石十戸線 の道路改良事業として着手した。この後昭和57 年●●一般国道394号に昇格し、22年の工期 ●●意見●の工事費を要して完成した。 この東西横断道路の開通により、本県の産業 経済、文化、観光等の大きな躍進を期待するもの である。 平成7年10月27日 青森県知事 木村守男 |
大町桂月文学碑 6月26日 <2017(H29)年> |
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小さな文学碑の中に、長文が刻まれている。 |
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城ヶ倉渓流の碑 6月26日 <2017(H29)年> |
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城ヶ倉渓流沿いに2.051kmの遊歩道があったようだが、閉鎖されている。大町桂月の世界が体験できる渓流が閉鎖されているのは残念だ。 |
《城ヶ倉渓流について》 | ||
城ヶ倉渓流は、十和田国立公園、八甲田山系の大 岳、櫛ケ峰、駒ケ峰に源を発して、陸奥湾に注ぐ2 級河川堤川(流域面積278.9km、流路延長32. 6km)の上流部、河口より約22.8km、下湯ダ ムに位置する北八甲田屈指の渓流である。 城ヶ倉の地名は、古くは「嫦娥倉」といわれてお り、嫦娥は「月」、倉は「崖」という意味で、この 渓谷の厳しい自然美を端的に表現しており、断崖や 奇岩、怪岩にせかれてほとばしる川の流れは、男性 的かつ野性的な躍動美にあふれている。 大正11年8月18日この地を探勝した明治、大 正期の文人大町桂月は、渓流の美しさを紀 行文「花の八甲田山」の中で、賞賛すると共に「 嫦娥倉」として一節を残し、数百の歌を詠んでいる。 渓流は、延長2.1km、谷底巾150〜200m 高さ200mのV字渓谷内を急峻な流れげきざみ、 奥入瀬渓流、黄瀬川渓流と共に十和田国立公園三大 渓流にあげられる渓流美を誇っており渓流の内、上 流部約1。0kmは巨岩、奇岩の断崖が屏風のように 廻り、河床には20tを超える転石が重なり合い独 特の景観を形成している。 下流部約1.0kmの両岸には石英安山岩の柱状節 理がするどく、いく重にも重なりあって連立してお り、材木岩と呼ばれている。その断面は3角〜8角 とさまざまな柱状をなしており、その一本一本は細 かく規則正しく、特にこの付近では5角や6角が多 いことから、別名六方石とも云われている。又、渓 流中には白銀の流れ、小阿修羅の流れなどと名づけ |
られた渓流が岩をかみ周囲の岩景と見事な調和を 展開している。 渓流の両側には、アオモリトドマツ、ヒノコマ ツ、コメツガなどの針葉樹とブナ、ミズナラなど の広葉樹がバランス良くうっそうと生い茂り、新 緑の美しさもさることながら特に紅葉期のながめ がすばらしく訪れる人々の目を奪う 木の間隠れには、千条の滝、冬栄の滝、夫婦の 滝など、種々の滝が見えかくれし男性的な渓流 |
景観とは対照的に女性的な優しさを表しており、 一時のやすらぎを与えてくれる。 この変化に富んだ渓谷は絶好のハイキングコー スとして多くの人々に親しまれており、今日では 下流国道394号旧道城ヶ倉橋入口から上流堤川 5号砂防堰堤間に2、051mの渓流歩道が整備され ており、融雪期、荒天時を除き6月中旬から11 月上旬にかけて午前9時から午後4時迄利用する ことが出来る。 |
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田舎舘村 |
田舎舘村役場 6月26日 <2017(H29)年> 周辺地図 |
栃ノ海晃嘉顕彰碑 |
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役場の前庭に鎮座している。 |
行啓記念碑 |
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副碑に詳細が刻まれているが、2014(H26)年9月25日に田んぼアートを見に来られたようだ。 |
神明宮 6月26日 <2017(H29)年> 周辺地図 |
山谷清吉氏頌徳碑 |
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碑陰をみると大正3年に建立されたようだ。 |
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忠魂碑 |
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昭和二十五年八月三十日の光田寺村遺族会が建立。 |
力士の碑 |
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左が「東京力士/大関一ノ矢藤太郎之碑」真中が、「東京力士綾若鉄蔵之碑」、右が、神明宮の創立功労者の碑にようだ。 |
田舎舘村立老人福祉センター喜楽荘 6月26日 <2017(H29)年> 周辺地図 |
聖戦從軍之碑 |
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碑文に添えて、国務長官防衛長官●田甲子七書と刻まれている。 碑陰は欠損し読めないところもあるが、従軍者の思いが刻まれている。 |
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舘協同組合碑 |
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碑文には大正十四年七月十五日の文字が刻まれているが、他は掠れていて殆ど解読できなかった。 碑陰には、当時の関係者の名前が刻まれている。 |
福祉の碑 |
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碑文には「民生委員法六十周年記念/昭和五十二年十一月吉日/田舎舘村民生委員児童委員協議会/建立」と刻まれている。 碑陰には「仁以盡人/国務大臣田沢吉郎」と刻まれている。 |
故中山泰秀氏顕彰碑 |
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逆光で何が刻まれているのか分からないまま写真を写す。 |
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故中山福太郎氏顕彰碑 |
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逆光で何が刻まれているのか分からないまま写真を写す。 |
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黒石市 |
稲荷神社 |
忠魂碑 6月26日 <2017(H29)年> 周辺地図 |
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美幸公園横の稲荷神社境内に鎮座している。傍に、忠霊の副碑があり戦死された方々のご芳名が刻まれている。碑陰は見忘れたので、建立年月日は不明。 |
美幸公園 |
シベリア強制抑留平和記念の碑 6月26日 <2017(H29)年> 周辺地図 |
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精魂鎮魂シベリア強制抑留平和記念の碑は碑文とその下に鎮魂歌が添えられている。 |
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美幸公園奥 周辺地図 |
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美幸公園の奥の橋を渡ると小高い所に広場がある。その広場に石碑群がある。 |
歌碑 6月26日 <2017(H29)年> |
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碑文は達筆で読めないが、「●●/浦の●林に●●●●/磯の思/●山磯●●/●●咲きて●●」の文字が刻まれているようだ。 |
武讚の碑 6月26日 <2017(H29)年> |
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急いでいたので碑文や碑陰をじっくりとは見ていないので、不確定な部分がある。 |
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忠烈の碑 6月26日 <2017(H29)年> |
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〇は見えるけれども私が読むことのできない漢字。 |
秋田雨雀先生歌碑 6月26日 <2017(H29)年> |
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碑陰には誕生七十年記念と刻まれている。 |
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青雲の碑 6月26日 <2017(H29)年> |
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碑陰には「明治百年記念/●つそう●会/名前・・/昭和四十三年十月二十一日/建立」と刻まれている。 |
青雲の碑 6月26日 <2017(H29)年> |
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碑陰には「明治百年記念/●つそう●会/名前・・/昭和四十三年十月二十一日/建立」と刻まれている。 |
加藤宇兵衛翁銅像跡の碑 6月26日 <2017(H29)年> |
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弘前市 |
魚鳥供養塔 6月26日 <2017(H29)年> 周辺地図 |
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弘前市の最勝院の隣にある八坂神社の境内に鎮座している。 |
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二人の散歩路記録< 2017年6月25日(日)曇り 26日(月)晴れ |