朝里探訪
神威古丹潭 柾里地蔵尊堂(三太郎地蔵) 柾里神社 八大竜王神の碑 川裾大明神の碑 故町田先生公徳碑 三角点「朝里」 朝里川河口付近 太平山神社 悲恋地蔵 木造の倉 朝里学校教育発祥の地 冷水不動尊 並木凡平 亜久里苑 定山和尚の袈裟かけ岩 定山渓線旧道 青山ゆき路の歌碑 千葉仁句碑 石塚友二句碑

 ポイント
 「小樽朝里川温泉郷ゆらぎの里」「おたる坂まち散歩」小樽ジャーナルの石碑めぐりに掲載されているが、HPだけでは場所の特定が困難だ。
 GPSトラックは山の地図帖「2010.12.17」へ
 神威古丹潭 <2010.12.17>  周辺地図
 JR朝里駅を下りて柾里沢川に架かる柾里沢川橋を渡り、海岸沿いを辿って見る。線路沿いには海岸段丘が続いているが、その上に朱色っぽい柾里神社が見えて来る。暫く、辿って行くと、漁師の家が途切れ、海岸が見えて来る。振返ると真っ白な赤岩山や高嶋岬が見えて来る。沖合いには北の守りの要になる阿蘇岩山が見えていた。天気が良ければ対岸に増毛の山々が真っ白な姿を見せてくれる。
朝里駅 柾里神社 赤岩山を 阿蘇岩山を
 道路は鉄路を跨がず、海へと消えてしまう。ここから、神威古丹潭を見ると、河岸段丘の上に石切り場の山が見え、石倉山は僅かに頭を見せていた。
           ←大
            神威古丹潭        採石場                    石倉山
 柾里地蔵尊堂(三太郎地蔵) 周辺地図
お堂
 札樽国道開通記念碑の建立されている駐車場の下側にある墓場の一角に、海を向いているお堂があった。この中に、三太郎地蔵が鎮座しているはずだった。
 「1862年中山三太郎が親子兄弟7人を、神威古潭沖の海難事故で失い、深い悲しみの後供養のため建立」と言われている。
 柾里神社 八大竜王神の碑 川裾大明神の碑 周辺地図
 柾里沢川側の踏み切りの付け根に小道が上に延びていた。この小道を辿って見ると、墓場の下側に着いた。柾里地蔵を見て、墓場から海側に延びる小道を辿って行くと小樽が望める。直ぐに線路沿いから見上げた朱色の神社が見えて来る。神社は海に向いて建てられていた。この神社は「350年の歴史がある松前神楽が、小樽で最初に伝承された神社」だと言われている。神社の中は見る術もないので、一回りをする。
 傍には、「八大龍王神」、「川裾大明神」の碑が並んで鎮座している。雪で石碑を撫でると、真っ白な文字が浮かび上がって来た。八大龍王神は海の安全、大漁祈願、五穀豊穣の神として祀られ、川裾大明神は水の恵みをもたらすと言われている。建立年は、慶應三卯(1867)年とは明治の前で、今から144年前なのだ。
小樽が 背を向けた 神社 石碑
 故町田先生公徳碑 <2010.12.14>  周辺地図
 柾里神社から、再び、朝里駅前の通りに戻り、西側の踏み切りを越えて道を上って行くと、小樽が綺麗に見えだす。更に、上って行くと、道のカーブする所には、大きな石碑が目に飛び込んで来る。碑文は大正時代に建立されたので、カタカナ交じりの難文だ。この碑は、朝里小学校が100周年の時に移転修復されたようだ。
小樽が 石碑 碑文 碑裏
   頌 コ 碑
生キテハ一郷ノ師父トナリ、死シ
テモ餘香ヲ放ツモノ、故町田外也
先生ハ其人也。
先生ハ慶應二年青森縣西津輕郡蛯
袋ニ生ル。縣立鰺澤師範ヲ卒ヘ、
明治貮拾壹稔、當朝里小學校ノ訓
導トナリ、次デ校長トナルヤ、爾
来参拾有参稔間、終始一貫。児童
之訓育、青年子女之教養、一村之
風化ニ至ルマデ、悉ク慈愛ト至誠
ノ発露ナラザルハアラズ。生前幾
回ノ表彰叙勲ト頌コ碑ノ建設ハ、
以テコ望ノ如何ニ高カリシヤヲ語
ルニ足ル。冀クハ遺靈長ヘニ地方
人心ヲ薫化シテ已マザランコトヲ
 大正拾四稔壹月拾五日
  從四位勲四等 石川 啓
 三角点「朝里」 <2010.12.14> 周辺地図
 三角点「朝里」のある公園からは天狗山、銀鱗荘、赤岩山、高島岬が一望でき、赤防、白防に囲まれた小樽港も見えていた。
           ←大
 天狗山                        銀鱗荘                赤岩山  高島岬
