小樽公園(89m)
 田上義也記念室 戸塚新太郎歌碑 顕誠塔 長紀聖蹤碑 行啓記念碑 見晴台と見晴亭 渡邊翁の碑 こどもの国ゾーン(遊園地跡) 戦捷記念碑 石川啄木歌碑 表慶の碑 ミルクプラント
=風景写真をクリックすると大きなサイズになります=

 アクセス
 公園の一番南西にある駐車場に車を停める。駐車場は見晴台にもある。
 国土地理院地図   Google Map
案内図
 田上義也記念室<2010.8.10>
 建築家田上氏によって設計された坂牛邸が記念室として今年1月13日にオープンした。開館日時は毎週金・土・日曜の10:00〜15:00で入館料300円とのこと。
玄関 天狗山をバックに
 内部の写真撮影は禁止なので外回りだけ。
 1928(昭和3)年に建てられた木造2階モダンな洋館が天狗山をバックに見られる。
 戸塚新太郎歌碑<2010.8.10>
シラカバ林 歌碑
 坂牛邸から涼しげなシラカバ林に延びる道を辿って行くと歌碑が現れる。立ち止って碑文を読むと「森にひそむかの妖精もいでて遊べ 木もれ日うごく羊歯の葉の上」昭和40年9月建立と彫られていた。
 木の葉で切られた光の影が、羊歯の葉で更に切られる様を連想して、妖精を感じた。
 顕誠塔<2010.8.10>
 入口から中を覗くと、昔よりも荒れているような感じがする。門の脇にある看板を見ると顕誠塔と書かれ、大正12年に日ロ戦争で戦死した霊をまつるために建立されたと書かれている。中に入ると玉砂利は雑草で覆われているところを見ると、訪れる人が少ないのだろう。中では、元気なおじいちゃんが上半身裸で体操のような仕草をしていた。改めて顕誠塔を見上げると忠魂碑ではなく顕誠塔と彫られていた。
入口 説明板 中に入る 顕誠塔の文字を
小樽市の紋 金鵄 社務所
 高さが20mはあると思われる塔の頂点には金鵄(きんし:トビ)、台座には小樽市の紋を仰ぎ見る。
 境内の社務所は健在だった。
 長紀聖蹤碑<2010.8.10> 
石碑
 小樽公園の一角に大きな文字で「長紀聖蹤(ちょうきせいしょう)」と彫られた石碑があるが、裏を見ても表を見てもこれ以上分からない石碑だった。 
 行啓記念碑<2010.8.10> 
石碑
 小樽公園の見晴台の真中に石碑が鎮座している。碑文は大きな字で刻まれているが「明願」としか私には読めない。碑陰を見たら、「明治四十四年八月二十四日御野立之所」と刻まれているようだが、自信はない。案内板には行啓記念碑とだけ記されている。明治は45年で終わりなので、大正天皇が皇太子の時に来たのだろうか。
 見晴台と見晴亭<2010.8.10 2022(R4)年7月16日
 見晴台の一角にある昔ながらに可愛い佇まいの店だが、現在は閉店しているようだ。子供の頃には、この店でサイダーを飲むのが楽しみだった。
2010年 2022年 2010年 2022年
見晴亭 小樽市街を
 こどもの国ゾーン(遊園地跡)<2010.8.10>
 遊園地跡に「こどもの国ゾーン」が出来ていた。親子ブランコ、コンビネーション遊具、波状滑り台、ターザンロープがある。
親子ブランコ コンビネーション遊具 波状滑り台 ターザンロープ
 海側には大地の遊び回廊や迷路もある。回廊の回廊からは水天宮が見えていた。東屋の上の「空の遊びの回廊」に上がると、公園内で一番景色が良い所だった。
大地の遊びの回廊 水天宮 小樽湾
 戦捷記念碑<2010.8.10>
 くろふねつつじの小径を下って行くと、石の庭があり、その一角に石碑があった。碑文の左に小さい文字で元帥●・・と彫られているが判然としない。
小径 石庭 石碑
