劉連仁生還記念碑(標高25m) 

 アクセス
 道道81号線で当別町へ向うと、左手に若葉公園がある。カーブを曲がり送電線をくぐると、左側に入る道がある。途中赤信号の点灯している道道527号線と交わる十字路を渡ると左側にある。
  国土地理院地図 周辺地図
=写真をクリックすると大きなサイズになります=
 何時も何気なく通っている畑の一角に、石碑があるが何の記念碑だろうと思っていた。今日は山の帰りだが、まだ、時間が早かったので車を停めて見る。見ても何の碑なのか分からないので、碑文を見て、びっくりする。13年近くも一人で、厳寒の地の山中で暮らしたなんて、とても考えられなかった。戦時中とは言え、日本人が集団ヒステリックになってしまい、随分と惨いことをしたんだと今さなながら思う。
石碑 碑文 石碑の内部
 碑文を読んだ後、石碑の内部を見て、隅にあるッ円い石が人に見えて、同時に、当別町の方々の温かみが伝わって来た。
 改めて、平和の尊さを知る。 
劉連仁生還記念碑
         題字 当別町長 泉亭俊彦
 劉連仁氏は、一九四四年中国山東省から連行され、
沼田の明治鉱業で過酷な労働を強いられていました
が、一九四五年七月にこの炭鉱を脱出しました。
一九五八年二月八日、当別の山中で穴居していたと
ころを発見され、翌九日、保護されました。強靭な
意思と生命力により、実に十二年と七か月の逃亡生
活に耐え、生還を果たすことができました。
 時を経て、発見者の袴田清治氏、保護にあたった
木屋路喜一郎氏らの招きにより、一九九二年、一九
九五年、一九九八年の三回にわたる氏の訪町が実現
しました。この交流の中から日中両国の友好と平和
への願いをこめた記念碑が生まれました。
二〇〇〇年九月二日、劉連仁氏は八七歳の生涯を閉
じました。
二〇〇二年九月一日、ご子息の手によって碑は除幕
しました。
 碑は彫刻家丸山隆氏の遺作でもあります。御影石
の原石をもちいて、劉連仁氏の苦難の穴居生活をみ
ごとに象徴しています。
    二〇〇二年九月一日
       劉連仁生還記念碑建立実行委員会

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 二人の散歩路記録
 2010.7.14