千代田区の風景
   東京駅 駅前広場 浜口首相遭難現場 原首相遭難現場 常盤橋門跡 二重橋 桜田濠・凱旋濠 桜田門 法務省旧本館 国会議事堂 三権分立時計塔・尾崎行雄碑 日本水準原点標庫 広告記念像 千鳥ケ淵公園
=写真をクリックすると大きなサイズになります=
 東京駅 <2013.5.23> 周辺地図
 2012(H24)年10月1日に新しくなった東京駅を見ようと、丸の内南口へと向かう。突然、開放的な空間になり、思わず見上げてしまう。これがドーム天井なんだと、目を見張る
ドーム天井 十二支 解説板('16)
。 後で分かったことだが、方位を兼ねて十二支のレリーフが嵌め込まれている。黒い部分は戦争で焼け残った当時の部材だと言う(ドーム天井写真の右上)。
 ドーム天井は北側にもあるらしいが、見落してしまう。
外観
 外に出ると、大きすぎて一枚の写真に納まらない駅舎があった。
 新しい駅舎の写真を撮す人や、珍しそうに眺めている人が大勢いた。
 東京駅前広場 <2015.5.20> 周辺地図
 駅前広場には、解説板がある。
東京駅 駅前広場の解説板 東京駅を振り返る
 浜口首相遭難現場 <2016.5.25>
現場 解説板
 東京駅中央通路と北通路のを結ぶ通路にある。日本も昔は物騒な所だったようだ。当日は、伊勢志摩サミットの警戒が厳重で、警官が随所に立っていた。うろうろしながら探すが中々探せなかったので、駅構内の清掃員と思われる男性に聞いてようやく辿り着けた。
 原首相遭難現場 <2016.5.25>
現場 解説板
 東京駅南口券売機傍にある。
 常盤橋門跡 <2016.5.25>
石垣
 常盤橋門跡を探すが、常盤橋から北側の石垣が気になってしまう。石垣には工事中で近づけなかった。常盤橋も眼鏡橋だとは知らずに通り過ぎる。
 一石橋の親柱 <2016.5.25>八重洲1丁目11番地先
解説板 親柱
 詳細は江戸東京400年のルーツを歩く〜日本橋編〜16に載っています。
 下の一石橋迷い子しらせ石標は17です。
 一石橋迷い子しらせ石標 <2016.5.25>八重洲1丁目11番地先
表・右 裏・左 解説板
 石標の表には「満よひ子乃志るへ」、右には「志らする方」、左には「たつぬる方」、裏には「安政四年丁己年二月/御願濟建之/西河岸町」と刻まれている。
 この石標の表下の不の文字は文字ではなく几号水準点を表す記号。
 二重橋 <2015..5.20>
 皇居前の広場を桜田門方向へ歩いて行くと、二重橋が見えてくる。
皇居前広場 二重橋が 二重橋 桜田門へ
 桜田濠・凱旋濠 <2013.5.21> 周辺地図
 内堀通りには、散歩している人、走っている人、景色を楽しんでいる人等が集っていた。桜田門は改修中だったが、桜田濠や凱旋濠を眺めて東京の貴重な自然を満喫できた。
桜田濠 凱旋濠
 
 桜田門 <2014.5.22 2015.5.20> 周辺地図
 
桜田門('14) 桜田濠('14)
 
桜田門('15) 桜田門傍の案内板('15)
 
 法務省旧本館 <2013.5.21> 周辺地図
法務省旧本館
 東京メトロの桜田門の出口から地上にでると、綺麗な建物が目に飛び込んでくる。
 この建物は法務省旧本館で、東京建築遺産にもなっている。ドイツ人技師によるドイツ風ネオ・バロック様式の建築物とのこと。
 レンガの石垣に真っ赤なサツキの花に囲まれた姿は美しい。
 
