清水KIYOMIZU

 ポイント
 清水寺は、東山三十六峰の北から数えて29番目の清水山(242m_別称:音羽山)に当たる。因みに1番目は比叡山(848m_延暦寺)、36番目は稲荷山(233m_伏見稲荷大社)、詳細は東山,東山三十六峰 京都通百科事典
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 <2026(R8)年3月21日>Google マップ
 五条通りから清水新道に入ると直ぐに、着物のレンタル屋さんがある。道の奥には三重塔が見えて来て、期待感で心がウキウキする。お寺が近づくと、解放された鉄のゲートがある。ゲートには「開門午前6時、閉門午後5時30分」と張り紙がしてあった。ゲートを潜ると寺名碑があり、碑陰には大正9年8月奉納と刻まれている。三重の塔を眺めながら石段を上がって行くと、扁額「清水寺」が掲げらえた仁王門が見えてくる。
清水新道 寺名碑 石段を 仁王門
 仁王門は清水坂から上がって来る人が多かった。清水坂の入口には境内案内図も設置されていて、メインの様に感じた。仁王門に向かって足を運ぶと、左手に善光寺堂、石段を上がると馬駐(うまとどめ)があった。明治初期の基準点標石は捜せず、両方阿形のこま犬を見る。なるほど狛犬は両方とも口を開いていた。
境内案内図 馬駐(うまとどめ) 両方阿形のこま犬
 金剛力士像は網や格子の中なので良く見ないと分からないが、向かって右が阿、左が吽の配置のようだ。阿形は右手を振り上げるような動的ポーズで口が開いている、吽形は左手を下げるような静的ポーズで口が閉じているようだ。仁王門を潜り西門へと向かうと、石段の左手の木々が茂った所に鹿間塚があるようだ。石段の下には祥雲青龍が鎮座していた。これは清水寺門前会創立30周年記念として奉納。作物者は沖縄の陶芸家・新垣光雄(あらかき みつお)氏とのこと。
金剛力士像 西門 祥雲青龍
 祥雲青龍と対で念彼観音力の碑がある。この碑は、観音菩薩の力で、苦境から助けてもらえるという意味が込められているようだ。この碑は1967年に清水寺中興開山・大西良慶が本堂修理落慶を記念し建立された。石段前の広場を振り返ると、「虎の石燈籠」が木の柵に囲まれて鎮座していた。岸駒(がんく)(1756〜1839)が描いた八方睨みの虎が彫られているようだが、虎の姿は何処かに遊びに行っているのか現れ無かった。この近くのシダレザクラは綺麗に咲いていた。
念彼観音力の碑 虎の石燈籠 シダレザクラ
 西門に向かって左から石段を上がって行くと鐘楼が見えて来る。その傍には梵鐘寄進趣意書という石碑があった。鐘楼の奥まったところに鹿間塚が鎮座していた。奈良時代の坂上田村麻呂による鹿供養のためのようだ。振り向くと、三重塔の上から桜の花を目掛けて光が降り注いでいた(10時58分)。
鐘楼 梵鐘寄進趣意書 鹿間塚 三重塔
平成梵鐘寄進趣意書
観音霊場洛東清水寺の第四世梵鐘は
文明十(一四七八)年 願阿上人が勧進寄進
応仁大兵輪災の平安京復興を郷向導す
爾来五百三十年 暁夕の逸韻絶ゆる
こと無く遠近の衆聽すでに久し
而して妙響の勢い漸く旧び
雄偉の姿また老ゆ
 平成十九(二〇〇七)年清水寺門前会
結成二十周年を記念し第五世梵鐘
寄進を発願 微志を結集しここに
成就す
 冀くは此の音を聞く人みな観世音
菩薩の大悲 無畏福聚に預かり
ないし世界平和に貢献せんことを
平成二十年四月吉祥日清水寺門前会建立
 満開のサクラを眺めながら経堂を回り込み拝観券受付へと進む。田村堂の奥に黒ぽい建物に、扁額「普門閣」を掲げた轟門が見えてくる。振り返ると経堂の奥に三重の塔が見えていた。
満開のサクラ 田村堂 轟門(普門閣) 経堂
 拝観券受付の横に世界文化遺産の看板が設置されていた。梟の手水鉢には龍の置物があるのに何でフクロウが関係あるのだろうと思う(帰って調べてみたら、水鉢を支えている台石に、菩薩像の左右に梟が刻まれているようだ)。納得しないまま、手を清めて轟門を潜る。念願の清水の舞台に上がると、南側に泰産寺の真っ赤な三重塔(子安塔)が東山の手前に見えていた。
世界遺産の解説板 梟の手水鉢 三重塔(子安塔)
 北側には京都タワーが平野から突き出た見えた。清水の舞台には3つの鰐口があるが鳴らせないように鰐口紐を柱に縛っていた。
三重塔(子安塔) 京都タワー 鰐口
 清水の舞台から阿弥陀堂と奥の院を右手に眺めながら地主神社に向かう。残念ながら地主神社は改装中で閉門していた。阿弥陀堂には阿弥陀如来像が鎮座し、扁額「日本最初常行念仏道場」が掲げられている。この扁額は後柏原天皇宸筆によるものらしい。阿弥陀堂は法然上人二十五霊場(第13番)と洛陽六阿弥陀めぐり(第3番) 札所にもなっているようで、柱に添えられた縦看板にはそれらしい文字が見られるが、残念ながら完読はできない。阿弥陀堂は音羽の滝の上にあることから、滝山寺とも呼ばれている。
清水の舞台から 地主神社 阿弥陀堂
 釈迦堂の前に毛利謙の碑がある。石碑は欄干に近い位置に建立されてので碑陰の下の方は良く見えなかった。奥の院前にはデッキがあり、大勢の人が景色を堪能していた。阿弥陀堂と奥の院の間から宝篋印塔や手水鉢、観音の看板が見えていた。ぬれて観音が見られるようだ。奥の院のデッキから清水の舞台を眺める。
奥の院
石碑 碑陰 宝篋印塔 奥の院のデッキから
碑文
聰明睿智謂之聖經天緯地謂之道夫人幼而學道壯而欲行之遂
致聖人之道以賛天地之化育至矣哉上古之世其為人也淳粹朴
質合乎道之行多矣自中古以后名于世之士苟自非文字詩賦之
徒又莫之聞也一時欺市童之行予非能知者也其他一二之孝
義一行之可觀者漸僅知其名由是觀之其果無人乎亦其不知人
耶當今之時假令以顔回之德子貢之智而非有達文辝詩賦之道
如何有能成其名乎一世哉況於後世矣乎嗚乎閭巷之士欲砥行
専義者惜矣哉其名徃々湮没而不稱可悲矣己予深有感焉而作
是刻文      詩云
      老去還何向来意自閑聊鏤一片石萬古頓音山
 天保庚子八月望月      毛利謙源一㽦謹誌之
碑陰

