神威岬自然遊歩道
=チャレンカの小道=
(メノコ岩 神威岩 神威岬 神威岬灯台 近隣に水無しの立岩・念仏トンネル 展望台121m)

 ポイント
 遊歩道は整備されてはいるが、格子鉄板の歩道もあるのでハイヒールでは無理だ。見所が沢山あるが、案内板がないので、予め計画を立てて見て歩くと楽しい。

 アクセス
 雷電国道(229号線)の積丹町草内に神威岬の入口がある。全線舗装で、大きな無料駐車場があり、レストラン「ペニンシュラ(Peninsula:半島)」もある。
  国土地理院地図 GPSトラックは山の地図帖「2009.10.15」へ 周辺地図
 10月15日<2009(H21)年 展望台経由往復2.814km 1時間>
 駐車場から展望台への道を見ると菱形に道が付いているのが見える。最初に、この道の外側を辿って、展望台を目指して手摺の付いた木段を登って行く。ジグを切りながら尾根に上がると待望の神威岬が見えて来た。神威岬に背を向けて展望台へ向けて登って行く。
展望台へ 木段が(大×) 神威岬が 展望台へ(大×)
 展望台に上がると360°の大展望が広がっていた。まず、お目当ての神威岬から時計回りに、崖の下に水無しの立岩、海の向うに積丹岬と見回す。
展望台 神威岬が 水無しの立岩 積丹岬を
 山側は三角点「神威崎148.70m」の山腹に走る道路が駐車場まで続いている。その奥に、積丹岳、余別岳、珊内岳、大天狗岳と山が連なっている。海岸線にはたこ岩が見えその奥に苫前岬が見える。
                      ←大
積丹 余別岳     珊内岳   大天狗 たこ岩 苫前岬
 駐車場からは真っ直ぐ神威岬に延びる遊歩道があり、それに沿って電磁台、ゲートは見えないが電磁台の陰にある。その奥に行く手を遮るような尖ったコブが続いている。まるで恐竜の背中の様に見える。最後の岩に灯台が見え、海の中に神威岩とメノコ岩が連なっている。
                      ←大
駐車場          電磁台 ゲート  灯台 神威 メノコ
 景色を見終え、足元にある「神威岩・神威岬の伝説」が書かれた説明板に目を落とす。伝説を読み終えて展望台を後にする。水無しの立岩を振り返りながら、遊歩道に向かって下る。
説明板 展望台 水無しの立岩 遊歩道に向かって
神威岩・神威岬の伝説
文治五年(一一八九)平泉の戦いにやぶれた源義経
は兄頼朝に追われ、蝦夷地の日高平取の酋長宅
にたどり着いた。
酋長の娘「チャレンカ」は義経を強く恋い慕って
いたが、義経は時を空しく過ごすのに忍びなく、
行方を告げずに酋長宅を出て北ヘ進み、神威岬
にたどり着く。
それを知ったチャレンカは義経を追い、やっと
神威岬に着いたが、時遅く義経はすでに船出し
た後だった。
遥か沖を行く船に向かい、神威岬からどんなに
呼んでも及ばず、悲しみに泣く声は吹きすざぶ
風の音にかき消され義経の耳へは届かなかった。
悲しみにうちひしがれたチャレンカはついに気
が狂い、神威岬から海へと身を投じた。
そして間もなく、チャレンカは神威岩に化身し
たと伝えられている。
「和人の船、婦女を乗せて、
           ここを過ぐれば転覆せしむ」
これはチャレンカが最後に残した呪いの言葉と
いわれている。
以来、神威岬と神威岩は「オカムイ」と称され、
女人禁制の場所になったと伝えられる。
 円筒状の何かを載せていた様な構築物が見えて来る。近づいて、説明文を読むと、電磁台だった。ここにもロシアの影があったのかと、今更ながら思う。明治37年と言えば日露戦争の真っ只中の出来事だが、昭和15年は太平洋戦争の1年前なのに、ロシアが北海道を狙っていたとは知らなかった。電磁台の入口があったので、振り向いて見ると、水無しの立岩も見えていた。
電磁台へ 電磁台の説明 入口 水無しの立岩
電磁台(電波探知塔)
明治三十七年五月六日、神威岬の無電所が神威
岬沖合にウラジオ艦隊が出没していることを受
電し、それが原因で大騒ぎになったことがある。
翌年の明治三十八年五月六日にも神威岬沖合に
ロシアの軍艦が出没したことで騒ぎが起こり、
