円山公園付近散歩
1.包丁塚 2.天皇陛下・皇后陛下・北海道開道・札幌市創建・百年行幸記念 3.皇太子御成婚記念植樹 4.島判官の紀功碑 5.御鎮座五十年記念玉垣門碑 6.皇軍全勝祈祷之碑 7.日露戦役記念碑 8.奉納太〃神楽寄金之碑 9.山神碑 10.殉難消防員之碑 11.山下秀之助の歌碑 12.北海道方面委員会慰霊碑 13.サクラと花見 14.樺太開拓記念碑と国境標石のレプリカ 15.大泊同窓会解散記念樹の碑 16.門人桜植樹記念碑 17.吟魂碑 18.梅林碑 19.札幌興風会の歌碑 20.宮崎芳男歌碑 21.開道百年記念歌碑 22.沙羅の碑 23.白野夏雲の碑 24.さざれ石

 ポイント
 円山公園や神宮の中に歴史が埋まっている。 Yahoo Map
=写真をクリックすると大きなサイズになります=
 1.包丁塚<2009(H21)8.20>
包丁塚 添え書き
大通公園から自転車を転がしてきて、円山公園の傍を通りかけたら、何かの石碑を見付ける。
 近づいて、見たら包丁塚だった。石碑には碑文が書かれ、その傍に真新しい添え書きが光っていた。
 石碑の後を見ると植えたばっかりと思われるアジサイが目に付いた。
   碑   文
我々の祖先が初めて鉄包丁
を用いて魚鳥を調理し食用
に供したのは古く弥生式文
化時代であったがその後現在
に至るまで人間生活にとって
包丁は不可欠なものとなって
いる。
また平安時代には魚鳥を割
くものを包丁刀と呼んでいた様
に包丁をもって職としている
者たちは 拠所として魂を
打込んで取扱ってきた
使命を果たした包丁に 感謝
の念を捧げ この塚に収納し
魚鳥の霊に永遠の冥福を
祈りつつ 更に食生活の向上
を願って札幌市の全調理師
団体及び関係業界は この
碑を建立した次第である
 昭和四十七年七月二十八日
 包丁塚魚鳥記念碑とアジサイ

 アシサイは、日本で生まれた世界に誇れる花木です。
 その祖先は伊豆地方などの海岸に野生するガクアジサイが改良された
もので、ヨーロッパはもとより広く世界で栽培されております。
 アジサイの花は咲いていくうちにだんだん色が変化していきます。
土が酸性だと青くなり、アルカリ性だと赤くなります。この様に美しく
変化することから「七変化」と言われています。
 料理の世界においても、素材にいろいろと手を加えることにより、美味
しく変わっていくことでは同じです。
 アジサイは、この円山公園の敷地に建立された包丁塚魚鳥記念碑に
ふさわしい花木と考え植樹しました。


