有珠善光寺 

 ポイント
 地図では「善光寺跡」の表記しかないが、立派に修復された本堂や新しい施設が建っている。境内は公園になっていて、散策路が延びている。岩を抱いた大木は見応えがある。アイヌ語の「一枚起請文」も見られる。

 アクセス
 胆振国道(37号線)から有珠湾沿いの道に入る。入口は「有珠善光寺」と「有珠善光寺自然公園」の二か所で、それぞれ駐車場がある。
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 5月9日 <2017(H29)年>
サクラ
 有珠善光寺のさくらを見ようと、散策路に入る。入口のサクラを見て散策路のサクラが奇麗だろうと期待しながら奥へと進む。散策路には、外国からの観光客が多く、自由に行動出来そうにないので、途中から引き返す。
 本堂と客殿を眺めて、帰路に着く。
 
           ←大
本堂と客殿
 10月22日 <2009(H21)年>
 駐車場から茅葺屋根の本堂や客殿を眺めながら中に入ると、真ん中に大きな木が見えるので、近づいて行く。茅葺屋根には鳥が止らないようにネットに覆われている。傍に立っている説明板をみるとイチョウの古木だと言う。
本堂 客殿 イチョウの古木 説明板
  善光寺の銀杏記念保護樹木
 善光寺の境内には、スギ、サクラ、カツラ、セン、
イタヤカエデなどの古木が奇岩をまじえて成育して
います、このイチョウも文化元年(西暦1804年)の
善光寺建立の以前から生育しているもので、善光寺
の歴史とともに年月を経てきたものです。
 胸直径135p 樹34m 推定樹令250年
”樹木を大切にしましょう”   昭和47年3月1日指定
                   北  海  道
 愛棒が石割桜の道標を見つけ、その桜を見ようと奥へと進んでみる。大木の傍に石仏と看板が現れる。看板には「石仏ナラ(石仏ミズナラ)/樹齢約三百年/蝦夷地での生育は珍しい。豊な森を/背にしている善光寺の境内で、観音様を抱/える形で石に根を張っている。凛とした命/の尊さを現している。/善光寺」と記されていた(三番石仏)。道端に一等三角点かと思ったが、良く見ると「三泡雅光廣●子」の文字が書かれているようにも見える。何なのかわからず、ただ通り過ぎる。石を抱いた大木と五番石仏、六番石仏とたて続けに現れる。大木が岩を抱く様は、何か柔らかなものに感じられる。
石仏ナラと三番石仏 ?碑 五番石仏 六番石仏
 石仏が添えられていない石抱の大木も中々見応えが有る。七番石仏の次に、大きな岩が現れ、プレートが打ち付けられている。
石抱の大木 石抱の大木 七番石仏 大きな岩
 プレートには「浄土門主 岸 信宏上人 詠/アイヌ語にて振り仮名つけし/御法語のありてかしこし/有珠のおん寺/善光寺十七世大定書」と書かれ、二枚目の一枚起請文には、アイヌ語も併記されている。この様な構成は実に面白いが、文字がかすれ気味で、カタカナがニなのかコなのか、チなのかテなのかが良く判別できないところもある。
 ようやく、石割桜と思われる樹影が見えてきた。既に、葉が落ちて幹が裸で、老木らしく支え木も見える。石割桜の前には由緒書きがあり、この樹もロシアの脅威に震えたことがあるようだ。
一枚起請文 石割桜が 石割桜 由緒書き
シネカンピスヌエイタツコチ オヤモシリ アコタンオレンウオヤ シパエトツクル イポルセア      アヤイヌカ  ヘンネ      ウパスクマ
一枚起請文 唐土我が朝にもろもろの知者達の沙汰し申さるヽ観念の念にもあらず又学問をして
ネシフチ サンペ コルウイヤネンフチ カンネ          イオマンピリカコタン  クラスパクニ   ナムアミタフツアリイエカネカシエ ナヘンネ
念の心をさとりて申す念佛にもあらず ただ往生極楽のためには南無阿弥陀佛と申して疑ひなく
イオマン    ヤク  ヤイヌコラチ                ウオヤ カヘンネ      ソモ シサンペイネサンペイエヤ イカ       イオ ピッタ
往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず但し三心四修と申すことの候は皆決定して
