青森の石碑
=写真をクリックすると大きなサイズになります=
青森市聖徳公園 6月25日 <2017(H29)年> 周辺地図
 聖徳公園内に石碑群があるが、雑然として分かり難い。園内に解説板が設置され、石碑の名称や位置が示されてはいるが、実際の石碑の名前とは違う表現もある。
公園から海を 解説板
 
 彌富破摩雄の歌碑
歌碑
 碑文には「●こし●に/つたはりゆか●/希ふゆのち/明治帝の/大御跡所/元皇子傳育官正四位彌冨破摩雄/謹詠傳書」、碑陰には「建立奉仕者代表/棟梁鬼虎之助/石影齋藤賢造」碑側には「碑石発見顛末」が刻まれていたが、夕暮れなので良く見えなかった。建立年月日が刻まれていないということは、当時の人たちには誰にでもわかる年月日だったのだろう。
 
 海の記念日發祥の地碑
石碑
 碑文の横には運輸大臣大野明書と添えられている。この碑の建立年月日は探せなかった。
 海の記念日の碑
石碑と錨 碑文
 錨のモニュメントと伴に石碑がある。碑文は銅板に活字体で白く浮き出ているので読み易い。
 明治九年七月十六日、明治天皇東北ご巡幸の帰途
明治丸で青森港を出港、函館を経由横浜港に安着さ
れる。
 ときに七月二十日------。昭和十六年、この日を
海の記念日と定める。
 このたび、海の記念日五十回を記念して東京商船
大学のご好意により明治丸の主錨を複製し、海の記
念日発祥の地であるこの地に展示し、その由来を後
世に伝えるものである。
          平成二年七月十六日
                 青森港管理事務所
                 青森港振興協会
 景仰聖コ塔
石碑(裏側) 正面
 石碑を見た時には何処が正面か分からず一回りすると塔が四角柱で、景仰聖コと刻まれた面が正面、銅板の由来書が嵌め込まれている方が裏面と分かる。
 側面には長く文字が刻まれ、その下にライオンの頭が嵌め込まれいる。
 改めて、正面に回って碑文を見るが、何方が書かれたのかが分からない。
向かって右側面 向かって左側面 ライオンの頭 由来書
向かって右側面の碑文
明治九年七月十六日此埠頭ヨリ明治丸ニ
乘御凾館ヘ御渡海遊バサル
元帥海軍大将伯爵東郷平八郎謹書


向かって左側面の碑文
明治十四年八月二十九日此埠頭ヨリ扶桑艦
ニ乘御同九月七日凾館ヨリ迅鯨艦ニテ著御
御上陸在ラセラル 陸軍大将一戸兵衛謹書

裏側の由来書
明治維新ノ鴻業成ルヤ 天皇ハ
全國御巡幸ヲ思召立チ給ヒ我ガ
青森縣ニハ明治九年七月同十四
年八月及九月ノ三回鳳輦ヲ駐メ
給ヒキ嗚呼東奥外濱ノ民親シク
龍顔ヲ拜スルコトヲ得シハ洵ニ
開闢以來ノ事ニシテ亦聖代ノ餘
澤ト謂フベシ殊ニ此ノ埠頭ハ當
時二回御上船且一回御上陸アラ
セラレシ所ナリ後年此ニ聖蹟ノ
堙滅センコトヲ憂ヒ 今上天皇
御即位記念トシテ茲ニ建碑ノ議
起リ今年ハ九月ノ御上陸ヨリ恰
五十年ニ當ルヲ以テ其ノ完成ヲ
期セリ事聞エルヤ官民翕然トシ
テ之ニ賛シ特閑院宮殿下ハ畏
クモ御題字ヲ賜ヒ東郷元帥一戸
大将亦各揮毫ノ労ヲ取ラル今ヤ
工ヲ竣フ乃其ノ由来ヲ記シテ以テ
永ク後世ニ傳フ
  昭和五年十一月三日
  元皇子傳育官
  弘前高等學校教授彌富破摩雄謹撰書
 海の日50周年の碑
石碑 碑文
 碑文が掠れてしまっている。全文を解読するには、至らなかった。碑文の刻みの技術が伝承されていないように感じる。
 碑文には、平成二年七月十六日の文字が見える。
 明治九年7月十六日●明治天皇は浜町埠頭から御乗船●
七月二十日横浜港に安着された●●●●●●●●●は●
 本市は●こに碑を建立して聖徳公園を●●●●園は●●
昭和十六年その日を海の記念日として海●思想の●揚を●
図ってきたが●今世界は●ルー●より●ショシ●●を指向
し●青森市にもウォーターフロント●●●見る●●●●を海
を侮●者に栄光はなく●海の未知に挑む者は●を●れ●
は●つを●い●生命の母なる海よ●共存を望●者に●大●
れと衷心●●ってやまな●●今●五十年の節目に●●●●
公園を拡充し●新たに碑を刻んで港運の発展を願●る
ものである
   平成二年七月十六日      記念碑建立期成会
            青森港振興協会  会長坂上●●郎
            青森港湾研究協会 会長鈴木●●正
            青森建設協会   会長新村●次郎
 
