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港区の風景
平和の |
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ポイント 街角にひっそりと佇む歴史の証し。 |
| 平和の灯と東京タワー(2012.5.24) Google マップ |
| 芝公園の中を歩いていると東京タワーが良く見えた。 何気なく目の前の噴水の様な構築物を見ると、「平和の灯」だった。擦れた看板は良く見ないと読めない。 |
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| 芝丸山古墳(2012.5.24) Google マップ |
| 芝公園の南側には、芝丸山古墳があり、前方後円墳と言うことなので、階段を上ってみる。一汗かいて上がると、伊能忠敬の石碑があった。碑文は擦れて良く見ないと判読できない。碑裏には私には読めない草書体で「昭和四十年初夏/●●勝三●」と刻まれている。 東側に下って行くと虎が鎮座していた。台座には「万木/鐘がなる/春のあけぼのゝ/増上寺/鳩山重●」と刻まれていた。伴睦は万木(ばんぼく)の俳号を使っていたようなので、大野伴睦句碑なのだろう。それにしても、虎と増上寺の俳句には違和感があった。 最後に、案内板を見る。どうも、順序が逆になってしまったようだ。 |
| 前方後円墳 | 伊能忠敬測地遺功表 | 大野伴睦句碑 | 案内板 |
| 忠敬先生は一七四五年(延享二年)上總國に生れて 下總國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後 五十歳の時江戸に出て高橋至時のもとで天文 暦數の學を極めた 先生の卓見と創意とに よる測地測量は一八〇〇年の蝦夷地奥州街道の 實測を始めとして全國津々浦々にまで及び 一八一八年(文政元年)江戸八丁堀で七十四歳 をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力 とによって續けられわが國の全輪郭と骨格 とが茲に初めて明らかにされるに至った その偉業は引きつがれて一八二一年大中小の 大日本沿海與地全圖が完成せられその精度の 高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀 本部測量局の輯成二十万分一地圖は實にこ の伊能圖を骨子としたものである 東京地學協會はその功績を顯彰して一八八九年 この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を 建設したが不幸にして第二次大戦戰中に失わ れるに至った仍って今回各方面の協賛を 得てこの碑を再建した次第である 一九六五年五月 社団法人 東京地學協會 會長 細川護立 |
| 日本経緯度原点(2010.5.24) Google マップ |
| 麻布台ビルの駐車場に入って行くのではないかと、一旦引き返すが、どうも、ここしかないと覚悟を決めて、警察官や警備員の傍を通り奥に入ってみる。奥にはアフガニスタン大使館があり場違いかと思ったが、右側を見ると日本経緯度原点の看板を見つける。 |
| 麻布台ビル駐車場 | 麻布台ビル | アフガニスタン大使館 | 日本経緯度原点 |
| 道端には、港区教育委員会の看板「港区指定文化財/史跡/日本経緯度原点」が立っていた。敷地内に入り、日本経緯度原点の看板を撮す。南側には行き先の無い階段があり、そこから振り向いて石碑を撮す。石碑の裏からも撮すが、碑裏には何も書かれていなかった。 |
| 解説板 | 看板 | 石碑 | 裏から |
| 石碑に目が行って肝心の日本経緯度原点を探すと、外国人が座っている台座に嵌め込まれていた。全体を撮したかったが、外国人が入ってしまうので、差しさわりの無いところで撮す。石碑に碑文も刻まれていた。東北地方太平洋沖地震でこの地点が東に27cm動いたというから驚きだった。 |
| 台座 | プレート | 金属標 | 碑文 |
| 愛宕山(2010.5.24) Google マップ |
| 愛宕山のトンネルを見付けトンネル脇から公園に上がるとNHK放送博物館がある。その反対側に三角点があったが、石蓋でガードされていた。最後に石段を下る。 |
| 愛宕山のトンネル | NKK | 三角点 | 愛宕山神社の石段 |
| 鉄道唱歌の碑(2013.5.21) Google マップ |
| 新橋駅前にD51の動輪と共に鎮座していた。解説板も設置されている。石碑には「汽笛一聲/しんばし/は●●汽車/ハ離●●り 愛/宕の山●入●/の●● 月を/旅路の友●/して ●●」と凡人には暗号文としか考えられない銅板が嵌め込まれている。その下に、丸い小さな文字が読ませまいと主張しているかのように刻まれていた。 |
| 駅前広場 | D51の動輪 | 解説板 | 唱歌の碑 |
| 鉄道唱歌の作者大和田建 樹先生は安政四年(一八五七) 四月廿九日愛媛縣宇和島 に生まる幼少國漢文に親 しみ十五歳以降特に國学 に志した明治七年十八歳 の秋上京遊学十七年東京 大学講師翌年等師範学 校教授廿四年辞任爾来● ●任せず門を開いて歌文 を教え地方に出講し行路 謡曲能舞を嗜し学は?洋 に●り著述は辞典詮釋詩 歌随筆等百五十冊を越え たが丗三年鉄道唱歌東海 道山陽九州奥州線磐城線 北陸地方關西参宮南海各 線の五冊を連刊し就中汽 笛一聲新橋をの一句に始 まる東海道の部は普く世 に流布して津々浦々に歌 われ鉄道交通の普及宣傳 に絶大の貢献をなした先 生明治四十三年十月一日 に没す享年五十四余年● も生誕百年に當って先生 の遺弟待舎同人の發起 により東海道鉄道唱歌に ゆかり深い新橋驛構内に 碑を建て永く先生を記念 する 昭和三十二年十月 阿倍●成 |