謙名一㽦子〇其先出自中村式部太輔一氏伯父一●●
子一隥姓下村住于紀州到朝鮮爲人持組二十三●●
弓馬之名後移于藝州父兼以文學性清閑不好●●●●
有編集後有故移居于京師改毛利姓茲載建刻碑音●●
父之志云爾
           毛利
              ●殿少允源一
右碑側
揮毫  右大辨菅原​​​​●長卿
左碑側
誓辞 立帰る 出来心を照す
    隅なき宿よ 澄る月影
 奥の院の外れに境内略図があり現在地を改めて確認する。奥の院から外れると、清水の舞台の横に三重塔が見えだす。順路の看板に従い分岐を折れる。三重塔に着く直前に、清水の舞台が真正面に見えて来る。泰産寺の三重塔(子安塔)を見上げて音羽稲荷に下って行く。
境内略図 三重の塔と清水の舞台 清水の舞台 三重塔(子安塔)
 黒色の建物の裏に隠れたように地蔵堂があるので近づいて行くと羂索をもつ不動明王と思われる石仏が鎮座していた。その奥に音羽稲荷大明神があった。その横に大亀明神の碑、留吉大明神の碑、彈力辨戝天の碑が並んでいた。大亀明神の碑陰には「明治三十四年十月/修(譄?)教/三真三光組」、留吉大明神の碑の碑陰には「鈴木」、彈力辨戝天の碑陰には「昭和六年四月/田中アイ/蔵之」と刻まれていた。
地蔵堂 音羽稲荷大明神 大亀明神 留吉大明神・彈力辨戝天
 次に、高照辨財天と続く。添え碑には「昭和六年四月改造」と刻まれている。仁清記念碑、乾山記念碑を横目で眺め音羽の滝へと辿って行く。音羽瀧不動明王と書かれた扁額のある建物の下に屋根はあるが鳥居風になった上に三本の石の梁(筧(かけい))が突き出ている。その筧のそれぞれから筋状の水が流れ落ち、池の中の石に当たるようになっていた。
 その前に滝之堂があり、解説板が掲げられていた。解説には無いが一説では、向かって左から、学業、恋愛、長寿にご利益があるという。この水を飲むのに長蛇の列になっていた。石垣には丸い穴の開いた灯籠と石碑がある。灯籠には「雪精多光山/常夜燈」と刻まれているのだろうか。石碑は良くわからなかった。道標に従い清水の舞台を見上げながら辿る。
高照辨財天 音羽瀧不動明王 解説書 清水の舞台を
 清水の舞台を見上げると、板張りの後ろに奉納者の名前がびっしりと書かれていた。柱の臍や横柱には雨水が入り込まないように板のプロテクターが付けられていた。
清水の舞台裏
 満開のサクラの中を上って行くと、音羽地蔵や石碑「北天の雄/阿弖流為/母禮之碑」が鎮座していた。阿弖流為・母禮之碑の碑陰には顕彰の細かな経緯が刻まれていた。
満開のサクラ 音羽地蔵 阿弖流為・母禮之碑
八世紀末頃まで東北・北上川流域を日高見国ひだかみくにと云い、大和政府の勢力圏外にあ
り独自の生活と文化を形成していた。政府は服従しない東北の民を蝦夷えみしと呼び
蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征東軍を動員した。胆沢いさわ(岩手県
水沢市地方)の首領・大墓公阿弖流為たのものきみあてるいは近隣の部族と連合し、この侵略を頑強
に阻止した。なかでも七八九年の巣伏すふせの戦いでは勇猛果敢に奮闘し政府軍に多
大の損害を与えた。 八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き
帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲
弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に降った。田村麻
呂将軍は阿弖流為と副将・磐具公母礼いわくのきみもれを伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇
と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし公家達
の反対により阿弖流為、母礼は八〇二年八月十三日に河内国で処刑された。
平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、
母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。
両雄をもつて冥さるべし。
      一九九四年十一月吉祥日
                       関西胆江同郷会、アテルイを顕彰する会
                       関西岩手県人会、京都岩手県人会
 阿弖流為・母禮之碑の傍には顕彰碑も添えられていた。まだ咲いていないサクラの木立越しに三重の塔を見上げる。十一重石層塔の前に茶屋があったので、ぜんざいを食べながら塔を眺める。塔の傍には筆塚と南無観音菩薩の碑がある。
顕彰碑 三重の塔 ぜんざい 十一重石層塔
 

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