 皇太子殿下御降誕記念碑
石碑
 碑陰に「昭和九年九月十二日/青森市立學校/兩師範附属小学校児童並職員一同」と刻まれている。
 
 明治天皇御巡幸御記念の看板
看板
 板の看板に書かれている文字は掠れてはいるが、まだ読めた。
明治天皇御巡幸御渡海記念
として昭和五年十一月に
「景仰聖コ」の石碑が
建立され、これを寿き
昭和天皇から「銀杏樹」
高松宮殿下から「モミジ」
青山御所から「ツツジ」
それぞれ贈られ記念樹
として植栽した。
 
 聖徳公園の由来の碑
石碑 碑文
 碑文は楷書で刻まれているので、読み易い。
  聖徳公園の由来
この公園は昭和五年八月明治天皇
御巡幸御渡海記念碑建設会によつ
て設置され完成と同時に青森市に
その一切を寄附されたものであり
ます。市は昭和六年七月明治天皇
ゆかりの地としてその史蹟保存の目
的から名称を聖徳公園とし一般に
公開してきましたこの地先はかつ
て青森桟橋のあったところであり
明治天皇が明治九年七月同十四年
八月および九月の三回奥羽北海道
御巡幸の際この地より御乗船御上
陸された由緒の深いところであり
また青森港の昔を後世に伝え物語
るに足る思い出の深いところでも
あります青森開港以来三百四十有
余年沖荷役時代からいまは海辺が
埋立てられ臨港地区の整備港湾施
設の拡充によって大型船舶の接岸
荷役に替わり港勢の発展隆昌は昔
日の比ではありませんいままた臨
港鉄道線路を施設するの必要にせ
まられ記念碑等の施設を再び移転
するの余儀なきに至りましたここ
に市民の思い出深い聖徳公園をこ
の地に移し再現をはかり遠く明治
の時世をしのびかつありし日の青
森港の海岸線を永遠に記念しあわ
せて港勢のますます盛んならんこ
とを希念するものであります
 昭和四十三年七月
          青  森  市
 
 明治天皇御渡海記念塔
石碑
 銅板の碑文の下には、帆船の浮かんだ海のレリーフが嵌め込まれている。レリーフも銅板のようだ。
 碑陰には、銅板に筆字で書かれた文字が刻まれているが、所々解読不能だった。
碑陰には
青森市大町青年團は昭和四十三年九月
創立せられ其の行事の一として●区
聖コ公園の清掃に奉仕●まれりと此の間
天皇の御恩●●をこれ一●の念を發し●●
感激の思いを●め紀元二千六百年の記念
事業として明治天皇御渡海記念塔建設
を企画しこれに要する経費は一切團員の
勤労所得を以てせん事に決せり爾來その決定を
念とせしが茲に文展審査員三國慶一氏の
考案による塔完成して團員の●●志貫徹
する事を得たり何の幸慶●此●●如ん今や
本團は發展的に解消して大日本青少年團と
改称する●●●将来一段の●●奉孝公の
枕を盡さん事を誓ふ
  昭和十七年八月 正四位彌冨破摩雄謹書
 明治天皇青森御乗船竝御上陸桟橋址の碑
石碑
 碑側に「史跡名勝天然記念物保存会ニ依リ史跡ニシテ/昭和拾貮年四月 文部大臣指定」と刻まれている。
 
