倶知安町廃校・廃場・記念碑群
=写真をクリックすると大きなサイズになります=
 開拓五十週年記念 <2017.3.31> 国土地理院地図 周辺地図
石碑
 国道393号線で倶知安町の出雲付近を通ると、信号のある交差点の道端に石碑を発見する。碑陰には昭和19年6月23日建立と刻まれているようで、建立してから121年が経つことになる。この石碑、五十周年の周が週になっている。
 瑞穂小中学校跡 <2011.6.6> 国土地理院地図 周辺地図
 国道393号線で倶知安町の瑞穂付近を通ると、道端に石碑を発見する。近づいて見ると、羊蹄山の溶岩で出来た石碑の上に「我が瑞穂」と彫られた石版が載っている。副碑には瑞穂小中学校の沿革が彫られていた。それによると、明治31年4月開校で、昭和59年3月閉校だった。石碑の裏に回ると、「堅忍、誠実、明快」と刻まれた石板が羊蹄山をバックにあった。広場の一角には校門跡の門柱が鎮座していた。
石碑 副碑 石碑の裏側 校門跡
 豊穣の礎 <2011.6.6> 国土地理院地図 周辺地図
石碑 碑文 豊かな畑と羊蹄
 学校跡には豊穣の礎と彫られた石碑もある。台座には碑文が刻まれていて、古き良き時代の農業が窺える。
 それにしても、羊蹄山をバックにした畑は宝物だ。
      碑      文
北海道開拓の初期、明治二十八年、先人は、熊笹の茂っ
た原生林の此の地に開墾の鍬を打ち下ろした・幾多の試練
に耐えながら幾星霜、大正八年、西六号北5線のこの
地で、ポンクトサン川の水を利用して、約七反の水田
より約二石(五俵)の米の収穫を得た。翌大正九年水
田期成同盟会が設立され、同十年倶知安町土巧組合設立認可
申請書の提出に至り、灌漑工事、水田事業が急速に進み
黄金の稲穂が波打つ美田が眺望される様になった。
以来半世紀、営農と稲作農業に励んで来たがが、昭和四十
年代に入り、水田経営の合理化と、農業経営を目指す近
代的機械化農業への転換に意欲を燃やし、その基盤の確
立と、更に五十数年を経た用水路の保全も不可能に近い
状態になっているのを機に、道営圃場整備事業の気運
が盛り上がり、促進期成会の設立を見た。時折りしも国
の農業政策は転換期を迎え、水田の休耕転作等が要求
される時期でもあり田畑輪換農業をも夢見ていた。
詳細な設計を経て、昭和五十五年九月三日晴れて起工式
の運びとなり夢の事業が進められた。北海道庁、開発建
設部、後志支庁、土木現業所、倶知安町、倶知安土地改良
区、倶知安農協等の各関係機関の協力指導の下に、関係
者一致協力して、大型の圃場、灌漑排水施設のトラフ装
工、全長五十二メートルの水管橋、地区内町道の全舗装
幹支線農道の完備等、隔世の感がある姿に生まれ変わり、併せ
て換地事業で農地利用の集団化も図られ、当事業の完遂
を迎えたのである。
米の減反政策、水田利用再編対策等幾多の変遷と困難を
克服し、八ケ年の歳月を経ての竣工を祝い、改めて諸関係
機関に深く感謝し、ここに記念の碑を建立し、後世に、之
を伝えるものである。
   昭和六十二年十一月十三日
             倶知安北部地区道営圃場整備期成会
     概    要
 参加戸数 四十五戸 工事面積百四十ヘクタール
 総工費額 十三億四千百万円
 翔け未来へ豊穣の里 <2011.6.6> 国土地理院地図 周辺地図
石碑 碑文
 豊穣の礎から東に移動すると、「翔け未来へ豊穣の里」と彫られた石碑があり、碑文には開基百年を記念した碑誌が刻まれていた。
 副碑の前には「2024年への/メッセージ/1994年8月14日」と彫られているところを見るとタイムカプセルに違いない。
 倶知安小学校発祥旧跡の地碑 <2015.9.6> 国土地理院地図 周辺地図
石碑 解説板
 倶知安神社の境内に鎮座している。碑陰を見ると八幡小学校同窓会が昭和60年8月4日建立したようだ。
 近くに開設板も立っている。
 尊農開基の碑 <2015.9.6> 国土地理院地図 周辺地図
石碑