住民の安全を守るという意味で灯台を一時消灯
したことがあった。
昭和十五年、ロシア軍が北海道に上陸する情報
をキャッチするため無線塔一基、レーダー三基
を神威岬に設置する計画を立て、二年後の昭和
十七年に完成した。
その名残がこの電磁台である。
 電磁台を振り返り、神威岬の遊歩道ゲートに向かって下って行く。ゲートは直ぐ近くで、休憩所もある。ここから、観光客に混じりゲートに進む。ゲートは江戸時代風で、ゲートの両方にある注意書きや由緒書きも江戸時代風だ。
電磁台を 神威岬 ゲート 由緒書き
 ゲートの上には女人禁制の地の看板が架っている。ゲートからはあれが神威岬だと言わんばかりに見えていた。ゲートから階段を下って行くと、途中に念仏トンネルの説明がある。読むとワリシリ岬が事故現場だが、念仏トンネルのあるのはワリシリ岬ではなく、ワリシリ岬は余別の近くだが、ワリシリ岬の名前が移動したのだろうか。
女人禁制の地看板 ゲートから神威岬を 念仏トンネルが 念仏トンネルの説明
念仏トンネルの由来
大正一年(一九一二)十月二十九日午前八時半ご
ろ、神威岬灯台の草薙灯台長夫人、及び土谷補
員夫人とその二男(三歳)が天長節(天皇誕生日)
のお祝いの品物などを買い出しに余別市街へ行
く途中、ワクシリ岬付近で荒波に足をさらわれ
海中に落ちて溺死した。
ワクシリ岬は断崖絶壁、下は波打ち際の険
しい地形で、なぎや干潮の時はわたることがで
きるが、そうでないときは容易に越えることの
できない難所である。
土地の人々はこのような海難事故が再び繰り返
されないようにするため、大正三年にトンネル
を造る計画をたて着工した。
開削作業は岬の西側と東側の両方から同時に始
められたが、測量計画の誤算か開削技術が未熟
なためか、トンネルの中央で食い違いが生じ工
事が頓挫してしまった。ところが村人たちが犠
牲者の供養をふくめ、双方から念仏を唱え鐘を
打ち鳴らしたところ、その音で掘り進む方向が
わかり工事を再開することができたのである。
このようにして対象七年十一月八日に開通とな
り、以来「念仏トンネル」の名がある。
また、この全長六十メートルのトンネルは割合
低く中が真っ暗なため、「念仏を唱えながら
通ると安全である」と言い伝えられている。
 コブに向かって遊歩道を辿って行くと、道はコブの北側へ逸れる。格子板の通路は絶壁に架かっているので、南側の大天狗岳やたこ岩、苫前岬が良く見える。振り返ると念仏トンネルの入口が四角く見える。昔は念仏トンネルから海岸線を辿って神威岬に来たのだが、今は通行止めらしい。
コブに向かって コブの横を たこ岩・苫前岬 念仏トンネルを(↑大)
 積丹ブルーと呼ばれている綺麗な海を眺めながら格子板の通路を渡りきる。道端には、まだ、エゾカワラナデシコが咲いていた。遊歩道は細い稜線になり、コルへと下って行く。
綺麗な海 格子板の通路を エゾカワラナデシコ(大×) 細い稜線
 キク科の花も道端に咲いていた。最後のコブが目の前に見えて来ると、コルになり、昔、海岸線に下って行った道の痕跡がわかる。稜線が流亡して通路が無くなったところには格子板の通路がある。
キク科の花(大×) 最後のコブが 海岸線の道 格子板の通路を
 振り返ると、青く綺麗な海岸線の奥に水無しの立岩と念仏トンネルが見え、稜線に延びる遊歩道は万里の長城の様な雰囲気が漂う。
            ←大
立岩 念仏トンネル 以前の遊歩道 万里の長城のような遊歩道
 余別層と呼ばれるほぼ水平の地層が露出している小山が見えてくる。チベットのカイラス山に似ていると言う人もいる。近づいて行くと、砂岩や泥岩の層に火山砕屑岩の層がサンドイッチになっている。露出した地層の傍を通り抜けると、白と黒の灯台が見えてくる。地層の小山の上には土壌侵蝕で、何かの基礎コンクリートが浮き出ていた。以前、灯台守の家族が住んでいたので、住居跡かも知れないと思う。
地層の小山 地層 灯台が 侵蝕された
 最後の一コブ越しに神威岩とメノコ岩が見えて来る。余りに奇妙な地層なので見ながら辿って行くと、た。ツートンカラーの灯台が見えて来た。灯台にはプレートが嵌め込まれていて、「神威岬 初点 明治21年8月25日 改設 昭和35年4月1日」と彫られていた。灯台の説明板もあり読む。
