小田城跡

 ポイント
 筑波山の帰り道に一寸寄って、歴史の勉強が出来る。

 アクセス
  国道125号線のつくば市小田の一角にあるが、地元の方に聞いた方が良いと思う。
 国土地理院の地形図 周辺地図
=写真をクリックすると大きなサイズになります=
 筑波山の帰り道、国道125号線を走っていると娘が見つけた「小田城跡」の道標に導かれて、小田市街に入る。市街地の塀には地図が掲げられているが、道が分からない。地元の方が自転車で通りかかったので、聞いて見ると丁寧に教えてくれた。自転車で先導してくれるとも言うが、自力で行くことにする。教えられた通りに、道を辿ると、先程のご婦人がにこにこと笑いながら自転車で近づいてきた。もう直ぐらしく、再びお礼を言って小田城跡を目指す。
 看板のある原っぱで道は終わっていたので、下りて看板を見る。確かに小田城跡で、小田城跡は西側の森の中のようだ。近づいて行くと、三角の碑が現れる。カタカナで書かれているので戦前のようだが、誰かの功労を称えた石碑のようだ。
由緒書 小田城跡 小田城跡に近づく 功労を記した碑?
=看板の記述内容=
             国指定史跡 小田城跡 昭和十年六月七日指定

 小田城は、一二世紀末に八田知家によって築かれた。知家は常陸国の守護となり、建久四年(一一九三)には多気義幹を亡ぼし、常陸国南部に勢力を広めた。四代時知に至り小田氏を名乗るようになる。鎌倉幕府が亡びると、七代の治久は新政府に参加し、南朝に見方した。治久は延元三年(一三三八)に北畠親房を小田城に迎え、関東における南朝の中心となって活躍した。親房は城中で「神皇正統記」「職原抄」を執筆した。しかし高師冬に包囲され、翌年に治久は師冬に降り、親房は関城へ移った。
 戦国時代になると、小田氏は佐竹氏、結城氏に攻められ、小田城の激しい争奪戦が続いた。小田氏治は永禄一二年(一五六九)の手這坂の合戦に敗れて土浦へ逃げた。佐竹氏は梶原政景を小田城代として守らせた。政景によって小田城は大規模に改修された。慶長七年(一六〇二)に佐竹氏は秋田へ国替され廃城になった。
 小田城は、本丸を中心に三重の堀と土塁に囲まれは平城で、約二一ヘクタールに及ぶ。本丸部分の約二ヘクタール程を八田氏の居館として出発し、次第に拡大強化された。南北朝に入ってから、居館から防衛のための城郭へと転化した。戦国期の度重なる戦乱の中で戦闘用に強化された。更に梶原政景によって最終的に改修され、現在知り得る姿になって完成する。
 この城は平城として長所を十分発揮して巧妙に設計されている。本丸と各郭は深い堀と高い土塁で囲まれ、重要な出入り口には馬出しを設けて、直接進入が出来ないようにしてある。郭は堀によって隔てられ、橋で結ばれている。郭は外部になるにつれて広くなるが、その中に堀や土塁を設けて、郭内の自由な移動を妨げている。郭群の外を北から東に囲む最外部は城下町をなし、その外も堀と土塁で囲まれている。
 *小田氏略系譜
 1知家ー2知重ー3泰知ー4時知ー5宗知−6定宗ー7治久ー8孝朝ー9治朝ー10持家ー11朝久ー12成治ー13治孝ー14政治ー15氏治

                                つくば市教育委員会 
 次に・・記・・・之池と掠れた石碑が立っていた。真新しい石碑は小田城跡の由緒書だった。「史跡小田城址」の石碑も立っていたので、間違いなく小田城址と確認する。城址の石碑に隣には「小田山の雪 小田村を 明るくする」と彫られた頭が欠けた石碑がある。
・・記・・・之池? 由緒書 「城址」の碑 小田山の雪の碑
 =由緒書の内容= 小田城址 文部省指定
 鎌倉時代八田知家が領主となり、その子孫小田氏十五代約三百七十年間の居城として繁栄した
 南北朝争乱の時延元四年北畠親房郷が本城に拠り職原抄を著し神皇正統記を起稿して有名である
 この城は幾重にも堀をめぐらす平城ににて城域十万平方米に及ぶ大きな規模であった
 こヽ本丸の凉台に樹齢八百年の大黷ェ昔を語るように生存している

   昭和四十三年一月 筑波町教育委員会
 見てもさっぱり理解できない石碑もあり、引き返すと今日登って双耳峰の筑波山が望まれた。看板のところに帰って見ると、墓と思われる不思議な形をした石積みがあった。その脇には似たような小型の石積みが柵の中に詰まっていた。
?石碑 筑波山が 墓?
 帰り道に道を間違えて、迷路のような小路を辿ることになるが、この小路は時代劇にでてくるセットのような塀や屋敷が続き、タイムスリップしたような気持ちなにる。

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 二人の散歩路記録
 2007.5.27