ナムアミタフツ      アリ エイマン ヤク    イスコラナ アンペ ネヤ ウオヤイポルセイキヤク                   ツパセカムイ
南無阿弥陀佛にて往生するぞと思ふうちにこもり候なり 此外に奥深きことを存せば二尊 の
イオクニヌウポン         パセトツパ イポソアリ    ネンフチ  コルクル      エシネン         イポルセ ピリカイコイサンパヤツカ
あわれみにはづれ本願にもれ候べし 念佛を信ぜん人はたとい一代の法をよくよく学すとも
ヤイランペ テッペコラチ             ヤイチスニラナ エランペ テツ コラナ   エラムアフリ ヘンネ キリ       オシル ノ ネンフツイキナ
一文不知愚鈍になりして尼入道無智して智者のふるまいをせずしてただ一向念佛すべし
唐土:もろこし
    石割桜記念保護樹木
 この木は、樹令160年余と推定されるエゾヤマザ
クラです。文化4年(1807年)蝦夷地近海にロシア
船が現れた際、「たとえ敵の砲丸に倒れることがあ
っても捕えられて辱しめを受けてhあならぬ。」と里
人を諭し、処々に仏幡をたてて守らしめたという奇
僧・二世鸞洲上人がお植えになったもので、石を割
って成長した名木です。   昭和47年3月1日指定
                      北 海 道
 角度を変えて、回り込むと桜の上に石仏が鎮座していた。道は奥に延びているので、辿って行くと、広い駐車場に出た。ここちらからは有珠善光寺自然公園と言うようだ。改めて、大きな岩の門から中へ入り直す。
桜の上に石仏が 大きな岩が 駐車場 駐車場から
 ローンは落ち葉で埋まっていたが、紅葉の名残木が真っ赤に見え、その奥に茅葺のチセが見える。近づいて行くと、チセの奥に「伊達市先住民族 アイヌ慰霊碑」が鎮座していた。その横に書かれた碑文を読む。
紅葉 チセ アイヌ慰霊碑 碑文
   碑  文
アイヌモシリとは(人間の住む大地の
意)北海道、千島列島、樺太を云う。
このアイヌモシリの地には、太古より
多くの人々が住み、中世には蝦夷人と
呼ばれ近世以降は アイヌと呼ばれて
現在に至っている。
有珠郡の有珠は、ウショロ(入り江の
内の意)と云い現在の伊達市である。
アイヌ達は、この地の厳しい自然の中
で独自の精神文化、生活文化を継承
しつつ生活をおくって来た。
特に明治になってから先人であるアイ
ヌ達は、伊達地の開拓に励み今日の市
発展の礎をく築く事に努力して来た。
この幾多の先人ウタリ(同胞に意)の
その労苦に感謝し徳を忍び功績を讃え
市の協賛を得て茲に記念碑を建立する
 平成三年五月十二日
       北海道ウタリ協会伊達支部
        題字 野村 義一
 千島列島、樺太はロシアの占拠されてしまっているので、複雑な気分になり、元来た道を引き返す。石割桜を通り過ぎると、おやじギャグの「う!スワン展望台」と書かれた道標がある。まだ白鳥は来ていないだろうと思いつつ、展望台への道を辿ると、望台への丸太の階段が見えて来る。木造の展望台に上がって見る。
石割桜 道標 展望台へ 展望台
 展望台からはポロノットが僅かに見え、目の前に岩礁が見えていた。展望台は高さ不足の感じがする。善光寺の境内に戻ると、一住桜の看板があり、よく見るとオンコが桜を生んだように見える。その奥に、杉の大木が三本ある。
ポロノット 岩場が 一住桜 三本杉の解説
   三本杉記念保護樹木
 善光寺は江戸幕府より文化元年(1804年)に建
立され、たびたびの有珠山の噴火にもかかわらずよ
く維持され昔の面影をとどめています。この3本の
スギは、善光寺の建立以前よりこの場所に生育して
いたもので、善光寺の歴史を物語る記念の老杉とも
いえましょう。直径84p樹37m推定樹令250年
 樹木を大切にしましょう。 昭和47年3月1日
                  北 海 道
 三本杉の奥に龍神堂があるというので、奥に入ると小さな祠があった。どうやら龍神堂のようだと思いながら三本杉の横を通り引き返す。