 国会議事堂 <2014.5.22 2015.5.20> 周辺地図
国会議事堂('14) 国会議事堂('15)
 桜田濠の傍を辿ると、国会議事堂が見えてくる。
 
 三権分立時計塔・尾崎行雄碑 <2013.5.21 国会前庭北地区洋式公園内> 周辺地図
 内堀通りを上って行くと、六本木通りの交差点から国会議事堂が見えて来る。目の前には、憲政記念会館の前庭があり、時計台の頭が見える。その森の中に入って行くと、時計塔と石碑が並んでいた。時計塔は3面で、立法・行政・司法の三権分立を現しているようだ。塔の高さは、「百尺竿頭一歩を進む」のことわざの百尺(30.3メートル)を越えて31.5メートルにしたというが、時計の位置が高すぎて、見る人のために建設したとは思えないものだった。。昭和35(1960)年7月に完成したようだ。その傍に、四角い花崗岩があるが、良く見ると尾崎行雄の碑だった。
国会議事堂が 憲政記念会館の森 時計台 石碑と時計台
 尾崎行雄の碑は、碑表と碑陰がどっちなのか、良くわからない。建立の当時には読み易い白い文字だったと思われるが、今は、光って何が刻まれているのか読みにくい。
 碑陰には、碑文2と碑文3「碑文起草:阿部真之助氏、碑文揮毫:文学博士石橋敬十郎氏、花崗岩寄贈:株式会社鈴木石材店、工事:柴田石材工業株式会社」と刻まれていた。
碑文1 碑陰 碑文2 碑文3
碑文1
                 尾  崎  行  雄        1858−1954
 尾崎行雄は民主主義と世界平和とのために一生をつらぬいた。若くして自由民権運動に身を投じ、保安条例に座し
て首都を追われ、海外に亡命したが、国会解説とともに衆議院議員に選ばれ、以来、議席にあること63年、世界議
会史上の記録をなした。素志は藩閥軍閥の打破、民主政治の確立にあり、あらゆる権力に弾圧に屈せず、つねに民衆
の陣頭にあってたたかった。その雄弁は天下に鳴り、憲政擁護の起るや、世は彼を仰望して権勢の神と称した。
軍国主義が一世を支配し、戦雲急なるに及んでも、平和の信念をまげず、三たび辞世をふところにして議政壇上に立
ち、国論に警告することをやめなかった。つとに世界連邦を提唱し、議会政治の父と仰がれつつ一生の幕を閉じた。
風を追慕する国民の支援と国際的賛助とにより、ここにこの記念会館が成ったのである。
                            1960年2月25日しるす
碑文2
            尾     崎    行   雄   略   歴
1858年11月20日神奈川県津久井郡津久井町又野に
  生まる。父は行正、母は貞子、長男は幼名彦太郎
1874年慶応義塾に入り、福沢諭吉に学ぶ。
1879年福沢諭吉の推薦により新潟新聞主筆となる。
  81年退社上京す。
1882年報知新聞に入り、’90年まで各紙記者として
  活躍す。大隈重信をいただき改進党を組織す。以来政
  党活動に身を投ず。
1885年東京府議会員となる。
1887年保安条例により3年間東京退去を命ぜられたの
  を機会に欧米を視察す。
1890年日本最初の衆議院議員総選挙に三重県より立候
  補し当選する。以来同一選挙区より25回連続当選す。
1898年大隈、板垣連立内閣樹立に文部大臣として入閣す。
1903年第2代東京市長に就任す。(国会議員はそのま
  ま)
1910年国会議員として万国議員会に出席後欧米を視
   察す。
1912年桜苗木3000本をアメリカに贈る。水源林の
   確保、市街鉄道買収その他幾多の功績を残し東京市長
   を辞任す。
1914年大隈内閣の司法大臣に就任す。’16年辞任す。
1919年第一次世界大戦後の欧米の惨状を視察する。
1931年アメリカを経てイギリスに渡り。日本国民に対
  する遺言ともいうべき、「墓標に代えて」を執筆。ま
  た、欧州各地を視察す。33年帰国す。
1942年田川大吉郎選挙応援演説にからみ不敬罪容疑で、
  起訴さる。’44年無罪の判決を受ける。
1950年渡米、第二次大戦後の日米国交に貢献す。
1953年衆議院名誉議員、東京都名誉都民に推薦さる。
1954年10月6日永眠す。北鎌倉円覚寺黄梅院に埋
  骨さる。
 日本水準原点標庫 <2013.5.21 国会前庭北地区洋式公園内> 国土地理院の地形図 周辺地図
 憲政記念会館の前庭の一角にはパンテオン神殿のミニチュアのような石造りの建物が木立の中に佇んでいた。鬼瓦は菊なのだろうか、庇の下には菊の御紋にはさまれて「大日本帝国」の文字が浮き出て見える。その下に「水準原点」の額縁が見える。銅製の扉には菊の御紋が浮き彫りにされ、その下に妖精なのかこちらを向いていた。蝶番は下、鍵穴は上にあるが把手がない。扉の左右に孔の空いた四角い金属が見えるが、扉を開ける時のストッパを装着する部品なのだろうかと想像する。
標庫 大日本帝国 水準原点
 裏側には普通の扉とそれを固定すると思われる四角い金属部品が見える。再び、表に回り、日本水準原点と標庫の解説板を見る。 日本水準原点は、今年5月15日に一般公開したようだ。
裏側 原点の解説 標庫の解説板 標庫を後に
         日本水準原点
 日本水準原点は、わが国の土地の標高を測定する基準点となる
点である。明治24年(1891年)5月にこの場所に設置した。
 日本水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた
水晶板の目盛りの零線の中心である。その標高は、明治6年から
12年までの東京湾の潮位観測による平均海面から測定したもの
で、当時24.500メートルと定めた。
 その後、大正12年(1923年)の関東地震による地殻変動に伴い
その標高を24.4140メートルに改正したが、平成23年(20111年)
3月11日の東北地方太平洋地震による地殻変動に伴い24ミリ
メートル沈下したため、新たに24.3900メートルに改正した。