 朝里川河口付近 <2010.12.14> 周辺地図
 朝里川に架かる朝里橋を渡りながら、上流を眺める。旧朝里橋のあった所からは、橋を造った時の道なのかくの字に曲がった道が川に向って下りていた。小樽側に短い朝里トンネルがあった痕跡は全く無い。
 朝里川の河口に下ると、河口はJRの線路があり、直接見ることは出来ない。河口に架かる橋を渡って、振返ると太平神社が良く見える。
朝里川 道の跡 JRの線路 河口橋から
 太平山神社 悲恋地蔵  <2010.12.14>  周辺地図
 朝里橋から海岸段丘に刻まれた階段を下って、線路沿いの道に下り、朝里川の河口を目指す。太平神社は角に小樽を向いて建っていた。中を見ると、真中に太平山の碑、左右にも石碑があり、上には大小二つの下駄がぶら下っていた。「太平山碑は1857(安政4)年、柴田長太郎(鍛冶屋)が発願、魂入れは定山和尚、文字を彫ったのは手宮洞窟(国重要文化財)を発見したという石工長兵衛」だと言われている。太平山の碑には漁場の文字が見える。右の石碑は猿の文字が刻まれている。
 神社の傍には石仏が鎮座していた。清吉とお小夜の2体だと思ったら、5体だった。「清吉20歳とお小夜16歳は、1856(安政3)年の張碓漁場の鎮座祭で出会うが、清吉は27歳で急死しする。その後を追いお小夜が朝里の海に身を投げてしまう。お小夜の心を知っていた定山和尚は二人の地蔵を建立した」と言われている朝里に残る悲恋の実話だ。
小道を下る 太平神社 石碑 悲恋地蔵
 木造の倉 <2010.12.14>
木造の倉 鉄の扉 鉄格子
 線路沿いの道を歩いていると、木造の倉が目に入る。
 扉は鉄製で、窓には鉄格子が入っている。棟木も太いが、荒れるに任せているようだ。
 朝里学校教育発祥の地 <2010.12.14>  周辺地図
石碑 碑文
 いなりの坂近くに、「ちどり公園」があり、その中に石碑が雪に埋まっていた。近づいて見ると、「古き器に 新しき 教えを盛りし 朝里校」と彫られていた。
 裏の碑文を見ると文久ニ・三年の頃からの歴史が刻まれていた。
    朝里学校教育発祥の地
 朝里における学校教育の草創は、文久ニ・三年
の頃ニシン漁で沸く朝里浜で漁舎を仮泊所として
いた松前藩士が、付近の子供達を集めて手習を教
えたのが始まりである。
 やがて、明治二年九月戊辰の役で降伏した会津
藩士数百人が朝里浜に上陸し分散して漁家に滞在
したが、その中で漢字に造詣の深い渡辺竹八と名
乗る武士が寺子屋を開いて四書五経を教えた。
 そのうち小樽の隆盛に伴い次第に朝里の人家も
増加したので、明治九年七月漁場の親方亀谷藤次
郎が小樽郡長に教育所開設を願い出て八月認可と
なり、その秋十一月朝里村十七番地に三十五坪の
校舎を建て、東野義秀校長を初代とする朝里教育
所が開設された。それがこの地である。
    平成九年五月二十四日建立
        小樽市立朝里小学校
        開校百二十周年記念祝賀協賛会
                      堂楽 書
 冷水不動尊 <2011.6.16>  周辺地図
石碑 碑文
 旧国道5号線沿いに、場所は新光町と思うが、門柱に朝里不動尊の赤い看板が見える。中に入って行くと冷水不動尊がひっそりと鎮座している。石仏の前の石版を見ると昭和十一年九月建立の文字が刻まれている。
 並木凡平の歌碑  <2011.6.16>  周辺地図
看板
 旧国道5号線沿いに、何時も気になる看板が見えていた。札幌から来ると、何時も通り越してしまうカーブにあるので、気付けながらカーブを待つが、見事に通り越してしまう。幸い、小樽側の取り付き道路から入ることが出来た。
 看板に近づき、見ると並木凡平のことが書かれていた。歌碑は何処だろうと思って、朝里不動尊と書かれた看板の方を見ると石碑が見える。
 歌碑には「廃船のマストに/けふも浜からす/鳴いて日暮れる張碓の浜/凡平」と、碑裏には昭和十三年九月二十四日建立/昭和三十七年六月改修」と刻まれていた。
 碑文は掠れかかっていて、読みにくい。
説明板 歌碑 歌碑 碑文
     歌 人
         並木凡平歌碑について