 善光寺の境内に戻り本堂に向うと、玄関の上に一枚の木に書かれた善光寺の看板が架かっている。この看板には何と書いているか分からない櫻夷・・と書かれているようにも見えるが分からない。
龍神堂 三本杉 善光寺の看板 本殿と客殿の間に
 客殿を除いて見ると、入って直ぐに囲炉裏、その上には何かを祀ってある棚がある。縁側は濡縁で長い。境内は縁日があったのかテントが並び、その横に綺麗な紅葉があった。
客殿の囲炉裏 客殿の棚 濡縁 紅葉
 境内には「善光寺官寺設置 二百年記念碑 善光寺十九世慧譽大忍」が鎮座している。裏に回ると平成十七年十月吉日建立とある。隣りには、石灰岩が白竜神として祀られている。この岩は日高山脈館の鑑定書付きで、「昭和37年(1962)に日高沙流川パンケピップ沢出会い付近で採石された」と書かれている。
 今度は、正門の方へ行くと、善光寺の修理記が書かれた看板が立っていた。最後は平成元年に修理したようだ。大きな岩に蓋があり、蓋の上納骨堂と浮き彫りされていた。岩を刳り貫いて造ったのだろうか。
二百年記念碑 石灰岩 修理記 納骨堂
  史跡善光寺跡修理記
事業概要
 本堂・客殿・玄関の半解体修理
 着手  昭和五十八年十月
 完了  平成元年三月
 総事業費  一億六千四百余万円
当寺は、徳川幕府により文化元年(千
八百四年)蝦夷地に建立された三官寺
(様似等泳院・厚岸国泰寺)の一寺で
ある。昭和四十九年五月国の史跡に指
定され、国庫並びに北海道の補助金を
得て、伊達市が本事業を運営した。
 修理の大要
本堂 正面の仮設外外陣を撤去し、屋根を茅葺に復した。
客殿 後世増築の台所附属室を撤去し、客殿に復した。
玄関 半解体し、旧に復した。
  平成元年三月吉日
      伊  達  市
樹は木偏でなくさんずい偏に
 小さ目な鐘楼を見上げながら歩いていると、正門の出る。正門の傍には善光寺跡の碑があり、碑文も添えられている。
鐘楼 正門 善光寺跡の碑 碑文
 史跡 善光寺跡
  昭和四十九年五月二十三日指定
  管理者           伊達市
この寺院は徳川幕府が蝦夷地における
和人の定着慰撫を図り邪宗門等を糺し
併せて蝦夷地の教化及び法務活動を行
なうために文化元年〜二年に建立され
た官寺であり蝦夷三官寺の第一の寺で
ある。慶長以前に存在したといわれる
寺名を引きつぎ、本尊を安置した境内建
物もよく江戸時代の面影を今日に伝え
ており江戸後期に特異な歴史的役割を
果した寺として重要なものであること
から史跡に指定されたものである。
   注意事項
1、許可なく指定地域内の現状を変更し
  ないこと
1、火災のおそれある一切の行為をしな
  いこと
  昭和五十一年三月
    文 化 庁
    伊達市教育委員会
 正門から入り直すと、左にボタン右にアジサイが植えられた道になる。右側には何か時代を感じさせる灯篭が出て来る。由来書も添えられている。最後に善光寺を見回して後にする。
ボタンとアジサイの道 織部灯篭 由来 善光寺を後に
織部灯篭の由来
 有珠地蔵堂境内にあった織部灯篭は寛永年
間(一六二四-四三年)松前七代公広の頃
迫害を受けた切支丹の建立と伝えられ長年月
て竿石だけが残った。虻田カトリック教
会ケラハ神父、泉教師を始め灯篭復元の希望
を聞き洞爺ライオンズクラブは認証記念事業
として宗教に関せず先人苦難の遺跡を後世に
伝えるため竿石の保存措置を講じ併せてここ
善光寺境内に織部灯篭一基を建立する。
 一九六一年九月二三日
インターナショナルライオンズ三〇二東地区
        洞爺ライオンズ クラブ
          考証  田畑幸三郎
          文    宮田栄一
          書    白井治郎
          石工  柴口 繁
経は糸偏無し 枅のような漢字

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 二人の散歩路記録
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