                平成21年7月30日
                札幌市調理師団体連合会
 2.天皇陛下 皇后陛下 北海道開道 札幌市創建 百年行幸記念<2009(H21)8.20>
記念碑 裏の碑文
 包丁塚の後には随分欲張りな記念碑があった。裏の碑文を見て二度びっくりした。長々と文章が刻まれていた。
 余りに長いので、誤読があったらお許し願いたい。チネセブ川は初めて聞いた川の名前だったが、不動の滝から流れ出ている円山川のアイヌ語名だろうか。
我が郷土北円山は安政四年(一八五七)早くも中
川中島の両人等がチネセブ川のほとりに入り米作
をこころみ 次いで早山清太郎が入地したとつた
えられる
明治天皇は明治二年七月(一八六九)開拓使を拓
かれ八月エゾを北海道と改め札幌本府創建にあた
られた 明治三年五月開拓使は現在の北一條より
北は西二十二丁目より東え北一條より南は道の西
側の土地へ山形縣人(當時酒田縣)日田豊三郎等
三十戸を入地させ庚午三の村と称した 明治四年
岩村判官の命名により札幌郡円山村と改称した
この年官幣大社札幌神社(現北海道神宮)が造営
せられた 明治三十九年山鼻村と合併し藻岩村と
なり昭和十三年発展著しく町制を施行して円山町
となり昭和十六年四月一日札幌市と合併した
隣保組織としての部落会町内会は入地と共に自然
発生した大東亜闘戰争のときには隣保班公区円山連合
公区に編成されたが 昭和二十年八月十五日(
一九四五)終戦後まもなく解体した
昭和二十二年円山地区は市の行政上北と南に分割
せられ南三條より北は札幌北円山区出張所区域と
なり 昭和二十七年地域の振興市民福祉向上のた
め北円山振興会が組織せられ各町内に分区をおき
運営したが昭和四十一年北円山町内會連合會に改
組せられた
北円山は北海道神宮の神苑を中心として繁栄し面
積三十六平方キロ戸数九千七百余戸人口三万三千
四百余人に達し生活環境に恵まれ発展に一途々あ
り 時あたかも北海道開道百年札幌市創建百年の
年を迎え九月二日神宮外苑陸上競技場に
天皇陛下皇后陛下の行幸啓を仰ぎ北海道開道百年
の記念式が行なわれたことは北円山市民として最
大の光栄であり喜びである
當会は十月二十六日記念式を行い原始の密林に入
った開拓先駆者の遺徳をしのび地域の発展市民福
祉の向上に永年努力された多くの先歿者に慰霊の
誠を捧げ七十五名の諸氏に感謝状を贈って謝意を
表し 當会の役員と町内有志の協賛によりここに
記念植樹を行ないこの碑を建て 風雪百年北円山
の歴史をきざみ百歳一遇の光栄を輝く未来の世紀
に傅えんとするものなり
 昭和四十三年十一月三日(一九六八)
 札幌市北円山町内会連合會長 宮本平八郎選
 北海道学園大学 学長
      農学博士 高倉新一郎閲
 北海道大学名誉教授
 3.皇太子御成婚記念植樹<2009(H21)8.20>
石碑
 包丁塚の土手に草に埋もれかけた石碑が見えたので、近くに行ってみたら、「皇太子御成婚記念植樹」と彫られていた。この辺りの木はその時に植えられたのだろうかと見回す。
 この石碑のことは公園のHPにも載っていない。
 4.島判官の紀功碑 <2008(H20)4.23>
銅像と歌碑 碑文
 円山公園の花見に行った時に大きな石碑を見上げる。碑文を見ても掠れて判読できないところもあり、詳細は分からずじまいだった。
  5.御鎮座五十年記念玉垣門碑<2014(H26)8.30>
石碑
 北海道神宮の境内を歩いていると、石碑が鎮座していたので、近づいて見ると「御鎮座五十年記念玉垣門」の石碑だった。
 6.皇軍全勝祈祷之碑<2014(H26)8.30>
石碑
 玉垣門碑の傍に「皇軍全勝祈祷之碑」がある。何時建立したのか判然としないが、戦時中には間違いない。
 戦争に関わった人々は命がけだったのだろう。
 7.日露戦役記念碑<2014(H26)8.30>
石碑
 日露戦争は1904(明治37)年2月8日 から 1905(明治38)年9月5日なのでその後に建立されたのだろう。それにしても、一寸新しすぎる感じもする。この戦争で勝たなかったら、今頃、ロシアに飲み込まれていたのだろうか。
 8.奉納太〃神楽寄金之碑 <2014(H26)8.30>
石碑
 太々神楽への寄付をした人達の名前が刻まれている。何時、建立したものなのか不明だ。 
 9.山神碑 <2014(H26)8.30>
北口の山麓 山頂
 円山の北口と山頂に鎮座している。北口の碑は昭和11年9月1日だったが、山頂の碑は、何時、建立したのか不明だった。 
 10.殉難消防員之碑 <2014(H26)5.5> 周辺地図(写真)
石碑 碑文
 円山山麓の小さな丘に建立されている。碑陰を見ると大正12年8月建之と刻まれている。
 11.山下秀之助の歌碑 <2014(H26)5.5> 
石碑 碑文
 殉難消防員の碑の東側に建立されている歌碑で、掠れて読みにくいが「志ろがねは/かゞやく雲の/空に満ち/無際限●る/いのちの流れ/秀之助」と刻まれているようだ。
 碑陰には、昭和32年8月25日建立と刻まれ、略歴も記されている。
 12.北海道方面委員会慰霊碑 <2014(H26)5.5>
石碑 碑文 碑陰
 山下秀之助の歌碑の東側近くに建立されている慰霊碑で、
 碑陰には、昭和12年6月12日建立、昭和51年改修と刻まれている。
 13.サクラと花見
 <2018H30)4.26>
神宮 公園 坂下グラウンド
 神宮の東側は満開だった。公園や坂下グラウンドは先始めだった。
 
