中央区の碑
 札幌市道路元標 札幌農學校用地第九號標 原子修氏の歌碑 北海道庁立札幌高等女学校・大通小学校跡 石森文学広場 石森父子の碑 石森延男歌碑 吟魂碑 相良義重歌碑 馬頭観世音の碑 あゝ結城先生の碑
=風景写真をクリックすると大きなサイズになります=
 札幌市道路元標 <2015.12.23>  国土地理院地図  周辺地図
 道庁正門前に、札幌市道路元標が鎮座している。レンガの壁には元標を解説しているプレートが嵌め込まれている。
道庁正門 元標 プレート 道庁赤レンガ
 札幌農學校用地第九號標 <2016.6.8>
時計台南側 標石
 札幌時計台の南側には標石が鎮座している。標石には「札幌農學校用地」「第九號標」と刻まれている。
 原子修氏の歌碑 <2016.6.8> 周辺地図
 創成川に架かる北一条橋の袂にある創成川公園内に、原子修氏の歌碑がある。読めない石碑の多い中、読み易い文字でふりがなも打ってある。
創成川 歌碑 碑文 碑陰
 北海道庁立札幌高等女学校記念碑・大通小学校跡 <2016.6.9> 周辺地図
交差点の一角に 石の造形物の裏に
 石山通の北2条と1条の交差点に門柱や石の創造物や石碑がかたまっている。
 石の創造物は無いを表現しているのかさっぱり分からないが、石の後ろに{記憶素子「丘」・「森」 1989 丸山隆}と刻まれている。
 北海道庁立札幌高等女学校記念碑には副碑もあり、札幌北高の前身が女学校だった旨のことが刻まれている。碑陰を見ると建立は平成4年11月と刻まれている。
 門柱は札幌軟石と思われ、右に「札幌市立大通小学校」、左に「児童通用門」の石板が嵌め込まれている。
記念碑 副碑 大通小学校の門柱
 石森文学広場 <2006.11.5>  国土地理院地図  周辺地図
 藻岩山ロープウェイの玄関先に、藻岩山の大きな看板があり、その下に石森文学広場の看板があった。中に入ると水の枯れた石垣造りの水場と思われるものが目に付いた。その奥には小熊(おぐま)亭が瀟洒な佇まいで待ってくれていた。この広場には歌碑や文学碑が鎮座している。
旧山麓駅 広場の入口 水場 小熊亭
 石森和男文学碑
 石森文学広場と銘打っていので、広場の真ん中に、文学碑が鎮座している。
われらが愛する北海道
  第一章
十一州のしずめなる
ヌタプカムウシベ峰高く
われらが心をあらわして
国のも中にそびえたり
  第二章
その山かげをめぐりくる
石狩川は底清く
われらが心をあらわして
大野が原を流れたり
    第三章以下略
  作詞石森和男
 
 石森父子の碑について
碑文
 石垣に、親子の石碑の副碑のように石碑が嵌め込まれていた。
 
     石森父子の碑について
       父 石森和男氏の歌碑は
           昭和三十三年七月建立
 氏は万延元年(一八五八年)宮城県に生まれ 東京大学
古典科を卒業 明治二十九年から三十七年まで北海道師範
学校に勤め その後税務監督局 樺太庁を経て 札幌一中
札幌高女に教鞭をとる
 歌人であり 多くの短歌を遺しているが 校歌や唱歌も
作詞し 碑文の「我らが愛する北海道」は 当時 広く道
民に愛唱された
       長男 石森延男氏の文学碑は
            昭和五十六年五月建立
 氏は明治三十年(一八九七年)札幌市に生まれ 北海道
師範学校を卒業 のち 東京高等師範学校に学ぶ 教職の
経験のほか  文部省図書局監修官として 戦後初の国定
教科書「国語」の編集に当たる
 児童文学者であるととともに 国語教育者であり 「咲き
出す少年群」(新潮賞受賞)「コタンの口笛」(小川未明
賞受賞)「パンのみやげ話」(野間文芸賞受賞)など 多
くの文学作品のほか 教師のための文献も多い
 石森延男歌碑
歌碑
 誰でも読める確りした字体で、刻まれていて安心して読むことができる歌碑だった。
 吟魂碑
吟魂碑
 碑文には大きく「吟魂碑/鳳帥出」と刻まれ、副碑には歌が刻まれている。台座には「創建20周年記念/鳳帥流現代朗吟会/1985:昭和60年10月13日建立」と刻まれている。
藻岩の四季
白いこぶしや山桜
春暁覚めて
   山腰に咲き
山麓の花園は
   陽光に萌え
生彩の気
   ちまたにあふる
 尾角風師●●
 
 相良義重歌碑
歌碑
 誰でも読める確りした字体で、刻まれていて安心して読むことができる歌碑だった。
霧去りて雫したたる
笹の葉に高山蝶が
来て羽たたむ 義重
 
 馬頭観世音の碑<2012.12.3>  国土地理院地図  周辺地図
石碑
 小別沢線の沿線に小別沢会館があり、その前に馬頭観世音の碑が鎮座している。碑陰には昭和10年9月17日と刻まれている。
 あゝ結城先生の碑<2011.11.18>  国土地理院地図  周辺地図
 盤渓小学校の正門には「許可なく校地内へ侵入は禁止します。学校長」の看板が架かっていて、気後れするが、学校関係者に出会ったら許可を求めようと校門から入ってみる。校庭の網のフェンスには、生徒が焼いたと思われる陶器のお面が括り付けられている。校庭に入ろうと思ったら、冬期閉鎖中のようだったが、無害進入なので、アスレチックのある山側へと辿る。
 石碑は校章と共にあり、石碑を見ると「あゝ結城先生」と彫られていた。傍に、碑文があり由緒が刻まれていた。
正門 石碑と校章 石碑 碑文
 碑文を見ると大正11(1922)年12月22日の夜中に、吹かれて亡くなった先生の追悼の碑だった。当時は、小別沢のトンネル(1928年完成)が無かったのでその上にある割れ目を超えて盤渓まで来たのだろうか。
   故結城先生を偲ぶ
今は昔熊笹道を覆ふ盤の
沢開拓に勵む頃四十二年前童
心に哀しい想い出を残した。
あゝ先生がこの地に御着任以
耒六年の星霜内容整備充實
尽痒校舎新築亦成り永年待
望の小学學校昇格をむかえた
大正十一年十二月二十三日落成式前日
教育勅語戊申詔書奉遷の途上
山の夜道の猛吹雪大自然の猛威に先
生遂に力尽く生死の境紋衣で
包み堅く抱きあたら四十二才尊い
殉職の身となる
先生常に児童と金剛石をうたって金
剛石先生と敬称され慕われつゝ校下の
信頼を深められた
あゝ先生の尊い御霊に永遠にこの
地にとゞめる 先生を偲ぶ教えを子
同志の方の心は凝ってこの記念の
碑となりました あゝ先生
       進藤子撰文清碧山人書
 碑裏にも建立年が刻まれてはいなかったが、大正11(1922)年、の出来事で、碑文には42年前と刻まれているので。昭和39(1964)年の建立と思われる。

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