 紅葉 高松宮殿下御寄贈
標柱と樹木 紅葉
 プロムナードを歩けば、道端に標柱とモミジが見えて来る。
 
 青森県歴史街道の図碑
 
石碑
 吉田松陰の足跡を記した「青森県歴史街道の図」が青森県歴史の道整備促進協議会によって建立されている。大きな写真は青森県庁のHPにあります。
 
 桂月文学碑
歌碑 碑陰
 碑文には右側に白地に「大町の桂の井戸の/水を清みさやかにやどる/秋の夜の月/大正十年十一月七日/桂月」という句が刻まれている。
大町の桂の井戸の
水を清みさやかにやどる
秋の夜の月
大正十年十一月七日
桂月

 青森県にては、桂井旅館を定宿とし
たるが、大町という処にあり、その町
名屋号は、余の姓名、雅号と下の一字
が異なるだけ也、一配達夫余に宛てた
る郵便をもち来たり、小首をかたむけて、
こんな人が本当にあるのかと方問へりと
て、宿の番頭笑えり。
   (紀行文 陸奥の海岸線。
          四章 竜飛岬 より抜粋)
青森県文化観光立県宣言、並びに
青森市制100周年と、大町桂月来県
90周年を記念しこの碑を建立する。
 平成10年11月7日
    桂月文学碑建立協賛会
  (表刻の歌は桂月翁の直筆書より
   採字転写したものである。)
青森市街
 大井蒼梧の生い立ち 6月25日 <2017(H29)年> 周辺地図
標柱と樹木
 青森市のリッチモンドホテルの一角に、設置されている。
 
城ヶ倉大橋  周辺地図
 青森県知事木村守男歌碑 6月26日 <2017(H29)年>
 紅葉で有名な所で、大橋の両サイドに駐車場があるが、城ヶ倉温泉側の駐車場に車を停めると、歌碑がある。碑陰には、道路整備の顛末が刻まれているが、掠れていて読み難い。歌碑は平成7年10月27日に建立されたようだ。
大橋 駐車場 歌碑
城ヶ倉
燃ゆる紅葉の
山脈に
雲行き交ひて
空晴れ渡る
青森県知事木村守男
 城ヶ倉渓流を跨ぐこの道路は津軽地域と南部
●●の交流機会の拡大を促す●上東西横断道路に
●●●●●●昭和49年●●●方道黒石十戸線
の道路改良事業として着手した。この後昭和57
年●●一般国道394号に昇格し、22年の工期
●●意見●の工事費を要して完成した。
 この東西横断道路の開通により、本県の産業
経済、文化、観光等の大きな躍進を期待するもの
である。
           平成7年10月27日
                青森県知事 木村守男
 
