狩勝峠(644m)

 アクセス
 狩勝国道(38号線)の南富良野町と新得町の境界にある峠を目指す。
  国土地理院地図 周辺地図
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 峠の駐車場から横断歩道を渡って展望台へ向かう。階段を上がると石碑がバラバラと建っている。「日本新八景狩勝峠入選功労者顕彰碑」「十勝小唄」「狩勝峠」の碑が並んで建っている。
見晴台へ 顕彰碑 十勝小唄 峠の看板
 「日本新八景狩勝峠入選功労者顕彰碑」の碑文は黒っぽい銅版に胸像を伴ったレリーフとして、造られているので、物凄く読み難い。判別できないところもあるが、読んでみると随分と古い昭和2年の話しだった。裏には何も書かれていなかた。十勝小唄の碑は後回しにして、狩勝峠の碑に回り、裏に書かれた碑文を見る。狩勝峠の命名の話しは明治時代で、狩勝峠からの眺望はロッキーやウラル山脈のそれに相当するようだ。
 日本新八景狩勝峠入選功労者顕彰碑
               坂井辰吉
    運動費を惜しまず宣傳戦に努力の限りを尽
    した八景戦に見事入選の栄をかち得た平原
    美狩勝峠はこれに超然として  否運動や
    宣傳等によって動かさるべき性質のもので
もなくまた平原美としては確に他を數等抜いてゐ
るとの確信を有してゐたからであり運動や宣傳の
如き方法を知らなかったのでもある。兎に角かヽ
る他に比し冷淡極まる狩勝峠が入選したのは軌跡
的といはれようが實際の値が認められたのである。
▲それにしても人口希薄の十勝が約十四萬の投票
を入れ得たのは大努力とせねばならぬがこの●●
努力に對して忘れる事の出来ぬ人に帯廣商工會議
會頭坂井辰吉氏がある▲氏は實際に狩勝峠投票のた
ためには寝食を忘れて奔走し帯廣神社に日参して祈
願しその成功を期してゐたので入選の報を耳にす
るやその夜は一睡もされずに喜んだといふのも決
して無理ではない。

   昭和二年十月三日の十勝毎日新聞から
  狩 勝 峠
 この峠は明治四十年九月に根
室本線布線に伴なう連絡線といつ
て切り拓かれたものであり十勝
と石狩を結ぶ重要路として整備
が加えられ現在国道三十八号線
として道央を結ぶ重要路線とな
っている。明治二十九年北海道
鉄道部長田辺明郎博士により狩
勝峠と名付けられ昭和二年大阪
毎日 東京日日両新聞社が全国新
景勝地を募ったときから日本新
八景のひとつとして挙げられ広
く親しまれている。ここより見
る十勝平野と遠く大雪阿寒の山
々までの展望を米国の旅行者ロ
イテル通信記者HCマンテー氏
は米国のロッキー山脈ソ連のウ
ラル山脈を越える峠に匹敵し世
界の三大展望のひとつと云って
も過言ではないと紹介している。

  昭和五十三年五月
 音更町十勝川温泉観光協会
 最後に、真ん中の俗っぽい歌碑を見る。十勝小唄は一度も聞いたことがないが、十勝毎日新聞社の初代社長は随分、くだけた人のようだ。
 十 勝 小 唄

ラン ラン ラントセ
      カネガフル
 トカチノヘイヤニ
      カネガフル
狩勝峠で東を見れば
        
ただぼうぼう
 雲か海かや只茫々
十勝平野は
    
はて
    涯しもしれず
あれさ日本一豆の国

 十勝毎日新聞社
 初代社長 林 豊洲 作詩
      小松教祐 作曲
      東原翠邦書
建立の由来
「十勝小唄」の作者故林豊洲氏は大分県臼杵市の
出身 中央大学に学び大正八年(一九一九年)十月
開拓途上の帯広町に十勝毎日新聞社を創設以来郷土
紙として発展今日に至っている
 林豊洲氏は常に新聞を通じ十勝の産業文化の
向上 特に観光開発に努め然別湖糠平富村牛
佐幌岳地帯の大雪山国立公園の編入狩勝峠の日本
新八景の入選十勝川温泉の発見振興などに貢献した
 昭和二年(一九二七年)春林豊洲氏は郷土の観光と
物産を詠み入れた「十勝小唄」を自から作詩当時としては
珍しいレコードに製作 これを踊りに振り付け広く
十勝の紹介宣伝を図った この「十勝川小唄」の普及に
より郷土の観光と産業は一層伸展をみ「十勝小唄」は
益々郷土の人々に愛唱されている
 よってここに林豊洲氏の功績を賛え「十勝小唄」
作詩五十周年を記念しゆかりの地「狩勝峠」に歌碑を
建立 永く後世に伝えるものである