神威岩が 灯台が プレート 灯台の説明
            神威岬灯台
       〜女人禁制の地に建つ灯台〜
 この灯台は、北海道庁が明治21年(1888年)から6年間にわたって20基の灯台を
建設した最初の灯台であり、明治21年(1888年)8月25日に初点灯しました。北海
道の現存する灯台では5番目に古いものです。
 この灯台は、船舶が安全に航行するための大切な施設です。
 この施設の異常を発見した場合や、何かお気づきの点がございましたら、下記の
管理事務所までお知らせください。
 位 置     北緯  43度20分00秒
          東経 140度20分51秒
 光り方     単閃白光 毎15秒に1閃光
 光の強さ    17.0万カンデラ
 光の届く距離 21.0海里(約39キロメートル)
 高さ       地上から灯台頂部 約12メートル
           水面から灯火    約82メートル
 管理事務所  小樽海上保安部
           電話0134-23-0481
 灯台の壁には最近貼られたと思われる説明板があり、斜め読みするが事故現場がワリシリ岬とは書かれていない。銅版の説明には昭和18年まで、灯油の灯りだったようだ。大きなランプの様な物だったので、ガラス面の煤を取るのが大変だったろうと思う。
 神威岩やメノコ岩は灯台の目の前に広がっていた。岬展望広場のビューポイントには親子連れの先客がいたので、空くまで銅製の方位板を見る。方位盤には、ソウル、ハバロスフク、サハリン、姉妹都市(米)シーサイドの方向や、神威岩の高さ40m、胴回り50m、別名千畳岩だと彫られていた。千畳岩の面積は本当は2,100坪位なので、4,200畳と大きい。メノコ岩は600坪位なので、千畳岩だろうと思う。
 親子連れが帰って行ったので、ビューポイントで神威岬を見る。すると、何か忘れ物でもしたのか親子連れが戻って来た。奥さんからデジカメを渡され、シャッター係りをおおせつかる。神威岩をバックに1枚祈念写真を撮す。女の子はずーっと泣いていたが、何処かで転んで脛を擦り剥いていた。愛棒がバンソウコウを探すが、持ち合わせがない。
灯台の説明 灯台の説明 方位盤 神威岩を
 北の辺境の地で、日夜航海の安全のため「守灯精神」のもと厳しく、辛い灯台守の生活と
地域の方からの敬意をここに御紹介します。
 そして、安全への願いを込めてこれからも光り続ける灯台を大切にして下さい。
◆「恨みますぞいお神威さまよ、なぜに女の足をとめる」(江差追分)
ここ神威(かむい)岬は風光明媚な景色を人々に堪能
させてくれる一面、古くは西蝦夷三険岬の一つとして、
航海の難所として知られています。
 灯台ができた明治21年(1888年)には職員3名が勤
務し、灯台にたどり着くには余別の集落から片道4kmも
の険しい山道を登ったり、降りたりしていました。
 特に、岬に近づくと崖が続き一歩踏み外せば海に落
ちてしまう怖いところが何箇所もあり、子供や女性にとっ
ては困難を極め、灯台の職員家族や灯台を訪れる人
は、海岸の大きな石を飛びはねながら伝って歩くのが普
通でした。                               灯台遠景(撮影年不祥)
 生活は、天水を貯め、これを生活水として利用し、電
気のない時代ですのでランプを灯し、食料は自給自足
が欠かせなかったようですが、米、味噌、醤油、塩とい
った日用品は木船の備船で買出ししていました。
◆「何阿弥陀仏、ナミアミダブツ、なむあみだぶつ」
 大正元年(1912年)10月の天皇誕生日に灯台長
婦人と三歳の次男、補助員の奥さんがお祝いの食料
品を買出しに余別まで行く途中大波に飲み込まれ行方
不明になってしまいました。                    灯台と神威岩(撮影年不祥)
 村人たちは、これに心を痛め協力してトンネルを掘ることになり、手にタガネ、ハンマー、そ
して掘り出した岩を運ぶモッコなどの道具をもって集まり、光りが届かない真っ暗な中、一ノ