 大町桂月文学碑 6月26日 <2017(H29)年>
文学碑
 小さな文学碑の中に、長文が刻まれている。
    嫦 娥 く ら ( 城 ヶ 倉 )
 天候悪きが為に大岳に上る能はず。時間を持たぬ未醒
画伯の神代氏と共に失望して山を下るを、途中まで送り
別れて嫦娥渓を見物す危険なればとて、勇者のみをえら
び、郡場博士導をなし、鹿内氏輜重を司どる。崖高く、
谷深く、緑葉殆ど天を掩ひつくさんとす。
   谷青葉の合ひ兼ねる空や雲走る
 聞きしにもまして●危険なり。急湍を●度も渡渉せざ
るべからず茂より茂みへ●はざるべからず。●崖を蝸付
して過ぎさるべからず。郡場博士はあ一向平気にして、好風
景にあふごとに撮影しては一行を導き、●捷にして、余
裕綽々たり。この機の●●ともいふべきは、安山岩お柱
状をなせるにあり。左右の断崖の下、幾に延びて、犬牙
錯綜せる所、石柱列をなし、幾重にもかさなりて、造花
の竒を弄すること茲に倒れるかとおどろかるゝばかりな
り。石柱くづれてかさなり合へるところより、鹿内氏四
寸角の七尺ばかりなる石柱を取り出して肩にす。如何に
力強ければとて、宿まではもちゆかれまじと思ふ程に、
奔湍の上に至り、巌へかけて、自らわたり、予をも渡ら
しめて、微笑す。すつるにすてかねしに、はからずも利
用することを得たるなり。
 今一つこの渓の呼び物は獅子巌なり。弧●渓中に立ち
て如何にもその名に負かず。灌木自らたてがみとなりて
渓風になびき、渓声代代はって獅子吼をなす。嫦娥渓の区
域、凡そ一里、沼多く、お花畑多き八甲田山も、この渓
に気骨を発揮して、一生を成圧するなり。
    大正十一年花の八甲田山 大町桂月
嫦娥くらの景は
  六万石にあり
 入江のふち磁石のふち

   大正十一年八月十八日桂月
     大町桂月文学碑 碑陰
 大町桂月、明治二年(一八六九)高知市生まれ。本名芳衛
桂月と号した。明治、大正期に評論、美文、新体詩、紀
行文学等、幅広い分野で活躍した文人である。明治四十一
年(一九〇八)八月はじめて十和田湖に遊んだ桂月は、その
絶景に感嘆魅了され、翌年「奥羽一周紀」として雑誌「
太陽」に激賞、天下に十和田湖を知らしめた。
 桂月は大正十年十一月、十五年ぶりに十和田湖、八甲田
山を訪れて以来蔦温泉を拠点に県内各地の景勝地、深山幽
谷に山水探勝の旅を重ね、美文をもって世に紹介した。
 大正十四年(一九二五)年三月には家族共々蔦温泉に本籍を
移し、この地を終のすみかとしたが、同年六月十日病の
ため新緑が美しく映える蔦温泉の居室で満五十六歳の生
涯を閉じた。
 桂月は十和田湖、八甲田の自然と蔦の仙境をこよなく愛
するとともに自然保護の必要性を強く訴え、自生する一
木一草も採ってはならないといい、在るがままの美しい
佇まいと山水の景観を愛し続けた。十和田観光開発に功
労の有った武田千代三郎、小笠原耕一と共に「十和田湖の
国立公園期成会趣旨書」の請願文を起草し、その現実を願
望した。
 世界に冠たる十和田湖は八甲田山と共に、昭和十一年
(一九三六)二月に国立公園の指定を受けて今日の繁栄の基
礎となった。
 以来六十年記念の年にあたり桂月の遺業と心が末永く
語り継がれることを願い、ゆかりの地に文学碑を建立す
るものである。
    平成八年十月吉日
          青森県知事 木村守男
 