 <2015(H27)4.27>
公園
 公園内は期限限定で、バーベキューが許されているようだ。
 
 2018(H30)4.28
 公園の池に映える桜が奇麗だった。
公園の池に映える桜
 
 <2016(H28)5.3>
消防自動車 桜とヘリコプタ
 円山の北登山口付近で、花見をしていると、消防自動車が来て、間もなくヘリコプタが飛んで来た。円山で滑落でもした人がいるのだろうか。
公園 神宮側
 <2014(H26)5.5>
神宮の参道 桜の由来
 神宮の参道に入ると桜の由来が記された看板がある。
坂下グラウンド 公園
 神宮から公園に下ると、桜が咲いていた。更に、坂下グランドに行くとここも桜が満開だった。
 14.樺太開拓記念碑と国境標石のレプリカ<2008(H20)12.9> 詳細は泥川を思うのHPへ
 円山川の不動ノ滝を見た帰りがけ、北海道神宮の開拓神社横を通りかかったら、樺太開拓記念碑が暖かな陽の光に包まれていた。台座には「第十二代樺太庁長官今村武志遺墨 丹心貫日月 武志」と彫られている。左側には樺太国境標石のレプリカがある。表は菊の紋の上に大日本帝国、下に境界の字が刻まれいている。裏は双頭の鷲の紋章に1906とロシア文字が刻まれている。「大津無外:第十二代樺太庁長官大津敏男」の漢詩も鎮座している。裏に回ると、碑文があり、樺太の歴史が刻まれていた。
樺太開拓記念碑 国境標石(表) 国境標石(裏) 大津無外の漢詩
 
碑         文
 樺太は古来わが蝦夷地の一部としてカラトの島と呼ば
れ 経営の歴史は十六世紀の昔に遡る 一五九三年豊臣
秀吉から松前 蝦夷地の支配を許された蛎崎氏は のち
に松前藩となり 一六七九年から藩士を出し 久春古丹
(大泊の楠渓)に陣屋を設けて統治の端を開いた 以来
約百三十年間藩政は定着し邦人の出漁も次第に増した
ところが一八〇六・七の両年に亘りロシアのフォースー
フらが久春古丹や留多加を襲うにいたって 幕府は樺太
を直轄して自ら守ることになった このころから幕吏や
憂国の士の樺太探検があいつぎ 一八〇八年松田伝士郎
間宮林蔵が北樺太を究めた功績は間宮海峡の名と共に不
滅であるその後ロシアのネヴェルンスキーらが 久春古
丹に進駐した(一八五三)が 翌年長崎会談の結果撤退
した つづいて日露通好条約ができ(一八五五)国交は
約二十年間安定した しかるにロシアは軍艦の威力を示
して東進を迫るに至り 明治新政府は内外の多端に負わ
れて 樺太を貧小十八の千島と交換せざるをえなかった
(一八七五) さらにロシアの進路は満鮮に転じて国交
はいよいよ緊迫し 遂に日露の開戦となった(一九〇四
) 幸い戦いは日本の大勝に帰し 翌年両国はポーツマス
に会して和を講じ 漸く樺太の南半分を回復したのである
 以後四十年間われわれの父祖はここを墳墓の地と定めて
不毛に挑み酷寒に抗し 心血を注いで殖産を興し 制度
を整え文教を進めて近代樺太を築き上げた かくて島民
待望の内地編入が行なわれ 年間の総生産額は四億円に
上り人口は四十万を算した この宝の島が一九四五年(
昭和二〇)大東亜戦争も末期となった八月九日未明から
ソ連軍の進撃するところとなり 翌年ソ連はその領有を
宣言したが 米英等四十八ケ国は対日平和条約(一九五
二)においてそれを認めず 日本に放棄させた樺太と千
島十八島の帰属を定めなかった われらこの史実を辿り
北辺の開拓と守りに挺身した幾多先人の功績と犠牲を思
えば 痛恨愛惜切々としてつきない ここに樺太四十万
引揚者の赤誠を結集して不朽の碑を建て 先覚の偉大な
功績を顕彰すると共に 開拓の途上に散華した幾万諸霊
の冥福を祈る標となし もって民族の行路に一灯を掲げ
るものである