| 番外.高輪大木戸跡(2010.5.18) Google マップ |
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品川から引き続き自転車で国道15号線沿いを北上していると、歩道の真中に石垣が現れる。石垣の由緒書には高輪大木戸跡と書かれていた。ここも旧東海道のようだ。 |
| 高輪海岸の石垣<港区高輪2-13-13>(2025.4.4)Google マップ |
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高輪ゲートウェイ駅の南西で、桂坂と国道15号線が交わる交差点の信号「高輪二丁目」の北西角に小さな緑地がありその一角に石垣がある。石垣に添えて解説板もある。 緑地は区営シティハイツ桂坂都営トミンハイム桂坂の敷地のようだ。 |
高輪海岸の石垣 ここに展示されている石は、 江戸時代に、 高輪海岸に 沿って造られた石垣に用いられたものです。 平成7年(1995)、 高輪二丁目20番の区有施設建 設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。 石垣には、主に相模湾岸から伊豆半島周辺で採石 された安山岩が用いられました。 発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段 は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと考えられ ます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。3段 目から下の石垣は現地でそのまま保存されています。 ー詳しいことは、 港区立港郷土資料館でお尋ねください一 平成13年(2001)5月 港区教育委員会 |
東海道高輪風景 橋本貞秀画 文久2年(1862) 港区立みなと図書館所蔵 |
| 港区有施設建設用地内遺跡で 発見された石垣の様子 |
| 港区旧町名由来板「高輪」(2025.4.4)Google マップ 高輪地区 旧町名由来板 シティハイツ桂坂 |
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高輪海岸の石垣と同じ小緑地にある。解説板は東京都港区ホームページ「高輪地区旧町名由来板 高輪公園」に奇麗な形で載っている。 |
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高輪
Takanawa
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| この地は海より眺めて高台の縄手道から「高縄手」と称されていま したが、転じて「高縄」から 「高輪」となりました。古くから海沿い に人家が点在していましたが、江戸初期に幕府が参勤交代のために東 海道を整備し、これにより街道治いに町が広がっていきました。 この地域には、高輪大木戸・願生寺・泉岳寺・東神単寺など多くの名跡 があります。 芝車町 旧江戸の入口のこの地は、 江戸初期には下高輪村と呼ばれていました。寛永11年 (1634)京都の牛持たち(牛車運搬業者) が召し寄せられ、増上寺安国殿普請など で石材の運搬を勤めていました。市ヶ谷辺りの牛小屋に住んでいた牛持たちは御用 が済んだ後も帰郷はかなわず、寛永16年(1639)三代将軍徳川家光の意向により、 諸国から船で届いた荷を運ぶのに都合のよい土地を与えられ移り住んで来たこと により、高輪海辺四町余を車町と唱えるようになりました。 明治2年(1869)頃にはまだ牛小屋が数軒残っていたため通称 [牛町] とも言 われ、「高輪牛町十八町、牛の小便長いネー」などと童子が唄いながら遊んでいた のもこの頃のことです。 芝高輪北町 古くは荏原郡下高輪村のうちで、人家は少なく海辺の縄手でしたが、江戸時代 に入り街道が整備されて、高輪大木戸から品川宿までの十八町の間は引手茶屋など で賑わっていました。中町・南町に対して北に位置していることから高輪北町と 唱え、正徳3年(1713)町奉行支配となりました。 東海道から少し山手に入ると、北町の横に高輪北横町があり、武家屋敷や寺社の 地となっていました。明治2年(1869)に高輪北横町と高輪常光寺門前、明治5年 (1872)には武家地寺社地を合併しています。 |
| 江戸時代の石垣(2010.5.18) Google マップ |
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東京ガスの敷地内に江戸時代の石垣が設置されていた。 |
| 東京ガス創業記念碑・物故者慰霊碑(2010.5.18) Google マップ |
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旧芝離宮に入ろうと、南側の道を辿っていると突き当たってしまう。その突き当たりに東京ガスの創業記念碑と物故者慰霊碑が鎮座していた。どうやら、ここは東京ガスの敷地のようだ。 |
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二人の散歩路記録 2010.5.18 |