 碑陰には「明治三十九年六月建立、●田郡森田村出身 山本久吉、ヒサ、謙三」の文字が読み取れる。 
 石川啄木歌碑<2010.8.10>
 石庭の一角には石川啄木の歌碑「こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ」もある。仕事探しは昔も現代も大変なんだと実感する。
 碑陰には小樽啄木會の撰文が彫られていたが、掠れていて解読できたか自信は無い。
明治四十年九月末小樽日報創業に招
かれ詩人石川啄木は来樽した 在社
三ケ月志望の記者生活を快よく働い
て独特の健筆を握った 其頃を追想
した「かなしきは小樽の町よ歌ふこ
となき人人の声の荒さよ」は今も市
民に愛誦されて居る 翌年一月漂遊
を續け釧路新聞に轉じたが四月素志
を遂上京し困窮の生活と闘ひなが
ら不朽の彼の文學を築き上げた 明
治四十五年四月十三日薄倖不遇の生
涯を終ったのは二十八歳である
彼が愛し懐しんだ小樽の市民はこの
永遠に若い詩人を賛頌して記念の歌
碑を建立した
 昭和二十二年十月
    小樽啄木歌碑建設期成會
      撰文 小樽啄木會
石碑 碑文
 表慶の碑<2014.7.14> 周辺地図
石碑
 小樽市役所に面した小樽公園の一角に、表慶と大きく刻まれた石碑があり、近づいて見ると石碑の向かって左側に「従四位勲三等石原健三」と添え書がされていた。
 碑陰に回ると、「皇太子殿下御成婚奉祝記念/明治三十三年五月十日建立」と刻まれていた。建立年月日は掠れてしまっていた。
 年月日からすると、大正天皇の皇太子時代のことと思われる。
 渡邊翁の碑<2013.7.27> 周辺地図
石碑 碑文
 生まれは秋田の能代で、幼名は佐助という。能代港から弁財船(べんざいふね)で密航して小樽へ来て、山田兵蔵家に奉公した。
 二十歳のとき主人の名前から「兵」の一字をもらって兵四郎と改名したようだ。
 小樽発展の功労者だが、碑文と同じく、存在感が薄れてしまっているようだ。
 從三位勲三等候爵佐竹義春篆額
渡邊兵四郎翁弘化三年生干秋田県能代港幼洛佐助其先甚十郎寛文年中秋田定居焉後
暦数代家道麦翁長於介貧窶具甞辛酸萬延元年歳甫十五奮然平志赴松前落託經年而事於
小樽山田吉兵衛格勤励業主人竒其才擢為店長明治初年改小樽村制也翁代行各主職除
弊事興公益多所貢献焉社年而豪?不覊負氣冒險有膽勇機略往々驚人者矣明治十年獨
立創商店勤苦力行先興産進延圖漁撈法改善又興業申請米造林保険業明治二十年舉小樽
漁業組合頭取專來歴小樽區會議員小樽産業會議所會議北海道會議長之重職明治四十一
一年當選衆議院議員同四十五年就任小樽區長欽意振興市勢傍参興各種?體公益事業
功績甚多 東宮稽嘉其方特賜謁前後受表彰者不功遑枚譽當翁姿性純忠尊皇志篤晩年起
明治天皇聖徳記念建碑之議邸挺老?努病當事遺臣民葵向之芳?可謂偉兵翁善欲能談
氣京挾秋霜心蓄春風號一布楽風雅老後親書道顧翁生涯?多波住潤白折貫以盡奉公之至
誠翁小樽市建設之柱万而北海道開發之元老也矣昭和七年五月十一日溘然逝矣享年
八十七同志乃相謀庭碑傳功徳於後焉予興翁同郷士又有晩年之交の仍應嘱略叙其行事
以代誌銘
 昭和十年五月十一日         鳳山 小山忠雄撰杵書
                     龜井壽泉刻
 ミルクプラント<2010.8.10> 周辺地図
外で待つ(大×) 中で食べる(大×)
 遊んだ後は、ミルクプラントでソフトクリームを食べる。

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 二人の散歩路記録
 2022(R4)年7月16日(土) 2014.7.14 2013.7.27 2010.8.10