狩勝峠(644m) |
アクセス 狩勝国道(38号線)の南富良野町と新得町の境界にある峠を目指す。 国土地理院地図 周辺地図 |
峠の駐車場から横断歩道を渡って展望台へ向かう。階段を上がると石碑がバラバラと建っている。「日本新八景狩勝峠入選功労者顕彰碑」「十勝小唄」「狩勝峠」の碑が並んで建っている。 |
見晴台へ | 顕彰碑 | 十勝小唄 | 峠の看板 |
「日本新八景狩勝峠入選功労者顕彰碑」の碑文は黒っぽい銅版に胸像を伴ったレリーフとして、造られているので、物凄く読み難い。判別できないところもあるが、読んでみると随分と古い昭和2年の話しだった。裏には何も書かれていなかた。十勝小唄の碑は後回しにして、狩勝峠の碑に回り、裏に書かれた碑文を見る。狩勝峠の命名の話しは明治時代で、狩勝峠からの眺望はロッキーやウラル山脈のそれに相当するようだ。 |
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最後に、真ん中の俗っぽい歌碑を見る。十勝小唄は一度も聞いたことがないが、十勝毎日新聞社の初代社長は随分、くだけた人のようだ。 |
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ようやく、展望台に上がると、十勝平野は霞んでいるので、山側を撮す。桜山、佐幌岳、前佐幌岳、ニペソツ山、ウペペサンケ山、西ヌプカウシヌプリ、東ヌプカウシヌプリ、目の前の三角点:南新内570.4m福山の盆地が一望される。 |
桜山 佐幌岳 前佐幌岳 ニペソツ ウペペサンケ 東西ヌプカウシ 南新内570.4m |
駐車場方向を見ると、天然の筋雲と飛行機雲が交叉して×雲になっていた。隅にある狩勝峠の看板に歩み寄る。看板が立っているからはビューポイントなんだろと、平野を見下ろすと、平野の中に、白い崖が連続しているところがある。屈足ダムの斜面だろうか。 峠の山側に、石碑が見えたので、反対に下りて見る。良く刈られた芝生の片隅にHGフライトエリアと書かれた看板が立っていた。崖側にはプラットフォームも見えた。その傍に、棒杭があり「旧国鉄根室本線狩勝における殉職職員を祀る地蔵尊 これより約一〇〇メートル」と書かれていた。 |
狩勝峠駐車場 | 狩勝峠看板 | HGフライトエリア | 地蔵尊への標柱 |
その前に、天然石の歌碑を見に行くと、「水嶺 朱の落暉 野火あとの空 そのまま けふれり十勝が ばくばくとして」と彫られていた。崩して書かれているので、間違いがあるかもしれないが、十勝平野が夕焼けで真っ赤に燃える情景なのか。 最後に、100mを一気に走り奥の地蔵さんを見に行く。地蔵さんが見えたので、立ち止り一礼して入らせていただく。地蔵さんの前には、最近、お参りしたロウソクと花が供えられていた。看板には建立の経緯が書かれていた。明治42年から昭和42年に殉職された19名の事故日が記されていた。厳しい時代を生き抜いた先人のご苦労がひしひしと感じられ、感謝の念を抱き最後に一礼してその場を去る。展望台を見ると×雲は幅が太くなっていた。 |
歌碑 | 狩勝峠地蔵尊 | 地蔵さん | ×雲 |
狩 勝 峠 地 蔵 尊 建立年月日昭和八年二月十二日 建立由来 昭和七年二月二六日狩勝トンネル東口で なだれのため殉職した狩勝保線分区 石狩丁場所属故○○○○氏同じく 故○○○○氏御両人の霊を祭って当時 狩勝保線分区長朝岡松治氏が建 立した。その後 新得保線区で 殉職された一七名の霊も合祀され 現地は昭和四一年一〇月一日に 移設された。 殉職者名(事故日のみ記載) 明治四二年 一月 七日 大正 六年 一月 六日 大正 六年 四月一七日 大正 八年 二月一二日 大正 九年一二月二〇日 大正一一年 九月一一日 大正一四年 八月二六日 大正一五年 四月一一日 昭和 七年 二月二六日 昭和 七年 二月二六日 昭和 八年 三月三〇日 昭和一一年一〇月二〇日 昭和一六年 四月二二日 昭和一九年一二月 一日 昭和二〇年 八月二四日 昭和二一年 三月 八日 昭和三四年一一月一六日 昭和四〇年 三月 二日 昭和四二年 三月 六日 |
駐車場に帰り、美味しいソフトクリームを食べながら、平穏な今日が流れていることに感謝する。 |
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二人の散歩路記録 2009.9.25(金) 晴れ |