| 飛鳥山(地主山25,4m) |
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ポイントとアクセス 東京都内で自然の地形の山としては、最低標高になる。山頂に公共基準点はあるが、国土地理院の認可が下りていないようだ。無料のパークレール 「アスカルゴ」に乗れば、一足飛びで山頂に行ける。因みに、アスカルゴは飛鳥山のアスとエスカルゴを組み合わせた造語とのこと。車両の形はカタツムリを連想させる。 国土地理院地図 Google マップ 飛鳥山公園|東京都北区 |
| 7月14日<2026(R8)年> |
| JR京浜東北線王子駅中央口から北口に取り付くと、アスカルゴと呼ばれているモノレールがあるが、歩いて登って行く。直ぐに山頂にたどり着くと、ケルン風の山頂モニュメントと方位盤兼基準点がある。 |
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| 案内板 | 山頂 | 山頂標識 | 方位盤兼基準点 |
| 山頂は、飛鳥山城跡でもあるようだ。東屋の中に象山先生櫻賦(sakuranofu)の碑があるが、掠れていて解読不可だった。その傍に解説板があり、ようやく内容が理解できた。明治維新百年植樹記念碑があり、碑陰には「北区自治会道舎人会建立」と何とか読めた。水上赤鳥の歌碑もある。 |
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| 象山先生櫻賦の碑 | 記念碑 | 歌碑 | |
| 歌碑の碑陰には「本名/水上健二/短歌結社/ぬはり社主幹/昭和五十四年/十一月建之/ぬはり社友/他有志」と刻まれている。飛鳥山の歴史の碑陰には「國際ロータリー創立七十五周年記念/東京都北区長 小林正子代謹書」と刻まれている。飛鳥山碑の碑文は全く読める所が無く、解説板が無ければ只の岩だ。 |
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| 碑陰 | 飛鳥山の歴史 | 飛鳥山碑 | |
| 飛鳥山公園は 明治六年に定められたわが国 最初の公園の一つです この公園のある台地は 上野の山から日暮里 田端 上中里と続いている丘陵の一部です このあたりは古くから人が住んでいたらしく 先土器時代(日本で最も古い時代) 縄文時代 弥生時代の人々の生活の跡が発見されています ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは 昔この 丘の地主山(現在の展望台の所)に飛鳥明神の 祠が祀られていたからと伝えられています 江戸時代の中ごろ元文二年(一七三七)徳川 八代将軍吉宗が この地を王子権現に寄進し 荒 地を整備して たくさんの桜や松 楓などを植え たので それからは桜の名所として有名になり 附近に茶屋などもできました その説明は右手 の大きな石碑に刻まれていますが この文 章がとても難しく すでにその当時から読み難い 石碑の代表になっていました 飛鳥山のお花見は 向島とともに仮装が許され ていたので まるで落語にでてくるような仇討の 趣向や変装などのためにたいへんな賑わいでした また 東側の崖からは カワラケ投げも行われ 土皿を風にのせて遠くまで飛ばす遊びも盛んでし たが 明治の末になって 危険防止のために禁止 されました この山は 東から西へのなだらかな斜面でした が 道路拡張のためにせばめられ さきに中央部 につくられていた広場の跡地に噴水ができ 夜は 五色の光に輝いています 昭和五十五年二月吉日 ? 東京王子ロータリークラブ |
| 明治三十七八年戰役紀念碑の碑陰には北豊島郡出征軍人の芳名がびっしりときざまれている。日露戦争に出征いた時の物らしい。展望広場からは北東方向が開けていて、手前に東北本線等、防音壁に囲まれた東北・北陸・山形新幹線、遠くに東京書籍ビル、東京福祉大学、王子キャンパスのビルが見られる。船津翁碑も掠れていて全く読む気がしなかった。解説板が無ければ何の碑なのか分からない。 |
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| 戦役紀念碑 | 展望広場から | 船津翁碑 | |