 倶知安神社の境内に鎮座している。台座に嵌め込まれた碑文を見ると「倶知安土功組合設立50周年記念/倶知安土地改良区改組20周年記念/昭和45年6月10日建立」と刻まれている。
 豊水沃土の碑 <2015.9.6> 国土地理院地図 周辺地図
石碑
 倶知安神社の道を挟んで反対側に石碑が鎮座している。倶知安西部地区道営圃場整備事業促進期成会が建立した石碑だが、碑文は掠れていて判読できない。
 旧青木農場記念樹 <2011.6.6> 国土地理院地図 周辺地図
記念樹
 倶知安町克雪カ管理センターの前庭に、一本の枯れてしまったオンコががあり、その傍に「旧青木農場記念樹」と書かれた看板が立っている。その看板によれば、明治39年5月農場開設時に移植したという。
 米が稔った郷 <2011.6.6> 国土地理院地図 周辺地図
石碑 碑文
 旧青木農場の記念樹の横に「米が稔った郷」と彫られた石碑が鎮座している。
 碑文は掠れていて良く読めなかった。
明治32年水田を墾成し宮脇担任の下に水稲の試作を始め両三年
継続せしも好果を見ずして止む--------山陰移住会社誌
明治39年山陰移住会社解散後の一部を継いだ青木利一(岐阜県出身)はポ
ンクトサン川から、かんがいし人々の嘲笑を背後に米づくりに傾注し43年に
初めて米を稔らせて倶知安農業史に輝かしい一頁を印した。
倶知安米のふる里、初めて米が稔った郷このあたりを今瑞穂と言う。
       昭和48年11月3日
         倶知安町文化財保護調査委員会委員長
 大和小学校跡 <2010.11.6> 国土地理院地図 周辺地図
 樺立トンネルを抜け、赤井川国道393号線を倶知安に向っていると、大和のカーブ(バス旋回場?)に石碑を発見する。近づいて石碑を見ると、「大和小学校跡」と彫られている。碑文を見ると、明治37年5月仮小屋を建て15名の児童を集めて授業を開始し、昭和51年3月31日閉校のようだ。
 石碑の後ろには、穴が空いたように何かが足りない、平らな空間が広がっていた。
学校跡 石碑 碑文 学校の敷地
 八幡小学校跡 <2010.11.6> 国土地理院地図 周辺地図
羊蹄山を
 扶桑から赤井川国道393号線を下って行くと、羊蹄山が真正面に見えて来る。尻別国道276号線に合流しようとする手前で、「●●小中学校通用門」とプレートが嵌め込まれたコンクリートの門がある。
 ここも学校跡かと思い、近づいて見ると、「學校教育 發祥之地 八幡」と彫られた石碑がある。 碑文を見ると、八幡小学校は明治29年9月から、昭和59年3月まで続いたようだ。
 二宮尊徳像もあるが、銅版はすっかり錆びて最初の字は「以」とも読めるが判読不能だった。尻別国道276号線に合流すると、交差点越しにレンガで出来た門もあった。
レンガの門 学校教育発祥 二宮尊徳 レンガの門
 倶知安村戸長役場跡<2010.11.6> 国土地理院地図 周辺地図
石碑 碑文
 八幡学校教育発祥之地碑の隣に、「倶知安町は此処から創る」と彫られた石碑があり、その傍に「明治29年4月25日役場設置、明治29年9月11日小学校創立、巡査駐在所等創建」と彫られ、 行政教育保安等の中心地だったようだ。
 寒別小学校跡<2010.11.6> 国土地理院地図 周辺地図
 京極町から尻別国道276号線で倶知安町に入ると、道路沿いに学校の校舎が現れるが、生徒の居る気配がしない。車を停めて見たら、学校の門があり、その門に一部欠けた「●別小学校」の陶器の名札が嵌め込まれていた。
 校庭には石碑の裏が見え沿革が彫られているので、校庭に入らせていただき石碑を見る。石碑には学舎と彫られた大きな字が見える。近づいて見たら、石碑の基礎に校章と校歌が刻まれていた。廃校舎を見ると、羊蹄山がバックに煙っていた。
学校の門 石碑の裏 石碑 羊蹄山と廃校舎
 嶺かげ清く尻別の 岩かむほとりかみ遠く 拓きし麓野幸かおり 学びの園も輝けり♪・・・羊蹄山にはもう木霊しないんだ・・・

散歩路もくじ3へ   次ふきだし公園へ  北の探歩訪へ

 二人の散歩路記録
 2017.3.31 2015.9.6 2011.6.6 2010.11.6