   平成23年10月21日              国土地理院
  東京都指定有形文化財(建造物)
      
日本水準原点標庫
               所在地 千代田区永田町一丁目一番
                         国会前庭洋式庭園内
              指 定 平成八年三月十八日

  日本全国の統一された標高決定のための基準
 として、明治二十四年(一八九一)五月に水準原点
 が創設されたが、この建物はその水準原点標を保
 護するために建築されたものである。設計者はエ
 部大学校第一期生の
佐立(さたち)七次郎(一八五六〜一九
 二二)。建物は石造で平屋建。建築面積は一四・九
 三uで、軒高三・七五m、総高四.三m。正面の
 プロポーションは柱廊とその上部のエンターブラ
 チュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)の
 レリーフの装飾で特徽づけられる。
  日本水準原点標庫は石造による小規模な作品で
 あるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式
 オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、
 明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴
 重である。
  平成九年三月三十一日 建設
                
東京都教育委員会
 ※この日本水準原点標庫は、千代田区特別登録有形文化財(建造物)として
  登録されています。
 広告記念像 <2014.5.22> 周辺地図
小公園 ライオン
 三宅坂小公園の真ん中に裸婦像が鎮座している。近づいて見ると、屏風のように石塀に囲まれていて、その真ん中にライオン像が設置されていた。ライオンの口からは水が流れ落ちていたようだが、今は涸れている。
 玉に乗った少年の像を見上げながら、回り込むと台座に載った銅像が見えて来る。近づくと、3人の裸婦像で、その裏には碑文が刻まれていた。この石碑は日本電報通信社が、戦後5年後の昭和25年7月1日創立50年を記念して建立されたようだ。顕彰者は不定期に、2012年まで追加されているようだ。
少年 銅像 裸婦 碑文
 
 千鳥ケ淵公園 <2014.5.22> 周辺地図
公園の看板 中学発祥の地碑 碑文
 千鳥ケ淵(半蔵門)公園の中に第一東京市立中学発祥之地碑が鎮座している。中学校は昭和3年1月に九段上に引越し、東京都立九段高校となったようだ。
 木立の切れた所から千鳥ケ淵が眺められる。
                               ←大
半蔵濠
 

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