| 船津翁碑 北区王子一-一 明治時代の三老農(農業指導者)の一人として知られる船津 傳次平(一八三二-一八九八)は、上野国勢多郡富士見村(現群 馬県前橋市)に生れ、実験と学理に基づいた農蚕業の改良を唱 え、全国を回って農業技術を指導した。明治十年(一八七七)大 久保内務卿の推薦により駒場農学校(現東京大学農学部)の農場監 督となり、後に農務省甲部巡回教師、明治二十六念からは 西ケ原の農業試験場に技手として勤務した。没後、寄付者一六 八七名からの寄付金によって、明治三十四念、多くの人が集ま る飛鳥山公園に郷里を望んで記念碑が建立された。 【碑文】 船津翁の碑 元帥陸軍大将大勲位功二級彰仁親王篆額 近世三老農の中に就きて伎倆功績最も優れたるは船津傳次平翁なり、当時学理未だ開けきりしかは老農の称 あるものすら・・ ・・・省略・・・ 明治三十二年七月 従二位勲二等子爵品川彌二郎撰文 小野(金)書 井亀泉刻 平成三十一年三月 東京都北区教育委員会 |
| 紙の博物館に入ると、@土橋嘉右衛門顕彰碑A明治天皇行幸製紙所の碑B京都梅津磯野製洋紙売捌所看板Cパピルファブリックの高札Dパピルファブリック門塀が並んでいた。 |
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| 紙の博物館 | 入口 | 解説板 | |
| 嘉〇〇〇 笠置山之北有赤井谷清流環山而轉佳木翳薈巖崖峭絶中有平地 三大石森然聳立圓形玉色甞有洋容觀之嘖嘖稱其可用其他石之 可採者有三萬有餘之多而以其沿河亦甚便于運輸焉土橋嘉右衛 門者自其祖先時久有此地為人慷慨勇于爲義聞西京梅津将有造 紙塲之訳也躍然曰吾石可以供其用乎立請于官獻之蓋聞造紙塲 必要置大石缸以盛紙漿(氏巾)(将水)者碎布研末而加以曰磐興水者也 此石(缶工)者宜以堅好之石畳積而成以期于悠久不壊用石六万切而 内弐万切為其所獻今土橋氏一旦以此石供其用而製紙塲永(雨沾)其 恵(山豆)天預造此材蓄蔵而待時耶且此石不産于他山而必出于好義 者之地亦似非偶然者焉余既嘉其志故記文請弗敢辭也 明治九年一月二十七日東京敬宇中村正直撰 龍山槙村正直篆額 白巖川瀬益敬書 ※( )は2字を1字に、赤字は旧字、〇は見えるが漢字が無い |
| 千代紙塚の碑文は「千代がみの/うつくしき/見れば/わわすれゐ志(いし)/幼き時に/あふ心地する/聡子」と刻まれている。紙の博物館を出て、飛鳥山博物館のカフェ・ヴァーチュでおはぎを食べ、コーヒーを飲んで一休みする。青淵文庫に行くと、解説碑があり、まぐさ・露台基礎も展示されていた。 |
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| 千代紙塚・館長碑 | コーヒーブレイク | 青淵文庫 | まぐさ・露台基礎 |
| 青淵文庫に入って行くと、ステンドグラスが飾られていた。部屋の入口を潜ると、ステンドグラスを嵌められた窓やシャンデリアが部屋を飾っていた。 |
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| 青淵文庫 | ステンドグラス | 部屋の入口 | 綺麗な部屋 |
| 部屋は小さいが、欄間のようにステンドグラスを嵌め込まれたガラス戸が部屋を取り囲んでいて、開放感があった。階段は螺旋階段風で窓と相まって昔風のハイカラな雰囲気があった。晩香蘆は小さな庵という感じで、中には暖炉が備え付けられていた。釣り天井ではなく、三角屋根に沿った構造になっていた。 |
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| 綺麗な部屋 | 螺旋階段風 | 晩香蘆 | 天井 |
| 晩香蘆を振り返りながら外に出ると、案内板のあることに気が付く。公園碑や旧渋沢家飛鳥山邸の解説板があった。 |
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| 晩香蘆 | 案内板 | 公園碑 | 飛鳥山邸 |
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mym山行路記録 2026(R8)年7月14日 10:45-14:19 |