ミ、一ノミのみ堀り続け、7年の歳月をかけ大正7年(1916年)に心暖まるトンネル(念仏トン
ネルと呼ばれています。)が完成し、灯台職員や家族、そして灯台を訪れる人たちの安全
が守られました。
 神威岬灯台は昭和35年(1960年)の無人化になるまで、職員90人とその家族により守
られました。
 参行文献:「北の灯台を守る人々」小山心平著
        「灯台風土記」燈光会刊
                           第一管区海上保安本部
                           小樽海上保安部 平成21年9月
  神威岬灯台のあゆみ
・明治二十一年八月二十五日
  神威岬灯台が北海道では五番目、鉄造りと
  しては二番目の灯台として初点灯する。
  工費は二万五千四百九十四円九十銭八厘が
  掛けられ、第二等反射器と単芯石油灯九個
  からなる回転石油灯が使われた。
  灯質は閃白光で四十秒毎三閃光、光度は四
  千蜀光、光達距離は十八海里(三十三・五キ
  ロメートル)と記録されている。
・大正十二年六月十日
  灯台の建て替えと機器の改修工事を行い、
  フランスのソータハーレー社製第一等フ
  レネルレンズが装備される。
  (現在は九十センチ回転灯器)
・昭和十八年十一月五日
  電力を導入し、千五百ワットの電球を使い
  始める。(現在は千ワット電球)
・昭和三十五年四月二十八日
  灯台の建て替えと機器の改修工事(無人化)
  が完成し、鉄筋コンクリート造りの灯
  台になり、八月三十一灯
  に無人灯台になる。
  初点灯から七十二年間で八十七名(三十三
  代所長)の職員が居住勤務したが、この日
  をもって有人灯台の歴史に終止符を打つ。
・昭和四十年四月一日
  小樽航路標識事務所の所管となる。
  神威岬灯台は、今も積丹の海の安全を守る
  重要な施設として機能している。
 親子連れが帰って行って誰も居なくなった岬から、われわれも引き揚げることにした。振り向くと、灯台を中心に、左に積丹岬、武威岬、ワシリ岬、水無しの立岩、右に積丹岳、余別岳、珊内岳が見えていた。
                      ←大
積丹岬  武威 ワリシリ 水無しの立岩  灯台 積丹 余別岳  珊内岳 
 再び、地層の小山の傍を通ると、愛棒が山肌に何かが埋まっていると言う。火山の貫入岩にしては白く脆い岩だった。地層の小山を不思議な気持ちで見ながら通過する。再び、万里の長城の様な光景が目に入ってくる。積丹岬も真正面に見えて来る。
地層の小山 地層の山を 万里の長城を 積丹岬を
 断層の小山を下って行くと、丸太を担いで汗だくの男性が上がってくる。岬広場に工具が置いてあったので、柵の補修のようだった。コルに下りて行くと、海岸線に下る分岐に昔の道標の柱だけが残っていた。昔はここから下りて、波打ち際を歩き、念仏トンネルを通れたのだが残念だ。念仏トンネルを遠望して遊歩道を帰る。途中で、親子連れを追い越すが、まだ、女の子は泣いていた。木段を登って行くと、目の前に地層が見えるが、上にかぶさっている泥岩が随分と侵蝕されているようだった。
丸太を担いで 海岸へ下る道跡 念仏トンネルを 木段を
 途中、岬を振り返ると、灯台が小さく見えていた。平らになった遊歩道をつめるとゲートに到着する。ゲートからは真っ直ぐ駐車場に下る。駐車場の入口には、協力金一口100円の募金箱がある。
岬を振り返る ゲートが見える ゲートに到着 駐車場へ
 駐車場に着いて、愛棒が車の中からバンソウコウを探して、女の子に持って行った。

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 二人の山行記録
 2009(H21)年10月15日(木)
 晴れたり曇ったり 展望台経由往復2.814km 1時間
 12:46駐車場→12:54展望台11:56→13:04電磁台→13:05ゲート→13:21灯台→13:22神威岬13:27→13:28灯台→13:42ゲート→13:46駐車場