 昭和五十一年(一九七六年)十月
 十勝小唄歌碑建立期成会
     会    長 平 野 栄 次
     実行委員長 萩 原 信 一
     帯広市・新得町ほか管内十八カ町村
     役 員  賛同者一同
           柴田恵山書
 ようやく、展望台に上がると、十勝平野は霞んでいるので、山側を撮す。桜山、佐幌岳、前佐幌岳、ニペソツ山、ウペペサンケ山、西ヌプカウシヌプリ、東ヌプカウシヌプリ、目の前の三角点:南新内570.4m福山の盆地が一望される。
                    ←大
桜山 佐幌岳 前佐幌岳  ニペソツ ウペペサンケ 東西ヌプカウシ 南新内570.4m
 駐車場方向を見ると、天然の筋雲と飛行機雲が交叉して×雲になっていた。隅にある狩勝峠の看板に歩み寄る。看板が立っているからはビューポイントなんだろと、平野を見下ろすと、平野の中に、白い崖が連続しているところがある。屈足ダムの斜面だろうか。
 峠の山側に、石碑が見えたので、反対に下りて見る。良く刈られた芝生の片隅にHGフライトエリアと書かれた看板が立っていた。崖側にはプラットフォームも見えた。その傍に、棒杭があり「旧国鉄根室本線狩勝における殉職職員を祀る地蔵尊 これより約一〇〇メートル」と書かれていた。
狩勝峠駐車場 狩勝峠看板 HGフライトエリア 地蔵尊への標柱
 その前に、天然石の歌碑を見に行くと、「水嶺 朱の落暉 野火あとの空 そのまま けふれり十勝が ばくばくとして」と彫られていた。崩して書かれているので、間違いがあるかもしれないが、十勝平野が夕焼けで真っ赤に燃える情景なのか。
 最後に、100mを一気に走り奥の地蔵さんを見に行く。地蔵さんが見えたので、立ち止り一礼して入らせていただく。地蔵さんの前には、最近、お参りしたロウソクと花が供えられていた。看板には建立の経緯が書かれていた。明治42年から昭和42年に殉職された19名の事故日が記されていた。厳しい時代を生き抜いた先人のご苦労がひしひしと感じられ、感謝の念を抱き最後に一礼してその場を去る。展望台を見ると×雲は幅が太くなっていた。
歌碑 狩勝峠地蔵尊 地蔵さん ×雲
     狩 勝 峠 地 蔵 尊
建立年月日昭和八年二月十二日
建立由来 昭和七年二月二六日狩勝トンネル東口で
     なだれのため殉職した狩勝保線分区
     石狩丁場所属故○○○○氏同じく
     故○○○○氏御両人の霊を祭って当時
     狩勝保線分区長朝岡松治氏が建
     立した。その後 新得保線区で
     殉職された一七名の霊も合祀され
     現地は昭和四一年一〇月一日に
     移設された。

殉職者名(事故日のみ記載)
     明治四二年 一月 七日
     大正 六年 一月 六日
     大正 六年 四月一七日
     大正 八年 二月一二日
     大正 九年一二月二〇日
     大正一一年 九月一一日
     大正一四年 八月二六日
     大正一五年 四月一一日
     昭和 七年 二月二六日
     昭和 七年 二月二六日
     昭和 八年 三月三〇日
     昭和一一年一〇月二〇日
     昭和一六年 四月二二日
     昭和一九年一二月 一日
     昭和二〇年 八月二四日
     昭和二一年 三月 八日
     昭和三四年一一月一六日
     昭和四〇年 三月 二日
     昭和四二年 三月 六日
 駐車場に帰り、美味しいソフトクリームを食べながら、平穏な今日が流れていることに感謝する。

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 二人の散歩路記録
 2009.9.25(金) 晴れ