 城ヶ倉渓流の碑 6月26日 <2017(H29)年>
遊歩道案内図 閉鎖された入口
 城ヶ倉渓流沿いに2.051kmの遊歩道があったようだが、閉鎖されている。大町桂月の世界が体験できる渓流が閉鎖されているのは残念だ。
《城ヶ倉渓流について》
 城ヶ倉渓流は、十和田国立公園、八甲田山系の大
岳、櫛ケ峰、駒ケ峰に源を発して、陸奥湾に注ぐ2
級河川堤川(流域面積278.9km、流路延長32.
6km)の上流部、河口より約22.8km、下湯ダ
ムに位置する北八甲田屈指の渓流である。
 城ヶ倉の地名は、古くは「嫦娥倉」といわれてお
り、嫦娥は「月」、倉は「崖」という意味で、この
渓谷の厳しい自然美を端的に表現しており、断崖や
奇岩、怪岩にせかれてほとばしる川の流れは、男性
的かつ野性的な躍動美にあふれている。
 大正11年8月18日この地を探勝した明治、大
正期の文人大町桂月は、渓流の美しさを紀
行文「花の八甲田山」の中で、賞賛すると共に「
嫦娥倉」として一節を残し、数百の歌を詠んでいる。
 渓流は、延長2.1km、谷底巾150〜200m
高さ200mのV字渓谷内を急峻な流れげきざみ、
奥入瀬渓流、黄瀬川渓流と共に十和田国立公園三大
渓流にあげられる渓流美を誇っており渓流の内、上
流部約1。0kmは巨岩、奇岩の断崖が屏風のように
廻り、河床には20tを超える転石が重なり合い独
特の景観を形成している。
 下流部約1.0kmの両岸には石英安山岩の柱状節
理がするどく、いく重にも重なりあって連立してお
り、材木岩と呼ばれている。その断面は3角〜8角
とさまざまな柱状をなしており、その一本一本は細
かく規則正しく、特にこの付近では5角や6角が多
いことから、別名六方石とも云われている。又、渓
流中には白銀の流れ、小阿修羅の流れなどと名づけ
られた渓流が岩をかみ周囲の岩景と見事な調和を
展開している。
 渓流の両側には、アオモリトドマツ、ヒノコマ
ツ、コメツガなどの針葉樹とブナ、ミズナラなど
の広葉樹がバランス良くうっそうと生い茂り、新
緑の美しさもさることながら特に紅葉期のながめ
がすばらしく訪れる人々の目を奪う
 木の間隠れには、千条の滝、冬栄の滝、夫婦の
滝など、種々の滝が見えかくれし男性的な渓流
景観とは対照的に女性的な優しさを表しており、
一時のやすらぎを与えてくれる。
 この変化に富んだ渓谷は絶好のハイキングコー
スとして多くの人々に親しまれており、今日では
下流国道394号旧道城ヶ倉橋入口から上流堤川
5号砂防堰堤間に2、051mの渓流歩道が整備され
ており、融雪期、荒天時を除き6月中旬から11
月上旬にかけて午前9時から午後4時迄利用する
ことが出来る。


↑クリック大
 
田舎舘村
田舎舘村役場 6月26日 <2017(H29)年>  周辺地図
 栃ノ海晃嘉顕彰碑
石碑
 役場の前庭に鎮座している。
 
 行啓記念碑
石碑 副碑
 副碑に詳細が刻まれているが、2014(H26)年9月25日に田んぼアートを見に来られたようだ。
 
神明宮 6月26日 <2017(H29)年> 周辺地図
 山谷清吉氏頌徳碑
石碑
 碑陰をみると大正3年に建立されたようだ。 
      徹  輝
本村神社神明宮往時境内陜隘設備不完社堂
藤井秀世教導能勗氏子山谷豊太郎寄附社地
擴其境域住民亦感奮築社殿立資本爾夾毎歳
祀典無懈矣抑本社祭 天祖天照皇大神而無
格社脩祭事村民之所不安也大正四年十一月
 今上天皇陛下擧即位之大禮村民謹表祝賀
之意熱誠悃願欲仰村社以報海岳之洪恩輝先
神事之國體矣官世諒其衷情翌年十二月擢列
村社今●村民相謀銘碑以傳之後昆即所以欲
遵報本反姑之典禮明敬神愛國之大道也
  大正三年十二月七日 正七位勲六等箕輪田禮作撰
 忠魂碑
石碑
 昭和二十五年八月三十日の光田寺村遺族会が建立。
 力士の碑
石碑
 左が「東京力士/大関一ノ矢藤太郎之碑」真中が、「東京力士綾若鉄蔵之碑」、右が、神明宮の創立功労者の碑にようだ。
田舎舘村立老人福祉センター喜楽荘 6月26日 <2017(H29)年> 周辺地図
 聖戦從軍之碑
石碑
 碑文に添えて、国務長官防衛長官●田甲子七書と刻まれている。
 碑陰は欠損し読めないところもあるが、従軍者の思いが刻まれている。
田舎舘村聖戦從軍者一同
相謀り報恩感謝の至誠を結集
し明治百年記念に此の碑
建てます 希くは戦友諸賢の
魂魄此の碑に宿り永久不滅●
国の栄光に映え住みよい村●
灯台たらんことを祈念いたします
 昭和四十三年十一月三日
    田舎舘村郷友会
 