         本名  篠 原 三 郎
 明治二十四年 札幌元村に生まる
昭和二年小樽に於いて自から口語歌のラッパ平
を唱え 口語短歌研究誌 新短歌時代 を創
刊 続いて 青空 誌の監修者として口語歌
指導の陣頭にたった
 昭和十二年十一月 十八年間勤務の小樽新
聞社を退き 趣味の 歌コップ を創作之を
携えて道内を行脚 心境の練磨に努めた
 昭和二年より同十三年の河畔時代 丘荘時
代の間に 落葉焼く山 人の子を抱く
洛傍の花 丘の秋 廃船のマスト 赤
土の丘 等の歌集を上枠した
 昭和十四年四月 室蘭日報社に聘せられて
室蘭に転住 同十六年九月二十九日 病を得
て急逝した
       享年 五十一才
       法名 釈凡耀
 菩提寺は市内 妙法華寺
 本歌碑は昭和十三年九月 門下生により建
立されたが昭和三十七年六月礎石を現在のも
のに改修した
 碑の歌は昭和二年頃の作で文字は姉の直筆
によるものである
  昭和四十五年九月二十四日
          小 樽 凡 平 会
          小樽市教育委員会
          青  空  詩  社
                 稲田水月 謹書
 亜久里苑 <2011.6.16>  周辺地図
東屋 小樽港を
 並木凡平の歌碑前には階段があり、登って行くと亜久里苑の看板の架かった東屋があった。そこからは下赤岩や小樽港が見渡せた。
 定山和尚の袈裟かけ岩 <2011.11.8>  周辺地図
2011.11.8 2012.3.22
 小樽朝里川温泉郷ゆらぎの里の朝里の名所の中に掲載されているので探してみた。
 小樽土木現業所の前に舗装道路が延びていたので辿って見ると、草生した旧道の入口の左右に大きな岩の頭が見える。向かって左側が定山和尚の袈裟かけ岩のようだが、笹薮で近づけない。雨で濡れていなかったら、藪を漕いで行くことも出来そうだが止める。
 冬に再訪すると、雪に埋もれた岩が見られた。
 定山渓線旧道の道標 <2012.3.22>
 定山和尚が造ろうとした定山渓への道の入口から、観光バスも走ったという旧道を辿って行くと、「春香〜朝里」の道標が木に打ち付けられている。スキーツアーのための道標なのだろうか。昔の、企業は地元を大事にしていたということが、この道標からも分かるような気がする。
旧道入口 標識1 標識2 標識3
 青山ゆき路の歌碑   周辺地図
<2011.11.8>
歌碑
 小樽ジャーナルの石碑めぐりは、『元市営朝里川温泉センター敷地内の山側に、小樽一の巨岩に「豊倉の/流れに沿うて/定山が/袈裟掛け/憩うた/岩顕光る」がはめこまれている』と掲載されている」が、巨岩と言う割には見付けられずにいたが、定山和尚の袈裟かけ岩と対になっている大きな岩の頭を見つける。この岩にも容易に近づけない位に立派な笹薮になっていた。岩の頭の形状が小樽ジャーナルのものと似ているので歌碑に違いないと思う。
 袈裟がけもゆき路の岩も記憶に消され薮の中といった状態になっている。非常に悲しい現実があった。
<2012.3.22>
 冬になって、再訪して見ると、岩の後ろにループ橋が望まれ、近づいてみるとやはり青山ゆき路の歌碑だった。碑文と解説のプレートを確認でき、碑文には「豊倉の/流れに沿うて/定山が/袈裟掛け/憩うた/岩顕光る/ゆき路」の文字が刻まれていた。
歌碑とループ橋 歌碑 碑文 解説
 千葉仁句碑 <2011.11.8>  周辺地図
囀に   仁
山影動き
初めにけり
句碑 碑裏
 朝里クラッセ側から取り付くと、ほたるん公園朝里」の看板があり、遊歩道を登って行くと広場に2つの石碑が佇んでいた。
 手前の石碑は千葉仁の句碑だった。碑裏を見ると、建立は昭和57年10月吉日さるるん俳句会・・・と刻まれていた。
 石塚友二句碑 <2011.11.8>  周辺地図
霏々と降る
雪の中なり
朝里川 友二
句碑 碑裏
 奥の石碑は石塚友二の句碑で、碑裏を見ると、建立は昭和50年10月吉日さるるん俳句会代表千葉仁・・・と刻まれていた。

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