浅草橋
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 蔵前工業學園之蹟 <2015.5.21> 周辺地図
 道路沿いにあるので、榊神社の石塀越しに見ることが出来る。
案内標 石碑 解説板1 解説板2
 浅草文庫跡碑 <2015.5.21> 周辺地図
石碑 解説板
 榊神社の入口に鎮座している。
 浅草御蔵跡 <2015.5.21> 周辺地図
石碑 解説板
 墨田川(右岸)に架かる両国橋の袂に鎮座している。碑陰に碑文が刻まれているが、位置が悪く読み取ることができなかった。
 横綱町公園 <2015.5.21> 周辺地図 詳細は都立横綱町公園のHPへ
 関東大震災や戦災の記録が詰まっている。
案内板 児童弔魂像 弔魂像解説板 幽冥鐘
 慰霊堂は耐震補強工事中だった。青嵐句碑もあるが達筆で読めない。碑陰を見ると「焼けて/直ぐ/芽ぐむちからや/棕梠の露」と刻まれているようだ。
幽冥鐘の由来 慰霊堂 耐震補強工事 青嵐句碑
        焼けて直ぐ芽ぐむちからや棕梠の露
これは永田秀次郎氏が大正十二年東京市長就任後まもなく遭遇した大震火災の混沌悲愴裏●●
める焦土のさ中にあって再建に奮いたつ市民の意氣に感激し 復興と題してよんだ句である
氏はのそ寛仁の風格を獨特の諸術および俳人青嵐の名によって廣く市民に親しまれたが 特に
震災當時罹災者に示した深い愛情と適切な善後措置とは永田市長の名を不動のものにした
氏は明治九年淡路島に生れ官界に國會にゆくと常に會名をはせた 昭和五年再び東京市長
に選任せられて市域の○張その他多くの業績をあげ のち二回内閣に列して重きをなし また
教育および文○の方面に力を盡したが 昭和十七年陸軍軍政顧問として南方にあるとき病を得
翌年の九月十七日東京において六十八年の生涯を閉じた いま震災三十年記念日を迎えて氏を
追慕するの念いよいよ深く ここに句碑を建ててその風と活績とを長く後世に傳える
     昭和二十七年九月一日         永田秀次郎氏記念句碑建設有志
 「追悼/関東大震災朝鮮人犠牲者」と刻まれ、副碑も鎮座している。公園の奥の片隅には公園の案板にも記載されたはいない、戦災死没者墓誌があり、墓誌には名前と年齢が刻まれている(昭和21年3月10日建立)。
朝鮮人追悼碑 副碑 副碑 戦災死没者墓誌
 その隣に、「大正大震災石原町遭難者碑」「昭和二十年三月十日設/石原町三丁目戰災死者追悼之碑」の二つが並んでいた。日本庭園には光天照地と刻まれた石灯籠が鎮座していた。復興記念館の前庭には、震災記念野外展示場があり、数々の品物が並んでいた。
石碑 光天照地 百馬力電動機 洋釘の焼塊
 
印刷機 釘の焼塊 鉄柱の焼塊 魚形水雷
 
破壊した大鉄管 鉄筋コンクリート柱 花崗岩 鳥居の柱
 花で飾られた東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑もある。キミガヨランの花を見て公園を後にする。
手水桶 自動車の焼骸 祈念碑 キミガヨラン
 旧安田庭園 <2015.5.21> 周辺地図
 庭園には南北2つの門があり、池が中心にある。
案内図 南門 沿革
歌碑 スカイツリーが
 晋堂雲南の歌碑もあるが、「●のも治●りよる草の宿/和の影月さえ別●●の秋乃暮/晋堂雲南 廣瀬羣鶴刻」と刻まれているようだが、ほとんど読めなかった。          園内からはスカイツリーも見える。スカイツリーの見える池の辺りには、スケッチをする老人が多く集っていた。
 隅田川左岸(蔵前橋から両国橋) <2015.5.21> 周辺地図
 蔵前橋から隅田川左岸を下って見る。安田庭園に立ち寄り、国技館を遠くで見て、テラスに下りてみる。「←蔵前橋6000m・両国橋250m→」の距離標識もある。テラスには右岸のようには人通りが多くは無かった。
案内板 国技館 距離標識 テラス
 壁には潮位の記録があり。台風や高潮の時にはテレスが埋没するんだと初めて気がつく。両国橋に出ると丸い形の物を載せた親柱がある。両国橋を渡りながら、スカイツリーを遠望する。
潮位の記録 両国橋の親柱 スカイツリー
 福井松平藩邸(福井中学校)跡 <2013.5.23> 周辺地図
 浅草橋西口近くの道路から少し奥まった所に、コンクリートの壁があり、その端に石碑が見えたので、近づいて見ると、石碑の中に石碑があった。googleの地図で航空写真をみたらヒューリック浅草橋ビルが、ストリートビューでは解体前の福井中学校の校舎が写っている。新旧の貴重な写真が見られた。碑文は弱々しい字体なので、年数が経てば見えなくなるのではと心配になる。
コンクリートの壁 壁の縁に石碑 石碑の中に石碑 碑文
 速水御舟生誕地 <2015.5.21> 周辺地図
生誕地 解説板
 浅草橋の高架下に看板が設置されている。
 浅草橋界隈 <2013.10.5>