 舘協同組合碑
石碑
 碑文には大正十四年七月十五日の文字が刻まれているが、他は掠れていて殆ど解読できなかった。
 碑陰には、当時の関係者の名前が刻まれている。
 福祉の碑
石碑
 碑文には「民生委員法六十周年記念/昭和五十二年十一月吉日/田舎舘村民生委員児童委員協議会/建立」と刻まれている。
 碑陰には「仁以盡人/国務大臣田沢吉郎」と刻まれている。
 故中山泰秀氏顕彰碑
石碑
 逆光で何が刻まれているのか分からないまま写真を写す。
●●大臣水野錬太郎閣下ニハ大正十二年七月
十九日模範村視察トシテ來村セラレ役場楼上
ニ於テ村長中山泰秀氏ヲ引見シ親シク村治百
般ノ施設ヲ聴収治績ノ優良ナルヲ稱揚激勵セ
ラレテヨリ二十周年ヲ迎フ
今ヤ大東亜戦争完遂ノ為メ全村民一致協力必
勝ノ信念ヲ堅持シテ職域奉公ニ挺身シ得ルモ
ノ之レ畢意スルニ中山村長在職中刻苦精勵以
テ村是百年ノ大計ヲ樹立シ村民ノ嚮フ〇ヲ明
示セラレタル結果ニ外ナラス
●ニ其ノ徳望ヲ慕ニ其ノ功績ヲ記念シテ永ク
後●●垂範タラシムベク此ノ碑ヲ建設ス
  昭和十八年七月十九日 光 田 寺 村
                 光田寺農會
 故中山福太郎氏顕彰碑
石碑
 逆光で何が刻まれているのか分からないまま写真を写す。
故中山福太郎氏は安政三年七月二十七日
光田寺村大字東光田寺字稲田三十二番一号
中山左吉氏の長男として生まれ明治二十
二年五月三十日齢三十五歳にして村制施
ふこと二十ケ年又引續き村會議員たるこ
七十四ケ年前後實に三十四ケ年の永きに
亘り●●生涯を舉げて村治に注ぎ不断の
●力と執意以て克く民福を進め自治發
展の基礎を作り後進の道を啓かれたるは
その功績洵に大である仍て茲に村政施行
六十周年を迎えるに當りその徳望を慕●
その功績を記念して永く後進の垂範●●
べくこの碑を建立する
  昭和二十四年七月十九日 光田寺村
黒石市
稲荷神社
 忠魂碑 6月26日 <2017(H29)年>  周辺地図
副碑と主碑
 美幸公園横の稲荷神社境内に鎮座している。傍に、忠霊の副碑があり戦死された方々のご芳名が刻まれている。碑陰は見忘れたので、建立年月日は不明。
 
美幸公園
 シベリア強制抑留平和記念の碑 6月26日 <2017(H29)年>  周辺地図
記念碑
 精魂鎮魂シベリア強制抑留平和記念の碑は碑文とその下に鎮魂歌が添えられている。
    碑   文
強制連行されし者(一九四五年)
    五十九万四千名
不具廃疾となりて
   送還されし者
     四万六千
異国の土と化せし者
       六万数千余
  その総労働日
     三億日
 戦場におとらぬ
    犠牲をみつつ
我等ソ連抑留者は
  賠償に代る
    強制労働に耐え
 任務を全うして
       生還した
 平成三年五月
  全国抑留者補償協議会
   会長 斎藤六郎
 全抑協黒石市支部一同之建立