 昭和四十八年八月二十三日
  社団法人全国樺太連盟会長 梅内正雄
  元 樺 太 庁 長 官  小 河 正 儀 共撰
 
 15.大泊同窓会解散記念樹の碑<2015(H27)4.27>
石碑
 石碑の後ろに植樹されて間もない松が、添え木をされた状態にある。この碑にも高齢化の波を感じてしまう。
 16.門人桜植樹記念碑<2015(H27)4.27>
石碑
 碑文には、「祝還暦 須藤隆城先生/門人桜植樹記念/北海道正調追分節隆城門人会」の文字が刻まれている。
 17.吟魂碑<2015(H27)4.27>
石碑 碑陰
 碑陰を見ると、「社団法人 日本詩吟学院岳風總本部/頌吟徳建立/昭和四十五年九月/創立満三十年記念北海道本部」の文字が刻まれている。
 18.梅林碑<2015(H27)4.27>
石碑 モクレン
 碑文の上には大典記念と刻まれている。碑陰には「甲寅會/大正四年十一月植樹/大正五年五月建立」と刻まれ、その下に植樹にかかわった人達の名前が刻まれている。
 梅林の中に何故か、モクレンが咲いていた。
 19.札幌興風会の歌碑<2015(H27)4.27>
歌碑 碑文
 碑文には「英一/世の海の/そこれ玉藻も/としと志す/花さきそひて/世にぞ/かをれる/北海道神宮宮司/中野尹亮書」と刻まれている。
 碑陰には建立の辞が刻まれている。平成二年五月に建立されたようだ。
 20.宮崎芳男歌碑<2015(H27)4.27>
石碑 碑文 碑陰
 碑文には「われの住む・・・芳男」と刻まれていいるが、達筆でよく分からない。
 碑陰には「昭和61年9月28日建立/宮崎芳男歌碑期成会/宮崎芳男 歌歴/新墾社代表/潮音選者」と刻まれている。
 21.開道百年記念歌碑<2015(H27)4.27>
石碑 石碑
 碑文は、「今日のいのち/神一/謝しつつ/東風にあり/虎杖子」と刻まれている。
 碑陰には「開道百年記念/昭和四十三年六月/●乎吟社誌友一同建立」と刻まれている。
 22.沙羅の碑<2015(H27)4.27>
石碑 碑文 副碑
 碑文は、「木のもとに耒て拾へるにひるのまめ/ほとぼり持てり沙羅のしろはな/周三」と刻まれている。
 副碑には、沙羅の碑に添えてと題して、中山周三先生の略歴が刻まれている(建立は平成十二年九月二十三日)。
 23.白野夏雲の碑<2015(H27)4.27>
石碑
 碑文には白野夏雲と刻まれているが、その下に刻まれている文字は擦れてしまって読めなかった。
 24.さざれ石 <2015(H27)4.27>
石碑 石灰岩
 拝殿の前庭には、さされ石が鎮座し、解説板も設置されている。
 解説内容を読むと、昔、北大の国文の五十嵐教授が言われていたのと違うことに気がつく。
 五十嵐教授は、古代日本人の感覚で、科学的ではないが、川の上流から小さな石が流れて、流れ流れて河口に行くに従い大きくなって、最後に苔が生えると思っていたと言っていた。

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 散歩記録
 2019.4.28 2016.5.3 2015.4.27 2014.8.30 2014.5.5 2009.8.20 2008.12.9 2008.4.23