 アクセス
 浅草橋駅の東口から江戸通り(国道6号線)を渡り、浅草橋方向に南下する。渡りきると左に両国郵便局があり、その南側に伸びる一方通行の道を辿る。
 国土地理院の地形図 周辺地図
 両国郵便局に並んで初音森ビルがあり、一回部分に鳥居があるので近づいて行くと、初音森神社の看板が架かっていた。玄関前には太い半分焼け焦げた柱に一部と思われる物が展示していた。明歴の大火で焼けた樹齢500年以上の「浅草御門の門柱」で、400年後の昭和36年に発見されたと記されている。
初音森神社 浅草御門の門柱 門柱の由来書 浅草御門の門柱
 一方通行の道を両国方向に辿ると、靖国通り(国道14号線)の合流地点に「旧跡両国広小路」の石碑がある。解説書を見ると、大火の後に防火帯として広小路を造ったという。傍に、復興記念碑もあるが何時の建立なのか分からない。柳橋を解説した碑文もある。
旧跡両国広小路 広小路の解説 復興記念 柳橋の解説
 柳橋の解説を見ると、ドイツのライン川に架かる橋梁を真似たという柳橋を渡る。欄干にはカンザシを模した飾りが付いているのは風流だった。渡りきると、町名由来案内板があり柳橋の解説をしていた。
柳橋の解説 柳橋 カンザシの形 旧浅草柳橋の解説
 台東区教育委員会の解説板もあり、書かれている内容は、ほぼ同じようなものだった。柳橋を振返り、神田川の左岸を辿って見る。また、町名由来案内板「柳橋」がある。石塚神社の境内にも町名由来案内板がある。
旧柳橋の解説 柳橋を振返る 旧浅草柳橋 石塚稲荷
 篠塚稲荷、神田川の屋台船を見ながら浅草橋を渡ると。浅草見附跡の石碑がある。
篠塚稲荷 神田川の屋形船 旧浅草橋 浅草見附跡
 浅草橋から神田川の左岸沿いをを辿ろうとすると、川沿いの道は無くなり、ビルの谷間で上流に向う。町名由来案内を見ると、左衛門橋があるので、渡ってみると、まだ、屋形船が見られた。
浅草橋を 町名由来案内 左衛門橋 橋から
 千代田区町名由来看板「東神田三丁目」が出てくる。何時の間にか台東区から千代田区に入ったことになる。美倉橋を渡りながら神田川の上流を見ると屋形船は全く係留されていなかった。
 ここで、買い物中だった愛棒と娘に合流して、そば屋で昼食をする。1000円のソバセットを注文する。麺もてんぷらも多く、満腹になるが、このそば屋、昭和時代のように紫煙がくすぶっているのが気になる。すすりながら食べるソバと一緒にタバコの煙を吸い込むので、味が台無しだった。何とか昼食を終えて、そば屋前の銀杏岡八幡宮を覗いて、由来書を走り読む。
旧町名案内 神田川の上流から 銀杏岡八幡宮 由緒書き
 お登りさんの目当ては、スカイツリーを見ることだった。とにかく、隅田川を目指すが、隅田川は高い塀が延々と続く。ようやく、階段のある所を見付けて登って行き、登り切ると、お目当てのスカイツリーが見えていた。感動して記念写真を撮す。川辺に下りると隅田川右岸沿いに遊歩道が延びていた。
隅田川の上がり口(大×) スカイツリー 記念写真(大×) 隅田川右岸
 遊歩道の要所要所には安藤広重の江戸百景が飾れれていた。上流を目指して遊歩道を辿ると、サラリーマンが隅田川やスカイツリーを見ながら弁当を食べている。私一人で、上流を目指すので、足早になる。何とも黄色で派手な蔵前橋が見えて来るが、スカイツリーは逃げるように遠のいて行くようだ。蔵前橋の袂に上がると、隅田川テラスの案内板がある。どうやら対岸の方が遊歩道は長そうだ。
江戸百景 スカイツリー 蔵前橋の袂へ 案内板
 蔵前橋の袂には解説板や首尾松の石碑が建ち並んでいた。
首尾の松 蔵前橋の解説 首尾松の石碑 首尾の松の解説
 蔵前橋からのスカイツリーは全く絵にならず、引き返す。途中江戸百景を撮そうと、階段を駆け上がったのだが、何故か躓いて転倒する。デジカメをコンクリート面に擦りつけてしまい、レンズがズレてしまう。レンズの収納もで出来なくなり焦るが、どうせ壊れたのだからと思い手で回して見ると、何とか戻って収納も出来るようになる。写真がまともに撮せるか心配だったので、スカイツリーを撮してみた。
スカイツリー 江戸百景 スカイツリーを スカイツリーを

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 二人の散歩路記録
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