 シベリアに倒れし兵士に
 捧ぐ鎮魂の歌
立木も凍るシベリアに
切り倒したる幾十本
積み上げたるや幾立米
魂魄ともにやつれ果て
あゝ痛恨はてなん
       シベリアに
戦い止みて悲しくれ
昨日に変る?圄の身
たゞ一片の黒パンに
疲れし体いといつゝ
あゝほゝに流るる涙

林の向こうに煙る火は
昨日ねむりし友やく火
何時の日かえると口くせに
無念の涙流しつゝ
せめて供えん女郎花
         精人
?は□の中に上にハ下に土
 
美幸公園奥  周辺地図
広場
 美幸公園の奥の橋を渡ると小高い所に広場がある。その広場に石碑群がある。
 歌碑 6月26日 <2017(H29)年>
歌碑
 碑文は達筆で読めないが、「●●/浦の●林に●●●●/磯の思/●山磯●●/●●咲きて●●」の文字が刻まれているようだ。
 
 武讚の碑 6月26日 <2017(H29)年>
石碑
 急いでいたので碑文や碑陰をじっくりとは見ていないので、不確定な部分がある。
第二第七第八師団分●両軍連日
對杭砲謦震天一進一退各●七二各
聖上駐 蹕炸此統裁之畢會諸将
講評其戰状賜●以●之書大正
四年十月二十三日也
   正三●●●●
   正三●●●●
 忠烈の碑 6月26日 <2017(H29)年>
石碑
 
忠烈之碑  東宮侍講正四位勳三等文學博士島毅撰
我邦古來尚武成俗中代禪學以錬心膽儒ヘ以講人倫有事則義勇奉公不顧
一死謂之武士道近世更用泰西兵制武器強國之實情矣是以明治甲辰乙巳
之役興露國交戰獲未會有之大勝而強國之名@躍于四海萬國矣此役也陸
奥南津輕郡黒石町從軍者二百五人大半屬立見師團長轉戰于K●臺奉天
間其餘攻旅順北韓樺太A?彈丸者十七人傷于暑寒不起者四人負傷為
癈兵者三人填者本町尚武會員胥謀欲建碑以施其中烈刻姓名于背請第
軍司令官男爵奥保〇篆其額属余銘其面余謂武士道發於大和魂蓋我大
和軍國〇立東洋一種族之所繁殖鐘秀霊清潔之氣爲魂魂剛毅不屈以持己虚
沖公平以取〇長集大成武士道4四海萬國所絶無也其強名炳耀亦B矣而死
于此役者最忠烈豈可不表彰之以為後代C鑑乎哉乃作銘日
   我有國賓   日武士道   一死報國   國光皎皎
   英靈不滅   赫在蒼昊   千古萬古   冥護國寶
                                 伊藤明時書
@はさんずいに丙、Aは死の上に冠が、Bウ冠にタの下に一、C亀の旧漢字
〇は見えるけれども私が読むことのできない漢字。
 秋田雨雀先生歌碑 6月26日 <2017(H29)年>
石碑
 碑陰には誕生七十年記念と刻まれている。
み  つ  ば  ち  の
巣   ば   こ   に
わ  れ  は 耳 あ
てゝ は る か に も
            きく
春 の お と ず れ
        雨雀〇
一九五三、一〇.一七
 青雲の碑 6月26日 <2017(H29)年>
石碑
 碑陰には「明治百年記念/●つそう●会/名前・・/昭和四十三年十月二十一日/建立」と刻まれている。
 青雲の碑 6月26日 <2017(H29)年>
石碑
 碑陰には「明治百年記念/●つそう●会/名前・・/昭和四十三年十月二十一日/建立」と刻まれている。
 
 加藤宇兵衛翁銅像跡の碑 6月26日 <2017(H29)年>
石碑
 
 
弘前市
 魚鳥供養塔 6月26日 <2017(H29)年>  周辺地図
石碑
 弘前市の最勝院の隣にある八坂神社の境内に鎮座している。

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 二人の散歩路記録<
 2017年6月25日(日)曇り 26日(月)晴れ