静狩湿原(5m)・貝塚(17.3m)水道施設遺跡

 ポイント
 静狩湿原はミズゴケ湿原なので、湿原の中には入らないで観察路から観賞するのがマナーだと思う。ミズゴケ湿原は気の遠くなるような年数をかけて形成(1年1mm)されたもので、一度踏まれると、黒く枯死して容易に回復しないと言われています。
 アクセス
 国道37号線(静狩国道)の国道沿いの北側に広がる湿原と貝塚がある。その入口は、国道と開拓道路(オタモイ川)が交わる交差点には案内板が設置されている。
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 静狩湿原(H21.4.29) 
 先ず、砂浜の一角に立つ「静狩原野開拓記念碑」を訪れる。記念碑は北海道開発局と長万部町の連名で建てられたものなのだろう。少し掠れて見えない字もあるが、天然記念物だった沼沢を開発した経緯が記されている。









静狩原野は廣襄二千数百町大小無数の沼澤が淡水魚の生息地として点在し
僅に泥炭植物群落の範型として天然記念物の指定の受けし儘放置しありし
も、昭和二十四年町長野螻作太郎氏 國土開発は先す本原野の開拓にあり
と着想その實現に東奔西走遂に中央諸官庁の認むる処となり道開發局大谷
農業水産部長の踏査によって本町八十年の歴史に徴するも先哲の嘗て省承
さりし不毛の地に本大事業の工を起すに至る 時に昭和二年十六年盛夏 爾
来幾多の莉棘雨露風雪を突破延八萬五千名の人力と四箇年の日子とを重
遂にその根幹をなす建設事業の竣工を見る
嗟乎想へば野螻氏既に亡く諸官の交流も亦一再ならずと難も関係諸官庁の
善導と全町を舉げての協力一致が本日於にその成果を収め得たるものと信
ず此地に鋤する者それよく先人の苦難を偲びその遺徳に添われん事を希う
    昭和二十九年十月      長萬部町長吉田常三郎建立
 背に腹は替えられないと言うことかと考えつつ、「写万部山」が真正面に見える交差点を超えると、道端に「静狩湿原」「静狩貝塚」の看板がある。その道標に導かれ、室蘭本線の踏み切りを越え、オタモイ川沿いの「開拓道路」から「十六号農道」へ右折すると鳥居とイチイの大木が現れる。その前の看板には『名木イチイ記念物:樹齢300年以上と想定され幹周りが350cm、樹高10mの町内有数の古木、かってはイチイ林の最高木として出漁をした漁船が目印として帰港したと伝えられている由緒ある名木 いくつかの氏神さまの統合を機会に由緒ある名木に合祀したという。 イチイは、オンコ、アララギとも呼ばれてる常緑高木』と記されている。
開拓記念碑 看板のある踏み切り 入口の看板 イチイの大木
 大木の後に回ると祠があり、馬頭観音も祀られている。再び、舗装された「十六号農道」を走ると、「十一号農道」の交差点に道標があり、「十一号農道」へ左折する。農道は長万部らしく帆立の貝殻が敷き詰められていた。明渠に架かる「静狩農道十一号橋」の手前には「記念物静狩湿原」の看板が立っている。看板には『北海道最南端に分布する本町の貴重な高層湿原(ミズゴケ湿原)。 夏にはトキソウ、イソツツジ、外にもモウセンゴケ、サワラン、ミズトンボ、ワタスゲなどが咲き誇る原生植物の宝庫。かっては300haもあったが現在は34ha程度になった。禁止事項 1植物を掘ったり抜き取ること 2発掘調査をすること 3土地の形を変えること 4建築や土木工事をすること』記されている。
 「十一号農道」から「十二号農道」へと続く、湿明渠に沿って観察路が延びている。花の無い季節の湿原はだた水溜りの様で沼の雰囲気がない。
祠と馬頭観音 静狩湿原11号線口 明渠と観察路 水溜りか沼かと
 湿原はオタモイ山の裾野に広がっていて四方を畑に囲まれている。明渠にも三方が囲まれ湿原の保護は大変だと思う。
                    ←大
オタモイ山の裾野に広がる湿原
 500m位歩くと十一号と同じ看板の立つ十二号入口に着く。皮肉にも、湿原には咲いていないミズバショウが明渠の中で咲いていた。十二号入口から出て、湿原の北にある一番大きな沼に向かうと、水鳥が一斉に飛び立った。群れはカモで、煩い鳴き声を出しながら飛ぶのはサギなのだろうかと見上げる。
十二号入口 明渠のミズバショウ カモ? サギ?
 沼の辺まで、踏み跡が付いているが木道は無い。
                     ←大
湿原の北外れにある一番大きな沼
 静狩貝塚(H21.4.29)
 オタモイ山の山麓沿を走る道路沿い(沼の北側)に「埋蔵文化財静狩貝塚」の立つ小高い丘がある。その看板には『静狩貝塚は、縄文時代後期初頭(約4千年前)の大規模な貝塚として古くから知られ、本町の貴重な遺跡で、その広さは約1万uに及び、全域に厚さ50〜100cmの貝殻の堆積が認められている。貝塚が作られた当時は、遺跡のかなり近くまで干潟があったと考えられています。縄文前期にはまちがいなく近くまで海が入り込んでいたでしょう。遺跡の貝層等には、土器や石器、獣骨、人骨もみられる。注目されるのは熊の頭を模したと考えられる石製品で、これは縄文前期の可能性あり、道内では古い例である。貝殻は、ほっき、あさり、かき、ほたてなど。 禁止事項 許可無く行う「発掘調査」「土木工事」「土地の形状変更」をすること。』と記されていた。
 貝塚は小高い丘状になっていて、踏み跡が上に延びている。上がって見ると、小さな堀り跡に貝殻が顔を出していた。「遺跡番号(B17の2番)」の標柱み立っている。貝殻に見入り、三角点「田代:17.3m」を見付けるのをわすれる。
貝塚 貝塚の表面 貝殻が 遺跡番号の標柱
 水道施設の産業遺跡(H21.4.29)
 静狩地区簡易水道水源浄水場の裏には、水道施設と思われる産業遺跡がある。建設当時は西洋を感じさせるモダンな建物だったことだろう。横から見ると一棟に見えたが、近づくと二棟並んで建っていた。中を覗くと、円い窓が空いていた。左右の内部は微妙な違いがあり、その役割が違ったのだろう。建物の裏手には沈砂池だったのかコンクリートのプールがあった。
カマボコ型の建築物 二棟 内部1 内部2

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 二人の散歩路記録
 2009.4.29(水) 晴れ